なんとなくサンネット日記

2012年6月30日

祈りと意識

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:43 PM

新しいフラッグ

 ヤクザだった人が敬虔で真剣なキリスト者になった、そんな話を聞いたことがあります。

 そういった話を聞くと、人間と世界の可能性が感じられていい話だなあと思うのもの。その反対に、宗教家が虐待の加害者になったなどという話を聞くと、人間の性(サガ)はそんなものかなとがっかり。ぼくの気持はあがったり下がったりです。

 宗教家だけのことではなく、革命をめざした人がただの殺人者におちいったり、どうしようもない犯罪者が真の愛国者に変身したなんてことだってあります。別人のようになって生きる人の話はたびたび聞きます。

 人の変化にはいろいろな要因が働きます。その人の出会ったできごとの程度、サポートしてくれる人の有り無し、時代と社会の状況、経済力…。

 しかし、その人のもともとの考え方という問題もあるでしょう。考え方を変えたとか、違う考え方を身につけたということではなく、考え方の基本はぜんぜん変わっていないのに、考え方が考え方を変えていくように変化していく傾向です。

 ある人にとっては、考え方の細部、遠景だったような部分がだんだんふくらんで、中心をしめてしまう。あるいは、徹底して考えていくうちに、手袋をひっくり返して表が裏になるような、いつのまにか反対の位置にきてしまった…。

 考えというのは、固定したデータ群などではなく、生き物のように成長・変形します。だから、表面的に見えている方向と考え方の結果がずれてしまうことは、しばしばあることです。

 その一方、変わらないその人らしさというものもあるでしょう。たとえば、キリスト者になったヤクザの人のかつてを知る人がいて、第三者からキリスト者になったという知らせを聞いた。しばらく考えて「あの人ならそういうこともあるなあ。昔から一途。思いこめば決心する男だから」と納得する…。

 変わらない面と変わっていく面があって、そのやりとりが思いもよらない物語をつくりだす…。だから、人と付き合うということに、つきない魅力を感じるのです。

 これらは個人レベルの考えの変化の不思議さですが、西欧の精神史について、キリスト教という切り口から、思考方法の変遷を鳥瞰したのが、二人の社会学者の対話、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸、講談社現代新書、2011年)です。(念のために強調しておきますが、このブログは信仰の問題を取り上げようというものではなく、信仰にかかわる「思考」の問題について考えたということです。)

■自然科学の出発点

 ――同じようなことを手を替え品を替え何度もうかがっています。繰り返しになりますが、キリスト教から脱したと見えるその地点こそが、まさにキリスト教の影響によって拓かれている。そういう逆説がキリスト教のふしぎのひとつだと思います――(P322、大澤)

 二千年間、キリスト教はヨーロッパ精神史の軸でした。大きな変化が生まれたのは中世の後半。12世紀ごろになると芸術面の変化が起き、それからは異端審問、科学革命、宗教改革、資本主義と絶対王政の出現…と16世紀にかけて構造的な変化が次々と起きました。

 キリスト教が支配する暗黒の中世、盲信的な世界観を抜け出し、人間性を謳歌する近世になったかのように見えるその時。それはキリスト教から脱したのではなく、キリスト教によって新しい時代が切り開かれた、という大澤さん。

 ――いまから見えれば明らかにキリスト教的な世界観を否定するのに役立ちそうな真理のシステム(注:自然科学など)が、まさにキリスト教から出てきたということになるんですね。こういうことは…イスラム教や仏教では起きないと思うのです――(P311、大澤)

 表面的には矛盾しているかに見える、宗教と自然科学=科学革命の生起、それはなぜキリスト教世界で起きたのか、その関係について大澤さんは橋爪さんに問いかけました。

 橋爪さんは答えます。

 ――自然科学がなぜキリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか。それは人間の理性に対する信頼が生まれたから。そしてもうひとつ大事なことは、世界を神が創造したと固く信じたから。この二つが自然科学の車の両輪になります――(P311、橋爪)

 理性への信頼、神と世界の関係。大澤さんが問いかけた、いまから見れば矛盾しているかに見える二つの立場(キリスト教的世界観、真理のシステム)は、理性と世界と神の三角関係が成立することで、その出発においてすでに組み込んでしまっていたと橋爪さんはいいます。

 ――キリスト教が、ユダヤ教、イスラム教と違うのは、いわば置き去りにされていることです、この世界に。…プロテスタントは、神を絶対化します。神を絶対化すれば、物質世界を前にしたとき、理性をそなえた自分を絶対化できる。理性を駆使する自分は、神の似姿になっていると言ってもいい。理性を通じて、神と対話するやり方のひとつが、自然科学です。…(数学でも政治でも)教会の権威に頼らず、自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれらを真剣に発展させて行きやすい――(P314、橋爪)

 神はこの世界を創造して出ていったのだから、「自然こそが真に偉大な書物」(ガリレオの言葉)なのです。理性をもちいて書物を限界まで読むために、実験などで自然に負荷をかけ、隠れされていた真理を数学によって暴く。

 理性の限界、自然という書物の先には、神と自分のあいだに信仰がはたらく。その手前は絶対的な自己の理性だけが存在する。

 理性と信仰、絶対化された自分と祈り。それらがひとりの人間に組み込まれた。組み込まれたぶん、バラバラになった意識を、一生懸命接木し続けて、もう数百年も過ぎたということなのですね。

■分業された意識

 祈りと信仰というセットを左手にもち、現実と理性というセットを右手でかかげる。そういう西欧的な人間、いままでこの世になかった新しい人々が世界の隅々まで闊歩してきました。何百年も。

 でも、いまはもう、現実世界が神の働きを読み解く書物とはいえません。人間のあさましい「理性」が食い散らかし、残骸のような「現実」が私たちの前にぼうぼうと広がります。絶対化した自己は、その生まれた母体、祈りを忘れ、浮遊しながら「現実」をさらに貪欲にむさぼり食らっています。彩り、鍛えてくれる「現実」と、祈りが離れてしまったのですから、祈りも力を失いました。世界と現実と理性と対話し、乗り越える力を…。

 ――われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある――(大澤、P5)。

 これは大澤さんの基本的なスタンス。

 ――こういう状況の中で、新たに社会を選択したり、新たな制度を構想すべく、クリエイティブに対応するためには、どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかなければならない――(大澤、同)。

 こうしてこの本が書かれたのですが、ほんとうに理解すべきは、複雑に入り組んだ「自分」のほうかもしれません。祈りはその根をもとめ、支えられる豊かな現実を求めていることでしょう。近代が作り上げた意識の分業の時代は、終わりを迎えているのでしょうか。

 精神病を病む人々のなかには、独力で祈りと現実を結び付けようとして、病を介在させているように見える人もいます。だから、ぼくには意識の分業の貧しさを撃つ力、それをこえるビジョン(=素描)がひそんでいるように思えてならないのです。

2012年6月26日

恐れつつ、つながる

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:26 PM

梅雨入りしたんだ

 春から夏に移り変わる6月、ぼくはいろいろな言葉と出会った。

■  鍵

 6月6日、大坂セルフヘルプセンターの『セルフヘルプグループ・ニュース№19』が届く。ニュースのなかに松田博幸さんの「『鍵』をどのように使うか?」という記事があった。ぼくにとっては懐かしく、また尊敬している人だ。

 セルフヘルプ・グループが、グループとして、個々人として、成長・回復していく「鍵」についての短いエッセイだった。セルフヘルプ・グループでも、会社でも、地域でも、学校、ネットetc…どのような組織においても、必ず生まれるのが、パワーゲーム、支配、抑圧、偏見、排除。そのネガティブな状況に対処する「鍵」。そして新しい価値、新しい生き方、グループの新しいハーモニーを生み出す「鍵」。そういったことについて彼は述べていた。

 …「鍵」の使い方を学び、使い、わかちあうという実践を欠いた場合、簡単にセルフヘルプ・グループは人を傷つける場になってしまうのではないでしょうか。自戒を込めて、そのように考えます…。エッセイはそう結ばれている。

 セルフヘルプは、過去の体験や固定した疾病が人と人を結束しているのではない。見えないけど、いま存在している「鍵」が人と人結びつけ、それぞれ人の未来に向けて、導くように働いているという。祈りのように「鍵」を求めている松田さんを想像する。

 確かにそうだなあと共感しつつ、この言葉の背景には、真剣な体験と実践と思索があるのだろうと思いをめぐらす。そしてそのことについても静かに思いを寄せる。

■  死を恐れる

 6月9日のNHKのラジオ深夜便「明日へのことば」。ラジオから興味深い話が聞こえてきて、思わず目が覚めた。「日本でもインフォームド・コンセントとか自己決定とか、西洋くさい考え方を導入してきました。でも、生老病死について何も学んでいない現代の日本人が、自己決定で何を決められるというのですか」。

 熱心に語るいくぶん甲高い声は、京都大学・こころの未来研究センター所長カール・ベッカーさん。ぼくはあわてて寝床でメモをとり始めた。

 彼が日本に惹かれた70、80年代、死に直面した日本人は、潔く、死を恐れなかったという。周囲を思いやり、語るべきことを語りつつ死を迎える日本人、この人たちは死がすべての終わりではないことを知っていると思った。かつて、老病死について一貫した考え方と態度が存在していたが、伝統的な思考方法は失われ、現代の日本人は「死を恐れるようになった」。恐れにたいして、何を決められるのですか、彼はそういうのだった。

 そうか! 病気や老い、死に対して、恐れが広がっている。老病死そのものではなく、恐れの拡大、それが問題となっているのだ。しかも、その恐れは、実のところ生きることの不安と、根っこのところでつながっているのだろう。半分寝ぼけながら、ぼんやりと気づく。

■  連帯

 サンネットのFさんは「浦河べてるの家」など浦河の精神保健福祉活動を応援するウレシパ会員。するとべてるの雑誌『ベテルモンド』が送られるのだそうだが、最新号(2012年春号)が届いたというので、脇から見せてもらう。社会学者大澤真幸さんと向谷地生良さん(それに医学書院の白石正明さん)の対談(鼎談?)の記事がある。おお!すごい顔合わせ!と思わず引き込まれた。というか、横取りして読ませてもらった(今度お金を払って買わなくちゃと思う)。

 記事のなかにはいろいろ面白いところがあるけど、その一つ。べてるをたずねた大澤さんに、オリエンテーションをしたあるべてるメンバーをめぐっての話題。

 メンバーの彼女はずっと自傷行為で悩んできたのだけど、「べてるに来たら、私の悩みを『おもしろいですね』みたいに反応してくれて…なんかここは違う」(P4)と思い、それでべてるで暮らすことを決めたらしい。大澤さんは、べてるの逆転の発想、メンバーの勢い、蓄えてきた経験に関心をもちつつ、「リストカットしている人は、それが世界に対するコーピングの仕方(注:対処方法)なんだから、なかなか偉いじゃないかって言ってあげるってすごい勇気いることですよね」と、べてる流はかんたんに技法化・普遍化できないことを指摘。さらに議論を進ませて、一見同じようなことをやっていて、外形は似ているけど、中身は別ということについて述べる。

 「概して世の中そうなんだけど、最高のものと最悪のものってちょっと外見違うだけで良く似ている…一見似ているんだけど『本当は違う』の『違い』をどう表現するか」。大澤さんは向谷地さんに、問いを投げかけた。(ぼくは読みながら、そう!そう!そういうことってあるよなあと心のなかでうなずく)

 すると向谷地さんは、「ナラティブな(注:narrative、体験を語る[治療的関係])アプローチのなかにある『連帯』というキーワードがもしかしたらそうかと思っている」(P7)と応えた。

 すると、この話は松田さんの「鍵」の話と似てくる。世の中には「鍵」を見失ったグループもあれば、「連帯」という考えを捨てた介入の仕方もある。だからこそ取り戻すのは「鍵」であり、「連帯」ということになる。だからこそ、そこに難しさがひそむことになる。

■  衝動性

 6月24日、児童精神科医の石川憲彦さんの話を聞いた。刺激的な話だったが、その中にこんな話がある。

 ダーウィニズム(自然淘汰説)には自然があった。自然は厳しく、人間や動物の生命を奪う恐ろしい存在だ。その自然に立ち向かうためには、人間は仲間と連帯しなければならなかった。しかし、時代が変わる。金融資本主義、ネット情報の氾濫する現代、イメージが実態を抑圧する世界になる。もう、ぼくたちが立ち向かうべきその先に自然はなくなった。人間仲間がぽつんと存在している…。だから仲間が怖い存在になった…。

 ああ!そうか。「仲間」とは、激しく荒れすさぶ海原、極北のブリザード、灼熱の砂嵐、スコールに見舞われたジャングル…だったのだ。それでは連帯どころではないし、共感などという余裕はうまれない。ぼくたちはそんな世界を生きているのかもしれない。でも、その世界では、他者は自分にとって意味ある存在ではなくなるし、ぐるりめぐって、自分が生きる意味もなかなか見出せない。

 『発達障害という希望』(石川憲彦・高岡健、雲母書房、2012年)で、石川さんは「一番の問題は衝動性で、ずっと(注:子どもから大人にまで)継続していくとされます。つまり、将来、最もやっかいなものとして医者の側から警告を発せられるのは、この点です」(P56)と述べる。

 この話は、AD/HD(注意欠陥多動性障害)の診断指標に衝動性が入るかという議論の文脈においてのことで、高岡健さんは石川さんにこたえて「指標には入らない、衝動性は別の要因、たとえば虐待などによるもの」と主張する。衝動性に関して、高岡さんはあっさりした態度だ。しかし、石川さんは診断指標のことより、衝動性が内包する関係の断絶性についてとても気にしている。

 「仲間」が怖い存在になった世界において、衝動性は適応的である。しかし、衝動性が自分にとって問題であり、生きにくい課題であると考えるなら、それは「仲間」によって包みこまれ、関係が構築されなければならないだろう。仲間は怖い存在から、自分の生命の維持に不可欠な存在へと転換しなければならない。襲いかかる他者か、抱きしめあう他者か。そこには本質的な認識論的対立が生成する。

 衝動性が、いきなり連帯と共感に包み込まれたら、激しく抵抗するだろう。自分を閉じ込める檻や罠として思い込み、野生動物のように歯をむいてその檻を破ろうとする。だから、人が衝動性と共存するために、連帯や共感は幾度も傷つけられ、そのたび再生しようとする過程を経る。

 連帯は檻などではなく、私たちが何億年も前に生まれた記憶をたくわえている海、あるいは、細胞の一つ一つに埋め込まれたDNAのような、私たち自身に関わる存在であると、気づくまで、破壊と生成のひりひりした営みが繰り返される。

  ぼくたちが人間としての群れを維持しようとするなら、現代社会のなかでたびたび立ちあらわれている関係を断絶させる衝動との向き合いを避けられない。衝動は社会との関係で適応であり、同時に破壊的であるがゆえに、大きな問題であると思う。

 

 今月、長いあいだ入院していた仲間が戻ってきた。「鍵」を失う中で傷つき、倒れた彼が再び立ち上がろうとする姿は、ぼくの胸をうつ。ぼくは、彼の日常それ自体が連帯への希望だと信じている。

 彼と夕方、語らいながら、ゆっくりと日は暮れる。夏をむかえようとしている夜に、上弦の月がのぼり、北斗七星も見える。つぼみの大きくなったアジサイも暗闇のなかに消えた。サクラ鳥たちもいまごろイチョウの木で寝ていることだろう。また、明日!

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