暴力に頼らなくても生きていけるということを学んだ、レイエスはそういいました(10月27日記事)。
彼に回復が生まれたこと、それは事実。でも、彼はなぜそのことが学べたのか。事実の背後にどのような作用が働いたのか。ぼくの中に次から次に疑問がわいてきます。
レイエスが言っていることは、回復のプロセスとは脱暴力の道でもある、ということではないでしょうか。
でも、刑務所で脱暴力? そんなことが可能なのか。
アメリカの刑務所ドラマ、たとえば映画『ショーシャンクの空に』、あるいはTVドラマ『プリズンブレイク』などを見ると、おそろしい暴力がそこには渦巻き、ぼくなどは画面を直視できなくなります。
服役者が回復を志すということは、その人はかつて暴力の被害者かもしれないが、加害者としても生きたその人が暴力の世界から抜け出すということ。しかも、むき出しの暴力(刑務官・服役者の暴力)のなかで24時間過ごす、その現実の中から脱暴力を実現するということ。そのようなことなどできるのでしょうか。
『ライファーズ――罪に向きあう』(坂上香、2012年、みすず書房)のなかで何度か繰り返される言葉があります。それは、「ホーム」であり、「サンクチュアリ」という言葉ですが、これが疑問を解くキーワードなのではないか、ぼくはそう思います。 アミニティ(治療共同体の団体)では、「ホームを、敬意、人間性、希望、ユーモアという四つの要素から成る場と定義している」(P77)そうです。いずれも積極的な人間関係のあり方をさし示すものです。では、サンクチュアリとはなんでしょう。
『サンクチュアリ』は一般には、聖域、非難所、安らぎの場所と定義されるが、ここでは、問題を抱えた人々が成長するために欠かせない、物理的および精神的に『安全な場』を意味する。一言で言うなら、本音で語り合える場であるかどうか。警備と管理と規律を重んじる刑務所とは相反する発想だ…
「墓場まで持っていくつもりのことを話せなければ、本音を話したことにはならない。」このフレーズを、アミニティ関係者の口から、何度聞いたことだろう。被害体験であれ、加害体験であれ、体験の詳細と、それにともなう感情を、徹底的に、何度も語るというのがアミニティのスタイルだ…
まずは、幼児期まで記憶を遡らせ、自分の身に起こった出来事や感情を詳細に語っていく。自分の身に何が起こり、それをどのように感じていたのかを言語化し、自らが受けとめることからしか、サンクチュアリの創造は始まらないと考えられているからだ。しかし、このプロセスは容易ではない…
辛い記憶に蓋をして、被害自体をなかったことにしたり、自分のためを思って親は自分を殴ってくれたと歪んだ解釈をしたり、もしくは子ども時代を完全に美化して生き延びてきている人がいかに多いか…(p56-58)
サンクチュアリとは、物理的な場であると同時に、精神的な場でもあり、自分のなかで創造されるものでもあり、過去と直面するプロセスでもあるのです。 自分を守ってくれる場があるから、囲われた場であり安全だからそのなかで本音が言える、ということではないのです。
お寺のなかの修行を、ぼくは想像しました(韓国映画『達磨はなぜ東に行った』を思い出しながらです)。修行するにはそれなりの静寂や安全が必要だけど、なぜそれを求めるかといえば、自己や仏との厳しい直面をするため。そんな関係に良く似ています。
暴力とは人間社会と人間の意識が生み出したもの。だから、私たちは私たち自身の精神の奥に分け入り、そこをもう一度体験し直すことで、暴力を越えられる…回復した彼らはそう言っているのでしょうか。
問題は、監獄から出所するかどうかではない。あなた自身が、内なる監獄から、いかに自由になるかだ(P65)
本音を語れない問題があるとすれば、内なる監獄、自分のなかの暴力性の手前で、それらに従属しているということなのかもしれません。その問題の方が大きいかもしれません。
元ライファーズ(無期刑受刑者)だったケルビンは社会復帰施設のスタッフをしています。彼はあるときある女性レジデント(施設利用者)から「ここにはサンクチュアリなんて存在しない!」と反発を受けました。ケルビンは彼女にこのように話しました。
「俺はそうは思わないよ。いつだったかナヤに聞かれたことがあった。人生で最初のサンクチュアリはどこだったかって。俺は考えたけど、全然思いつかなかったんだ。とにかく凄まじい幼少期を送ったからね。安心できる場なんてなかったって言った気がする。
そしたらナヤが言ったんだ。親からいかに酷い暴力を受けたとしても、母親の胎内にいる時からアルコールや薬物の影響を受けていたとしても、それだけ過酷な状況を切り抜けて、この世に生まれてきた。それだけの強さがすでにあなたに備わっていたんだから、胎内がすでにサンクチュアリだったんじゃないかって。この世に生を受けた人は誰しもサンクチュアリを体験しているはず。どんな場でもサンクチュアリは作れる。刑務所の中でさえそれは可能だって。
目から鱗だったよ。サンクチュアリは探しあてるものじゃなくて、今ここで、この瞬間に、自分が率先して作るものなんだって思うようになったんだ」(p199)
なんとすごい話ではないでしょうか。彼らはこんなにも遠くはるかを見ているのですね。