そういった話を聞くと、人間と世界の可能性が感じられていい話だなあと思うのもの。その反対に、宗教家が虐待の加害者になったなどという話を聞くと、人間の性(サガ)はそんなものかなとがっかり。ぼくの気持はあがったり下がったりです。
宗教家だけのことではなく、革命をめざした人がただの殺人者におちいったり、どうしようもない犯罪者が真の愛国者に変身したなんてことだってあります。別人のようになって生きる人の話はたびたび聞きます。
人の変化にはいろいろな要因が働きます。その人の出会ったできごとの程度、サポートしてくれる人の有り無し、時代と社会の状況、経済力…。
しかし、その人のもともとの考え方という問題もあるでしょう。考え方を変えたとか、違う考え方を身につけたということではなく、考え方の基本はぜんぜん変わっていないのに、考え方が考え方を変えていくように変化していく傾向です。
ある人にとっては、考え方の細部、遠景だったような部分がだんだんふくらんで、中心をしめてしまう。あるいは、徹底して考えていくうちに、手袋をひっくり返して表が裏になるような、いつのまにか反対の位置にきてしまった…。
考えというのは、固定したデータ群などではなく、生き物のように成長・変形します。だから、表面的に見えている方向と考え方の結果がずれてしまうことは、しばしばあることです。
その一方、変わらないその人らしさというものもあるでしょう。たとえば、キリスト者になったヤクザの人のかつてを知る人がいて、第三者からキリスト者になったという知らせを聞いた。しばらく考えて「あの人ならそういうこともあるなあ。昔から一途。思いこめば決心する男だから」と納得する…。
変わらない面と変わっていく面があって、そのやりとりが思いもよらない物語をつくりだす…。だから、人と付き合うということに、つきない魅力を感じるのです。
これらは個人レベルの考えの変化の不思議さですが、西欧の精神史について、キリスト教という切り口から、思考方法の変遷を鳥瞰したのが、二人の社会学者の対話、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸、講談社現代新書、2011年)です。(念のために強調しておきますが、このブログは信仰の問題を取り上げようというものではなく、信仰にかかわる「思考」の問題について考えたということです。)
■自然科学の出発点
――同じようなことを手を替え品を替え何度もうかがっています。繰り返しになりますが、キリスト教から脱したと見えるその地点こそが、まさにキリスト教の影響によって拓かれている。そういう逆説がキリスト教のふしぎのひとつだと思います――(P322、大澤)
二千年間、キリスト教はヨーロッパ精神史の軸でした。大きな変化が生まれたのは中世の後半。12世紀ごろになると芸術面の変化が起き、それからは異端審問、科学革命、宗教改革、資本主義と絶対王政の出現…と16世紀にかけて構造的な変化が次々と起きました。
キリスト教が支配する暗黒の中世、盲信的な世界観を抜け出し、人間性を謳歌する近世になったかのように見えるその時。それはキリスト教から脱したのではなく、キリスト教によって新しい時代が切り開かれた、という大澤さん。
――いまから見えれば明らかにキリスト教的な世界観を否定するのに役立ちそうな真理のシステム(注:自然科学など)が、まさにキリスト教から出てきたということになるんですね。こういうことは…イスラム教や仏教では起きないと思うのです――(P311、大澤)
表面的には矛盾しているかに見える、宗教と自然科学=科学革命の生起、それはなぜキリスト教世界で起きたのか、その関係について大澤さんは橋爪さんに問いかけました。
橋爪さんは答えます。
――自然科学がなぜキリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか。それは人間の理性に対する信頼が生まれたから。そしてもうひとつ大事なことは、世界を神が創造したと固く信じたから。この二つが自然科学の車の両輪になります――(P311、橋爪)
理性への信頼、神と世界の関係。大澤さんが問いかけた、いまから見れば矛盾しているかに見える二つの立場(キリスト教的世界観、真理のシステム)は、理性と世界と神の三角関係が成立することで、その出発においてすでに組み込んでしまっていたと橋爪さんはいいます。
――キリスト教が、ユダヤ教、イスラム教と違うのは、いわば置き去りにされていることです、この世界に。…プロテスタントは、神を絶対化します。神を絶対化すれば、物質世界を前にしたとき、理性をそなえた自分を絶対化できる。理性を駆使する自分は、神の似姿になっていると言ってもいい。理性を通じて、神と対話するやり方のひとつが、自然科学です。…(数学でも政治でも)教会の権威に頼らず、自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれらを真剣に発展させて行きやすい――(P314、橋爪)
神はこの世界を創造して出ていったのだから、「自然こそが真に偉大な書物」(ガリレオの言葉)なのです。理性をもちいて書物を限界まで読むために、実験などで自然に負荷をかけ、隠れされていた真理を数学によって暴く。
理性の限界、自然という書物の先には、神と自分のあいだに信仰がはたらく。その手前は絶対的な自己の理性だけが存在する。
理性と信仰、絶対化された自分と祈り。それらがひとりの人間に組み込まれた。組み込まれたぶん、バラバラになった意識を、一生懸命接木し続けて、もう数百年も過ぎたということなのですね。
■分業された意識
祈りと信仰というセットを左手にもち、現実と理性というセットを右手でかかげる。そういう西欧的な人間、いままでこの世になかった新しい人々が世界の隅々まで闊歩してきました。何百年も。
でも、いまはもう、現実世界が神の働きを読み解く書物とはいえません。人間のあさましい「理性」が食い散らかし、残骸のような「現実」が私たちの前にぼうぼうと広がります。絶対化した自己は、その生まれた母体、祈りを忘れ、浮遊しながら「現実」をさらに貪欲にむさぼり食らっています。彩り、鍛えてくれる「現実」と、祈りが離れてしまったのですから、祈りも力を失いました。世界と現実と理性と対話し、乗り越える力を…。
――われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある――(大澤、P5)。
これは大澤さんの基本的なスタンス。
――こういう状況の中で、新たに社会を選択したり、新たな制度を構想すべく、クリエイティブに対応するためには、どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかなければならない――(大澤、同)。
こうしてこの本が書かれたのですが、ほんとうに理解すべきは、複雑に入り組んだ「自分」のほうかもしれません。祈りはその根をもとめ、支えられる豊かな現実を求めていることでしょう。近代が作り上げた意識の分業の時代は、終わりを迎えているのでしょうか。
精神病を病む人々のなかには、独力で祈りと現実を結び付けようとして、病を介在させているように見える人もいます。だから、ぼくには意識の分業の貧しさを撃つ力、それをこえるビジョン(=素描)がひそんでいるように思えてならないのです。