友人の病院受診につきあって、大きな外来待合室で彼の診察をまっていました。友人はあちこちを歩き回り、ぼくは本棚のマンガを手にしたり、別の本に手を伸ばしたりしていました。
ふと見ると、片隅に、小川洋子の『アンジェリーナ--佐野元春と10の短編』(1993年、角川書店)がありました。手にとって、パラパラ見るうちに、あとがきにすてきな文章をみつけました。
――音が言葉を導くというのは、確かにあることです。音だけでなく、1枚の絵や、どこかの風景や、誰かのささいな仕草の中に、物語を感じる瞬間というのがあるのです。その心の震えを言葉に置き換えてゆくことで、わたしはいくつかの小説を書いてきました。考えてみれば小説は言葉だけで成り立っているというのに、その源は言葉の存在しない場所で発生しているのです――(p228-229)
言葉の向こう側には音楽や絵、人の動作があり、「心の震え」がある。言葉と言葉のない場所は、自分の身体を通して相互に関係している。これは彼女の描く豊かなビジョン。
すてきな世界です。小川らしい透明感のある表現に感心しました。
言葉はあらゆることを表現します。愛や憎しみ、正義と論理、過去の歴史と未来社会、それからそれからエトセトラ…。世界のあらゆることをあらわすはずの言葉。しかし言葉は、いま存在しているところのはるか遠方、言葉のない世界で発生する。…まるで、太平洋のかなた、南半球のエルニーニョ現象が日本の気候に影響するみたいなものではありませんか。
言葉は私たちの精神そのもの。だから、私たち自身もどこかはるか遠方につながっているということになります。つながっているどころか、つなげているのが私たちの「心の震え」ならば、私たちの身体性が“つながり”なのです。
でも、この言葉は1993年。「ネット時代以前の豊かさ」なのかもしれません。
2000年代、PCの「情報・処理・発信システム」が、人間の認識を描くモデルになると、小川のような「情報の形成される以前」についての感受性はすっかり薄まりました。
PCのもっとも小さな単位は、ソフトで扱える1ビットですから、PCの世界ではソフトが扱えない領域あるいは1ビット以前は無視するしかありません。
ネット時代のいま、私たちは莫大な情報を瞬時に操作しています。検索しては、細切れの情報をたちどころに手に入れています。
しかし、利便さと引き換えに、「言葉」「情報」の発生母体やつながりという身体性を、私たちは明け渡しているのだろうかと思えてきます。遠い世界から切り離れ、浮遊する何十億何千億の群れの言葉たちは、さみしさを感じることもなく光速でかけめぐっています。
私たちが身体で言葉にすることのだいじさ。それは言葉の発生の源にさかのぼろうという営み、旅する体験でもあるのです。逆に言葉にしないことの意味は? 言葉を身体の中に飲み込む行為は?
そう考えたところで、彼の名前が呼ばれ診察の順番が回ってきました。はい!いま行きます。