なんとなくサンネット日記

2013年5月27日

解?

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昔、田んぼの中の一本道だった

2007年は偽装が流行語になった年だった。料理店が一度客に出した食材を使い回したり、菓子製造会社が賞味期限切れの材料を使用したりの事件が立て続けに報道された。年の漢字には「偽」が選ばれた。

そんな年の9月、10月、ある悩みを抱えたぼくは、ビルのベランダでタバコを吸いながら、通りの向こうに見えるアスパム(青森県観光物産館)をボーッとながめたものだった。

ちょうど同じ時期、アスパムのなかのジョブカフェに、やがて秋葉原無差別殺傷事件を引き起こす加藤智大が1,2回通っていた。これは、ぼくが今になって知ったことだ。彼とこの通りですれ違っていただろうことを考えると、複雑な思いになる。事件はそれから8か月余のちのことだった。

加藤被告は、2011年に東京地裁で死刑判決を受け、東京高裁に控訴したが2012年9月に棄却。現在、最高裁に上告している。彼は自らの考えを、『解』(2012年7月)と『解+(プラス)』(2013年4月)にまとめて、出版した(いずれも批評社)。『解+』の副題には「秋葉原無差別殺傷事件の意味とそこから見えてくる真の事件対策」とある。加藤が考えた“事件の解答”である。http://www.hihyosya.co.jp/ISBN978-4-8265-0578-9.html

彼は、事件の原因を多くの人が納得できるかたちで語ることができないと思ったのだろう。この本では、どうしたら事件を避けられたかについて述べている。彼は「対策」を簡単に要約されてしまうことを望んでいない。要約してしまえば、それはあまりにも「あたりまえ」のことであり、ほんとうの深刻さが伝わらないと思っているからだ。

彼はこう言う。楽しみを予定に入れ、自分を含めた誰かのためにやるべきことも予定し、自分の日常の枠組みを整える。思い通りにならないことは考えないことで、感情をリセットする、と。

 「おそらくは、大抵の人は無意識のうちに、自然に、そうなっているはずです。だから、多くの人は、この結論に『そんなことで?』と思うでしょう。その通り、『そんなこと』で事件は防げます(『解+』p181)

加藤は、なぜ事件を起こしたのかを自分に問うことを避け、どうしたら事件を防げたのかという方向むかって舵を切る。自分の内面を見つめることから、具体的な方策を探し出すことに目を向ける。ぼくには、そのように選択する仕方に事件の原因があり、同時に、そこが、彼とのコミュニケーションが擦れ違ってしまう点ではないかと思う。

社会学者の中島岳志は、『解』が出る前年、この事件についての本を出版。加藤には友達がいたのに、なぜ孤独だったかという問いを立てた。裁判を傍聴し、彼の半生と彼が移動した行程を追った。まとめたのが『秋葉原事件』(2011年3月、朝日新聞出版)である。加藤が次第に現実から撤退し、架空のキャラを成り立たせるため現実を過ごそうとする逆転が、自分自身を追い詰めていくメカニズムとして働き、事件へと追い立てられていったと読者に語りかけ、加藤との間に架け橋を渡そうとした。http://www.npo-sannet.jp/blog/?p=1779

加藤は、この中島の本を読んだ気がする。そして二つの『解』はそのうえで書かれていると思う。

中島は、リアル世界に加藤を引きとめるすべがあるし、加藤にはその能力があったという。それを、人間関係のなかで号泣し、涙する加藤の姿のなかに見いだそうとしている。

アスパムのジョブカフェに行ったあと、加藤は10月末に車で東京にむかう。死のうと思いながら上野の駐車場に車を止めたまま、車で過ごす生活をしていた。半月も車はそのままだったので、不審に思った駐車場の管理人は警察官を呼ぶ。以下は中島の描いたその場面である。

 「何をしているのか」と問いかける警察官に対して、加藤は「自殺を考えている」と打ち明けた。すると警察官は、自殺を止めるよう説得した。警察官は、加藤の車が青森ナンバーであることに反応した。この警察官は生まれが北海道で、「同じ北国の出身だ」という話になった。…調書によると、この警察官は加藤に対して、次のようなアドバイスを送ったという。

生きていれば辛いこともあるが、楽しいことは必ずある。君はがんばりすぎだから、肩の力を抜いたほうがいい。

加藤は泣いた。駐車場の管理人は、とりあえず料金を払ってほしいと話した。駐車料金は「3万3500円」にもなっていた。彼は手元に現金がなかったため、借用書を書いた。管理人は「年末までに返してくれればいいから」と言った。(『秋葉原事件』P129)

中島は、このエピソードを人情味ある警察官と加藤との人間的ふれあいとしてとらえ、生きていれば…の警察官の言葉が「加藤の心に届いた」(P229)と考えている。そしてこのようなリアルな言葉と向き合うことが、彼にとってもっと必要だったと思っている。(同P231)

一方、加藤はこの場面を次のように描く。

気づくと、駐車場の管理人が警察官を連れてきていて、その警察官に、何をしているのかと問われました。久しぶりの人との会話に涙があふれました。…自殺しようとしていると、そのまま答えたところ、「生きていればいいことある」と言われ、私の心は凍りつきました。それは「(俺は何もしてやれないけど)生きていればいいこともある(だろうから、ひとりで勝手に頑張れ)」ということだからです。

 絶望していると、駐車場の管理人から、とりあえず駐車場から車を出すように言われました。金が無いと、答えると、料金は年末まででいいから、とも言われました。その瞬間、私は生きなくてはいけなくなりました。…その約束がある限り、孤独になっても絶対に孤立はしません。自殺のことなど、一瞬で消えて無くりました。(『解』P41)

加藤は、このエピソードの時系列を、①警察官たちと会う⇒①´加藤が泣く→②警察官の「生きていれば」の言葉⇒②´心が凍る→③管理人の請求→③´生きなければの思いが生起した、という順番で表現する。

その一方で、「生きていれば」の言葉→生きていたいという涙、という関係を否定する。心に届いていない、というわけである。しかし、ずいぶん不自然な説明ではないか。「何している」という言葉で涙が出るわけはないし、管理人と警察官が連れ立ってきたら何を言われるかは明白だ。涙が出るような会話はあるはずがない。

役割を超えた人間的なやり取りがあったから、涙が出たはずだが、その説明はない。すべて受け身のコミュニケーションだったととらえ、「請求=金を返す約束」が生きていこうというきっかけになったとという。「涙」の根っこは消去されてしまった。中島の言う「リアルな言葉との向き合い」をしっかりと拒んでいる。

加藤の説明は再構成されている。実際は次のようなやり取りになるはずである。①半月にわたる駐車場利用⇒①´管理人と警察官が来る、②加藤の説明⇒②´警察官たちの反応(言葉)、③加藤の涙⇒③´警察官たちの反応(言葉)…というのが自然である。加藤が何かをしたために、外部の働きが起きるのであるが、それを、加藤は、外部からの出来事が起きたから、自分がこうしたとさかさまに再構成しているのである。

加藤は、涙で代表される人間の深い感情を殺しているのではないか、彼の本を読むと節々でそう感じる。2008年6月8日の昼過ぎ、いよいよ車で秋葉原の歩行者天国に突っ込もうとしたとき、3回躊躇した。そのときのことをこう述べている。

 「(1回目の躊躇は)頭では突っ込むつもりでいるのに、体の方が勝手にブレーキをかけ」「考えるより前の段階の自分が自分に待ったをかけたような状態でした」「(2,3回目の躊躇も)頭では考えているのに、体が考えを拒否していました」…。(『解』P100-103)

殺人を起こそうとする考えに抵抗し、拒否する「自分」を、加藤は探さねばならないだろう。その「自分」をしっかりと自分で見出し、力づけ、はっきり表出できれば、被害者への心からの謝罪が生まれるのではないか。この謝罪こそが、事件を起こさないための「対策」であり、出発であるはずだ。それなくして、マニュアル的な対策などあるはずもない。ぼくはそう思う。

だから、加藤が言っているのは逆なのだ。人を殺してはいけないと感じている「自分」(魂)に待ったをかけ、そんな大事ことを感じないようにしているもう一つの〈自分〉がいるのだ。加藤は、「自分がない」とか、他人についてどのような関心もないと言うが、人としての魂を眠らせている〈自分〉がいるからではないか。涙を消去したのも、その働きがあるからだろう。ぼくにはそう思える。この考えをもう少し推し進めれば、彼の中にこそ「成りすまし」がいたのだ、と言える。それはひどく残酷な想定だが…。

秋葉原事件の直接の原因は、彼が生活の支えにしていた携帯電話の掲示板上に「成りすまし」が現れ、荒らしたからという。しかし、彼自身、ネット上で「成りすまし」行為も、荒らしもした。ネットではよくある、普通のことだ。

なのに、彼にむかって彼の「成りすまし」が現れた時、その誤った行為を改めさせるため、心理的なダメージを与えねばならず、だから秋葉原事件を起こした、という。この三段論法的ギャップ、つまり、不快ではあるけど良くあるできごとが、どうしたら、「成りすまし」の某氏を改めさせるための無差別大量殺傷事件を起こす決断につながるのか。いかなるジャンプを繰り返したら、その決断に結びつくのか。

自分自身にもともと「成りすまし」的要素があるのに、さらに「成りすまし」が現れた。それは〈自分〉の「成りすまし」性の暴露につながる、〈自分〉の世界全体の崩壊につながりかねない。そうやって急激にスパイラル状に、事件=破局にむかった…。そんなふうにぼくは加藤の本が読めた。深読みかもしれないが…。

少なくとも、彼の二つの本は事件の「解」などではないと思う。中島の指摘は加藤の本質をえぐっていて、それに抵抗しているように思える。加藤は自分の内側を知られまいと、一生懸命「自分」を閉ざすために本を書いたのかもしれない。死刑が確定しても、ゆっくり時間をかけて、閉ざされたこの扉を彼は開けられなければならない。扉を開けようとする「加藤」とは、もちろん、秋葉原でブレーキをかけた「自分」である。

加藤は中島らと対話をすべきだ。他者と対話をすることは、真の「自分」とも対話をすることだ。しかし、もうあまり時間は残されていない。

この場合、死刑制度の残酷さは、人を殺してはならないと必死にブレーキを踏み、他人の言葉に涙している「自分=加藤」を、殺すことになるかもしれないということだ。そして、アクセルを踏んで人ごみに向かった〈自分=成りすまし〉と、死刑制度はペアを組むかもしれないということである。ペアを組んだ二つは、いずれも真実から目をそらしているのである。

偽装とは、実に深いところでつながるものだ。加藤は二つの本を書いて、「説明責任」をはたしたと沈黙するのだろうか。もともと命のなかった「成りすまし」には良いことかもしれないが、閉ざされた扉の向こうで愛を求める「加藤=自分」がいたなら、それはあまりにも悲しすぎる(彼の「成りすまし」は、彼を虐待してきた母親のコピーとなることで、母を守ろうとしているように思えるので、「自分」が表出するのはそう簡単ではないと思う)。

こういった、いろいろなレベルでの成りすましは珍しいことではなくなった。自分で自分の本心を欺くことは、私たちの周りに「ふつう」にあふれるようになった。これは個人がかかえる精神病ではなく、私たちの社会がかかえこんでしまった社会の「病気」ではないだろうか。偽装を捨て去ろうという力を、私たちの社会が取り戻さねばならない。昔は「メッキがはがれる」などと言って、偽りは実生活の中で点検された。いまはなかなか分かりにくい「メッキ」が増え、実生活自身もメッキだらけになっているのが悩みの種である。

2013年5月13日

言葉の先

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:00 PM

わが家の庭にも春

■対話

ある人から、ダニエル・フィッシャーさんの、対話の6つの基本原則という話を聞きました。ダニエル・フィッシャーさんは、統合失調症からリカバリーした精神科医であり、ワークショップや全国規模の大会も組織している人です。

① 深く、ともに聴くこと。

② 自分の考えは脇に置いておいて、十把一絡げの考えにとらわれないようにする。

③ 互いの違う点や見えない部分を尊重し、大切にする。

④ 深い真実から話す。心から話す。

⑤ 心と心のレベルでつながる。

⑥ 互いの人間性を充分に大切にし、私たちは対等であるということを理解する。

 これは、他者にたいする態度、人としてあるべき姿勢、人と人が結びあう原則です。この言葉は、深いレベルで理解しなければならないと思います。

にもかかわらず、私はこの言葉を教えてくれた人に意地悪な質問をしました。

「もし、この言葉の本質をつかんでいないのに、文字通りに振る舞っている人がいるとする。
私には、その人が真の対話を望んでいる人か、あるいは、そういうそぶりをしながら、自分の利益に執着している人か、見分けることができるだろうか」と。

 その人は、だまって聞いていました。(沈黙は私にとってうれしいものでしたが…)

言葉は、あるところまでは連れていってくれます。山に登るとき、あるところまでは車で行けるけど、その先は車を止めて歩いていかなければなりません。

同じように、フィッシャーさんのいいたいことも、どこかの地点で言葉という乗り物をおかねばなりません。
言葉の力の限界にたどりつき、言葉に結びつく思考方法も脇に置けば、その先にとすすめてくれる力、それは何でしょう。それはどこから生まれるのでしょう。

 

■悔いる

5月6日朝日歌壇にのった歌です。

 

なぜお酒のませなかったかくやみつつ父のさいごをいまだに想う (摂津市 内山豊子)

 

この歌を選んだ撰者、永田和宏さんは次のように評しています。

内山さんはなぜ最後くらいは望み通りにしてやれなかったのかと悔いる。しかし、人を逝かせて何一つ悔いることがないなどということは、あり得ないのだ。

 いなくなった人を悔いる。この営みの結末は、誰にも属しません。決して満たされることもありません。だからこそ悔いるわけです。

永田さんは「悔いることがないなどということはあり得ない」と言いきります。人を逝かせた人は誰でも悔やむものだし、人とはそういう存在なのだといっているようです。だからか、永田和宏さんの選は、内山さんが第二首、第一首も見取りについての歌でした。

 

ストローを麦わらと言ひ水吸いぬ最期となりし白き唇 (町田市 高梨守道)

 

命はてるとき、彼岸にむかったその人と、此岸に残される「私」は永遠に別れます。この別離にむきあうとき、思わず言葉を紡ぎます。言葉に、選者は言葉を重ね、そうすることで、言葉の先の世界をくっきりと描いているようです。

互いに言葉を重ねた者どうしは、真にその先を見ている者か、言葉だけをもて遊んでいる者か、やがて知るのかもしれません。

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