なんとなくサンネット日記

2012年7月28日

言葉の向こう

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:40 PM

祭りに向けて植えかえました

友人の病院受診につきあって、大きな外来待合室で彼の診察をまっていました。友人はあちこちを歩き回り、ぼくは本棚のマンガを手にしたり、別の本に手を伸ばしたりしていました。

ふと見ると、片隅に、小川洋子の『アンジェリーナ--佐野元春と10の短編』(1993年、角川書店)がありました。手にとって、パラパラ見るうちに、あとがきにすてきな文章をみつけました。

  ――音が言葉を導くというのは、確かにあることです。音だけでなく、1枚の絵や、どこかの風景や、誰かのささいな仕草の中に、物語を感じる瞬間というのがあるのです。その心の震えを言葉に置き換えてゆくことで、わたしはいくつかの小説を書いてきました。考えてみれば小説は言葉だけで成り立っているというのに、その源は言葉の存在しない場所で発生しているのです――(p228-229)

  言葉の向こう側には音楽や絵、人の動作があり、「心の震え」がある。言葉と言葉のない場所は、自分の身体を通して相互に関係している。これは彼女の描く豊かなビジョン。

すてきな世界です。小川らしい透明感のある表現に感心しました。

言葉はあらゆることを表現します。愛や憎しみ、正義と論理、過去の歴史と未来社会、それからそれからエトセトラ…。世界のあらゆることをあらわすはずの言葉。しかし言葉は、いま存在しているところのはるか遠方、言葉のない世界で発生する。…まるで、太平洋のかなた、南半球のエルニーニョ現象が日本の気候に影響するみたいなものではありませんか。

言葉は私たちの精神そのもの。だから、私たち自身もどこかはるか遠方につながっているということになります。つながっているどころか、つなげているのが私たちの「心の震え」ならば、私たちの身体性が“つながり”なのです。

でも、この言葉は1993年。「ネット時代以前の豊かさ」なのかもしれません。

2000年代、PCの「情報・処理・発信システム」が、人間の認識を描くモデルになると、小川のような「情報の形成される以前」についての感受性はすっかり薄まりました。

PCのもっとも小さな単位は、ソフトで扱える1ビットですから、PCの世界ではソフトが扱えない領域あるいは1ビット以前は無視するしかありません。

ネット時代のいま、私たちは莫大な情報を瞬時に操作しています。検索しては、細切れの情報をたちどころに手に入れています。

しかし、利便さと引き換えに、「言葉」「情報」の発生母体やつながりという身体性を、私たちは明け渡しているのだろうかと思えてきます。遠い世界から切り離れ、浮遊する何十億何千億の群れの言葉たちは、さみしさを感じることもなく光速でかけめぐっています。

私たちが身体で言葉にすることのだいじさ。それは言葉の発生の源にさかのぼろうという営み、旅する体験でもあるのです。逆に言葉にしないことの意味は? 言葉を身体の中に飲み込む行為は?

そう考えたところで、彼の名前が呼ばれ診察の順番が回ってきました。はい!いま行きます。

2012年7月9日

仕事・労働・活動№2 舵取り

Filed under: サンネットの仕事とは — toshio @ 5:06 PM

ラジコンカー

  1998年、来日した英国の当事者、ジュリアン・マリンズさんは「イギリスの地域生活における精神障害者の権利擁護」という講演で、次のように話していました。

  ――アドボカシィ(権利擁護)は、ソーシャルワーカーや援助者たちと常に対立し、要求を突き付け、対峙することではありません。アドボカート(権利擁護者)は機関や施設をスパイしたり、何か不満の種をみつけようと見張っているわけでも、小さなミスをみつけては職員を困らせようとしているわけではありません。――

  ――アドボカシィ(権利擁護)は、意見をはっきり言明して、必要な権利とサービスが得られるようにサポートすることで、ユーザー自身が自分たちの人生と生活の舵取りになることです。――

 ――グループアドボカシィ(集団権利擁護)のユーザー(利用者)にとっての利点は、ユーザーが互いにささえあえるということです。自分たちの経験を話しても安全だと思うところでは十分話し合えるし、互いにどんなふうに感じているかをよく知ることができます。――

 権利擁護活動というと、まだまだイメージしにくい活動です。弁護士のように本人に付き添って、当局と交渉したり、むずかし文書を作成して、権利の実現を図る…というイメージ??。

 マリンズさんは、権利の獲得や無理解な当局への攻撃が活動のターゲットではなく、本人が自分の人生の主人公になることが目標ですよと、いいます。生活の舵をしっかり取る…。そういえば、「権利擁護」「要求実現」という場合、長いあいだ人間的成長という観点は置き去りになりがちでした。権利の問題と人間的な成長を結びつける、これが大きな意味をもっていたのです。

 日本では、いまだに精神障害者の地域権利擁護活動がふつうに見られるような状況ではありませんが、相談支援事業所や障害者サービス事業所では、当事者がいろいろなことを要求するのはよくあることになりました。

 日常的に要求する場面があるなら、自己の利益ばかりでなく、人間的な成長という観点を含めて考えることがだいじになっています。上の文章の「権利擁護」を“権利要求の具体的行動の言葉”に置き換えてみましょう。「権利擁護者」は、“利用者、当事者”でいいかもしれません。

 「じっくり相談できることを要求する活動」とか、「就労継続支援事業所でもっと仕事ができるように要求する活動」とか、それぞれの場面で起きた言葉を、文章に挿入すれば、活動する主体を振り返れるではありませんか。マリンズさんの話から14年、現代の日本、いまこそ彼女の話を活用しなければならないと、ぼくは思うのです。

 

(別の話ですが、「仕事」ということについて次の動画はすてきでした。インドの14歳の少年の日常。弟や家族のために働き、学ぶ日常がたんたんんと描かれます。貧しいがゆえに生まれる美しさ、けなげさ、あたたかさ。かつて日本にもあった「何か」…です。)

http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/movie/p028d199d4926af2f30fa154a287cff6d (ヤフーHP)

http://vimeo.com/awards/winners/documentary (英語HP)

2012年7月7日

仕事・労働・活動№1 ピカピカの便器

Filed under: サンネットの仕事とは — toshio @ 12:42 PM

七夕

 「山下さん(仮名、50代の男性)が作業所のトイレを掃除した後は、入りにくいんだよな。俺が掃除するときより、ずいぶん時間をかけて、ピカピカにしているからなあ。」

 当事者が運営している作業所。後輩の菅井さん(仮名、30代の男性)が、先輩について語った話です。

 菅井さんは人望ある若手メンバー。野球でいえばキャッチャータイプの人。山下さんの悪口を言っているのではありません。日常を共有しているという親しみ、その奥にある信頼と敬意、彼はそういう思いで言っていると思いました。

 長い歴史ある作業所。創設メンバーの一人の山下さんは、作業所の何回もの移転、自治体との交渉、募金を集めて作業所の建設まで…ずっとかかわってきました。病気と闘い、作業所の維持と発展に力を使い、自分の人生を切り拓いてきました。

 みんなが使う作業所。便所の掃除もみんなで交代で行っていますが、山下さんにとっては、仲間たちとの思い出、歴史が染みついているこの場所は特別。事務所、玄関、倉庫、便所…それらはただの機能、モノではなく、思いと歴史と誇りが集積した固有な場所。だから、便器だってピカピカにしたくなる。そこは菅井さんにしっかり伝わっています。

 菅井さんは、「入りにくいんだよなあ」とぼやきじみた言葉を口にしつつも、山下さんの思いを引き継ごうとしているのです。

 作業に特別な思いをこめるとき、その作業は特別な価値をもちます。そしてその価値が別の人に伝達します。私たちは自分の行為を、作業、仕事、労働、活動のどこに分類し、どのような価値を行為にこめるのでしょうか。

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