なんとなくサンネット日記

2012年9月30日

自然は協力が好き

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:51 PM

犬のいる生活はいいものですね

 よく聞く話だけど、犬は、人間の上下関係をみていて、自分の地位を学ぶという。だから、飼い主は自分の方が偉いということを、何かにつけて、しつけないとならない。犬との生活は支配と服従をめぐっての争いだという。でも、いつからこんな話を聞くようになったのだろう。

 ぼくは小学生から高校生のときまで、1960年代だけど、家には犬がいた。家の外で飼っていった。散歩したり、抱っこしたりした。犬がいけないことをしたときには、ぼくの母親が叱っていた。ドッグフーズはなかったけど、上下関係をしつけるという考えもなかった。犬は家族の一員だった。

 ジョン・ブラッドショーの本を読んで、犬についての支配するという考え方は、オオカミにたいする見方に起源があることを知った。(『犬はあなたをこう見ている――最新の動物行動学でわかる犬の心理』、ジョン・ブラッドショー、2011年、西田美緒子訳、河出書房新社、2012年)

 オオカミは、ボスオオカミが君臨し、統率された集団で行動する――というイメージがある。「狼王ロボ」がそうだ。さらに、三匹の子豚や赤ずきんちゃんやイソップ物語のオオカミは不実で狡猾。狼男のオオカミでは野獣、獰猛のイメージ。こういったイメージの「オオカミ」を手なずけるには、そうとうな力が必要なはずだ。 これらの想像物のベースには、長年家畜を襲われてきた人間のオオカミへの敵意があるのだろう。しかし、そのイメージを支えた生物学者もあったという。

――初期の生物学者たちは、人間にとらえられた群れからほとんどの知識をえていた…研究対象になった群れには、血のつながりのない寄せ集めもあれば、両親の一方や両方が欠けた不完全な群れもあり…そうした群れはどれも、閉じ込められ、群れの構造が決定的に崩壊したことで混乱し、メンバーは対立していた。…その結果、長く続いた信頼ではなく、ライバル心と攻撃的な気持ちを背景した関係が生まれていた。

 つまり方向違いのところを見て、オオカミ全体をイメージをつくりだしていたのだ。それに、動物園のオオカミたちは、人間の動物支配の影響下を生き抜くために、攻撃的になったのかもしれない。

――オオカミ社会の本当の図式が明らかになったのは、保護が実現してからのことだ。…ほぼ同じころ野生のオオカミを追跡して観察するすぐれた技術も利用できるようになった。GPSや…頑丈な電池式の小型無線送信機などだ。わずか10年で、オオカミ社会の描かれ方はガラリと変わった。雄と雌一匹ずつの暴君が率いる階層社会のイメージから、何ごともなければ若者が進んで両親を助け、弟や妹の子育てを手伝うという、円満な家族のイメージになったのだ。根底に流れる原則が、支配から協力に変わった。(P40)

 犬はオオカミが飼いならされ、家畜化したのだから、しっかり支配しないと、オオカミのように暴君になる…というもともとのイメージが間違いだった。だからもっと犬には愛情を注ぎ、罰ではなくて褒美で育てるべき、というのがブラッドショーの主張だ。

 人間の暴力性が動物(オオカミ)を追い詰め、追い詰められた動物の中に暴力性を見いだし、さらに動物(犬)を支配しようとする…合わせ鏡のように影響し合う思考の枠組み。人間はいろいろな場面で、協調関係を破壊しては暴力を生み出し、暴力を問題視するという思考パターンがある。ここを変えなければならない。

 自然は協力が好きだし、もともとの人間も、支配・服従関係より協力が好きなはずだから。

2012年9月26日

ふれること

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:27 PM

昨日は雹が降ったのです

 摘菜修氏が、日本維新の会への痛烈な批判を寄稿していました(東奥日報9月23日)。摘菜修という人をぼくは知りませんでした。肩書には哲学者とあり、掲載されている和服姿の写真をみて、(申しわけないのですが)ちょっとひいてしまいました。

 さて、それは「大型識者評論、政権交代から3年」と題した記事です。民主党を北海道大学の山口二郎氏が、摘菜氏が日本維新の会を批評していました。有名な方なのでしょう。

 摘菜氏の批判はやや身も蓋もないような中味でした。「(橋本氏と維新の会のパフォーマンスは)要するに…適当なことを言って、都合が悪くなればタイミングを見計らって撤回する」という「劇場型」。

 つまり「橋下氏は…人気を集めるためには…平気な顔でうそをつく」人で、「天性のデマゴーグ(扇動的な政治家)」。「『いまの政治で一番重要なのは独裁』という橋本氏は、内部告発や密告を奨励してい」て、それでは熟議が成立する社会に至らない、という主張でした。

 日本維新の会が、摘菜氏の主張の通りかどうかはわかりませんが、こういった姿勢が多くの人々に受ける時代であることには同感です。

 自分の筋を通すことがだいじではないし、他者の関心を引くためには、怪しい情報もやりとりするし、かんたんに口にする…こんな風景がそこここにあふれています。

 もちろん、いつの時代だって、そんな面はあったと思います。「やまとごころ」といえばイコール武士道と思われるのですが、江戸時代以前のそれは、臨機応変で柔軟な世渡りのことをさしていました。筋を通そうとはせず、智に働かないし情にも棹ささないという構え、それは、世渡りのすべとして受け継がれてきたはずです。

 だけど、いまの「いい加減さ」は、世渡りではありません。世の中の「見方」「考え方」になっていることが怖いのです。世渡りなら自分の手と足の届く範囲のことだし、結果も自分が引き受けます。でも「考え方」には限界はありません。結果を引き受けることもなく、たれ流されているのでは…と。

 私たちの身体とこの世を離れた空間に、「ウソ」「デマ」が流通し、それをエネルギーとしつつ、肥大していく抽象的な領域ができてしまっている…そんなふうに感じられるのです。

 ところで、平原インディアンの教えがあります。教えは、このような時流とはまったく正反対の価値をさし示しているので、ちょっと書きとめておきたいのです。

 経験するということは、ふれて感じることだ…

 この世で人が平等に持っているものは、たった一つしかない。それは孤独だ。この地上に住む二人の人間に、何か共通するものがあるとしたら、それは孤独にほかならない。孤独はわれわれの成長の糧にもなれば、争いの種にもなる。愛も憎しみも、むさぼりも寛容も、すべてわれわれの、必要とされ愛されたいと思う孤独な心の中にあるのだ。

 われわれがその孤独から抜け出せる唯一の方法が、ふれることだ…。(聖なる輪の教え、ヘェメヨースツ・ストーム、阿部珠理訳、地勇社、1992年、P20-21)。

 わたしたちの社会のピンチは「ウソ」や「デマ」に晒されていることではなく、真実に「ふれる」ことをどこかの誰かに奪われていて、それで「ウソ」などを呼び込んでいることではないでしょうか。すると、「ウソ」や「デマ」を言わない、のではなく「ふれて感じる」ことをとり返すことを始めなければならないはず…。この行為は簡単ではないし、世の人の受けは悪いでしょうが、少人数で始めて、続けられることです。真実に、ふれて感じようとする…。

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