なんとなくサンネット日記

2013年3月30日

解き放つ

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:05 PM

雪がとけていく

トラウマについて書いた翌日、環状島のことがある場面で話題になりました。

「偶然だ!」などと思っていたら、話の延長で、松田博幸さん(大阪府立大学)の「当事者性をめぐる自己エスノグラフィー」という論文を紹介されました。(『対論 社会福祉学4――ソーシャルワークの思想』収録)http://www.chuohoki.co.jp/products/welfare/3728/

本を取り寄せて、頁をめくると、原稿用紙50~60枚くらいの論文が、一つのテーマをめぐって2本ずつ載っています。だから「対論」なのです。4つのテーマ、8つの論文が1冊に入ります。テーマには、ポスト・モダン、社会構成主義という言葉が並びます。難儀しそうな論文がたくさんあります。

かつてぼくが知っていた社会福祉からずいぶん変わってしまったことに気づきました。社会学や哲学からの影響を受けているのです。

むかし、この辺は田んぼで、コトコトバスが走っていたはず…と思っていたところを久しぶりにたずねたら、田んぼはなくなり、団地や大きなショッピングセンターが立ち並び、自動車専用道路や大きな公園が縦横にできていて、私は浦島太郎になった…という感じでした。

松田さんの論文は、「ソーシャルワークにおける当事者との協働」というテーマにそっていて、もう一つの対論の論文は向谷地生良さん。お二人の論文とも、それぞれやり方で、個人史とその時々の社会背景をクロスさせ、言葉を紡いできた経過を語り、思考を展開していました。

松田さんは自分のありようと経験を、この世界につなげて描こうとすれば、それまでのソーシャルワーク理論からずれなければならなかった。5年間仕事をしたあと、挫折を経て大学院で研究生活をスタートする時のことを次のように述べていました。

“ソーシャルワーカーはどうやって援助を展開すればよいのか”という点から研究をスタートさせることが、私にはどうしてもできなかった…一言でいえば、クライエントの自立性を尊重するといっても、それは(既存の)援助(方法)という枠組みそのものを根本的には問い直してはいないのではないかという違和感であった。そして、私の関心はセルフヘルプ・グループ研究へと向かっていった。セルフヘルプ・グループの人たちとつながればつながるほど、「溝」や「違和感」は深くなっていった(p231)。

セルフヘルプ・グループ研究のなかで、ポスト・モダンの潮流にであっていくようです。リチャードソンの言葉を引用しつつ、松田さんの研究・発表スタイルの説明にもなっています。

ポスト・モダンの立場が可能にするのは、すべてを知っているという申し立てをしなくても「何か」を知ることができる、ということである…神の役割を演じようと努めなくてもよい…書くことは、身体をもたない[神の]全知全能の語りによって普遍的で一般的で不朽の知識を申し立てることではなくなる…私たちは、自分が感受した世界について、知り、語ろうとしている個性たち(subjectivities)になる(p228)。

 

既存の生き方、研究スタイル、暮し方からずれていくとき、孤独の闇に入っていきます。トンネルの暗闇を長いあいだ通り、やがて向こうから明かりがさします。そして仲間や言葉や価値を見いだすのですが、それは新たなアイデンティティなのでしょうか。

松田さんは「私が受けた文化とは、一言でいえば、脱アイデンティティの文化であり、セルフヘルプ・グループは、人をアイデンティティの呪縛からときはなつ場であると考えられる(P234)といいます。

押しつけられたアイデンティティを受け入れるのでも、押しつける側と入れ替わるようなアイデンティティを身につけるのでもなく、アイデンティティという仮面を多様につけ替えるのでもない。自分の深い部分で自分を縛っていたものからの解放。

そうである限り、セルフヘルプの潜在力はますます大きいものになるはずです。なぜなら深いところを縛っているもののさらに深いところと結びつくということですから。

セルフヘルプは、アイデンティティを自分の外側に貼りつけるものではなく、その人を心の奥底から解放していく営みなのだと私は読みました。

 

(20年前、中村雄二郎の岩波新書『臨床の知』を読んだとき、問題提起はおもしろいのに、途中から「新しいスタイルの知識人待望」みたいな議論になったのはなぜだろうと、ずっと不思議に思っていました。松田さんの論文を読んで、今回、「アイデンティティ」をめぐって違っていたのだろうと気づきました。アイデンティティ、それ自身に何か大きなものが含まれている気がします。)

 

2013年3月16日

葛藤の暴風

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:36 PM

自転車も走る夜

トラウマという言葉がはやり言葉になってしまいました。若い人から、年配の人まで、日常生活でたくさん使われています。

地域や職場の共同意識が薄れた時代です。ひとり一人で、変化の激しい世界に立ち向かわなければなりません。悩みも一人でかかえなければならないなら、悩みをモノのように“パッケージ”してしまって、コミュニケーションの道具にしてしまうこともあるでしょう。

私に優しくしてほしい…「トラウマなの」。これ以上、何かを負わされたくない…「トラウマになってしまうよ」。負うべき責任を、守られる被害者としてふるまうことで守る…「トラウマだから」。自分と世界のあいだを線引きしようと、私たちは、このような言葉使いをしてしまいます。

孤独な時代、このような使い方が意味をもつとしても、精神科医の宮地尚子さんは、トラウマの厳密な意味をだいじにしたいといいます。

トラウマとは、なかば不可逆的であって、言葉にならないようなものです。たんにがっかりするとか、プライドが傷つくといったレベルではありません…話題が少しでもそのことに近づくと、その場からすっと離れたり、「その話はしないでくれ」と激しく拒絶してしまうようなものなのです。(『トラウマ』、岩波新書、2013年、p3)http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1301/sin_k687.html

宮地さんが問題にしたいのは、体験したことが整理されず、心に食い込み、独特の心理的メカニズムを引きずっている人々に対して不十分なサポートしか提供できない社会的環境です。コミュニケーションの技法としてのトラウマではなく、深く苦しんでいる人の救いになるための「トラウマ」概念と社会的活動なのです。

「心のケア」で必要なことは、「メンタルヘルス」を被災者・被害者に提供することより、「メンタルヘルシー」な対応や施策を、社会全体が心がけること。さらに、被災者たちが自らの文化を取り戻し、新たに発展できるようにサポートすることであって、そういう意味では、「心のケア」は文化そのものだ、と宮地さんは述べます。

「心のケア」の究極は、相手に寄り添い、相手のペースに合わせて話に耳を傾けること、沈黙も尊重しながら、そばにいることです。専門家だからといって、何か特別な秘密の技術があるわけではありません。誰でもしようと思えばできることなのです。もちろんはじめは、心の傷を負った人にどう接すればいいのか、とまどうかもしれません。相手の思いがけない反応に、驚いたり腹が立ったりするかもしれません。どこまで突っこんで話を聞けばいいのかわからないかもしれません。聞いてしまった自分の方がショックを受けて不安定になることもあるかもしれません。それでも、とまどいながらそばによりそい続けることには、計り知れない価値があることを忘れないでほしいと思います。(はじめにxi)

 宮地さんはトラウマの被災者・被害者と支援者の関係を、環状島という図にしています。http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/51/jyoho51_tokushu.htm

TOKYO人権 第51号(平成23年9月30日発行)

トラウマの核心から逃れ、這い上がり、語り始めようとしている被害者。内海と尾根のあいだにある世界です。

トラウマを引き起こした内海から隔てられ、何が起きているかまったくわかりようもない外海周辺の支援者・傍観者たちの世界。

二つの世界が出会うところの〈尾根〉は急なこう配で、空にむかいます。登るには大きなエネルギーが必要ですが、登ることによって別の世界が見え始めます。尾根の高さは、「トラウマを語る力、発信力の高低」と説明されています。

そして尾根の「上空には感情のもつれや葛藤などの暴風が吹き荒れ」ています。二つの世界のふれ合うところで生じる葛藤、もつれ、戸惑い、誤解、躊躇、苛立ち、怒り…そして「計り知れない価値」もあるということになるのでしょうか。

葛藤はわかります。異質な二つの世界が直面するのですから。

でも、計り知れない価値とはいったいどのようなものでしょう。被害者にとってだけでなく、支援者にとっても意味ある価値…。新書『トラウマ』のなかでは直接的にはふれていないように思います。きっと、そこに焦点を当てて記述しようとすると、また別の話になってしまうからでしょう。

葛藤の暴風、その中から見えてくる…「計り知れない価値」ということ。実は、ここにもう一つ、問題があります。「価値」は「語る力・発信力」に関係しているのですから、語られた言葉を「聞く人」がいるはずです。この図では現しきれませんが、どこかに聞く人々がいなければ、語り、発信はありえません。いったいどこで、どんな人が聞いているのでしょうか。

価値があり、聞く人がいる…これは現実ですが、想像しなければならないものでもあるのです。

Powered by WordPress