なんとなくサンネット日記

2012年4月28日

フィルターバブル

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:18 PM
青森にも花の季節が

青森にも花の季節が

 インターネットで検索していて何かが違ってきている、そんなふうに思うようになったのはこの1年くらいだろうか。単純な機械的結果ではなくて、作為めいたものを感じるようになっていた。

『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』(イーライ・パリサー、2011年、訳2012年、井口耕二、早川書房) 

 原題は、THE FILTER BUBBLE:What the Internet is hiding from you。訳は「フィルターバブル、インターネットがあなたから隠しているもの」。 

 この本は、インターネットで生じているが、人知れず進行しているある種の変化について書かれている。著者は1980年生まれ。在野の若い人だが、ずいぶん深く探求している。訳者が本の意図をわかりやすくまとめている。

 ――インターネットにおける検索の結果や各種サイトで提示されるニュースなどは、ユーザー個人の嗜好や興味関心とは関係ないと考えるのが普通だろう…辞書を引いたり新聞を読んだりするのと同じであり、同じ結果が得られるはずだと。これはインターネットを創った人びとが夢見ていたウェブのイメージでもある。

 ところが最近のインターネットは、いつのまにか、自分が興味をもっていることや自分の意見を補強する情報ばかりが見えるようになりつつあるらしい…(インターネットの)情報と我々とのあいだにフィルターが置かれ、そのフィルターを通過できる一部の情報だけが我々に届く状態になってきているのだ。つまり、いま、我々が見るインターネットは一人ひとり違っていることになる。

 本書の著者は、これを「フィルターバブルに包まれている」と表現する。一人ひとりがフィルターでできた泡(バブル)に包まれ、インターネットのあちこちに浮かんでいるイメージだ。フィルターバブルの登場でインターネットの体験は大きく変化した。まず、自分の興味関心に関連のある情報が得やすくなったことが挙げられる。

 「おお、それはいい」と思った人はちょっと待ってほしい。うまい話には落とし穴があるというのが世の中の常識である。フィルターバブルも例外ではない――(p297-298)

  こう述べ、この「落とし穴」について書かれたのが、この本である。フィルターバブルをつくるのはグーグルなどの企業。追跡用のクッキーやビーコンがコンピュータにインストールされ、企業はユーザーのIPアドレスごとに(情報端末の)検索履歴を蓄積する。膨大な情報を処理しつつ、情報間のつながりを見いだすプログラムが作動する。しかし、蓄積した情報も、情報を縦横無尽に操作するプログラムも、アウトプットされるフィルターバブルも企業秘密。

 われわれが見ているディスプレイの向こう側に、きれいにまるめられて、見えないところに仕舞われているのだ。

 フィルターバブルにいる個々人は、自分の興味関心に包まれる。それは確かに便利だが、それ以外のものに関心をもたなくなる。つまり、気の利いたたくさんの召使に囲まれた王様のように、わがままに満足して、自己充足するのだ。

 フィルターバブルは、パーソナライズ(サービスの個別化)の結果である。個別化に向かう理由、それはそこには市場(利益)が生まれるからだ。より気の利いた召使や取り巻きは王様に愛されるし、ときにはラスプーチンのように王を操るかもしれない。パーソナライズされた情報は、パーソナライズされた宣伝とセットになって、ユーザーの目の前で展開される。

 だから、自己充足とパーソナライズされたフィルターバブルは、個々人から政治的な意識と能力(主体性)を奪い、奪った政治的な力を企業側が行使するようになるかもしれない。怖いことだ。

 しかし、インターネットは企業と自己充足した個人だけで成り立っているのではない。別のことを考え、活動する人間もいる。

 地域の人々が実際に顔を合わせて、集まることを支援するウェブサイト・ミートアップ(Meetup.com)を創設したハイファーマンは、かつて広告会社につとめていた。彼はインターネットの宣伝も含め、人々をバラバラにする市場主義に批判の目をむける。

 ――「自分の才能をなにに注ぐべきなのか、自問せずに過ごす人が多いことを広告業界では学びました。人生はゲームのようなもので、皆、ゲームに勝ちたいと思っているわけです。では、どういうゲームをしているのでしょうか。アプリのダウンロードを増やすというゲームをしているなら…これ以上、モノはいりませんよ。魔法のような魅力ならiPadよりも人の方が強いのです。人々との関係は媒体ではありません。友情も媒体ではありません。愛情も媒体ではありません」。――(P229)

  彼は、個々人の力を結集して「便利な」フィルターバブルを変えようとするなら、“人との関係・友情・愛情”への関心をもっと強まらなければならないといっている。

 しかし、企業もまた変わらなければならない。そもそもフィルターバブルをつくっているのが企業だからだ。著者のパリサーはこう企業に注文する。

 ――市民が十分な情報をもって活発に活動できるようにすること、自分たちの生活だけでなく、コミュニティや社会をうまく動かせるようなツールを人々の手に渡すことは、エンジニアリング的な観点からとても重要で魅力的な課題だと思う…そのためには、グーグルの有名なスローガン、「邪悪になるな」の先をゆくプログラマーが必要だ。善を為すエンジニアが必要なのだ。――(230)

 情報操作。他者支配。強欲と冷淡。無関心と自己撞着。このような個人と企業を変えなければならない。彼は、関係と愛を軸に人と企業が変わることで世界も変わる、といっている。

 このような共同戦線がととのうまでは、フィルターバブルによって人も企業も知らず知らずのうちに影響され続ける。だから、この本は、現在進行しているネット世界の大きな曲がり角を示し、やがては多くの人が「あのときに世界は変容した」と思う目印になる道標だと思う。

 かつて、インターネットは情報の大陸であった。19世紀のアメリカ西部開拓のように幌馬車で「自由な」新天地を求めた。ところがいまや、釈迦の手のひらを飛んでいた孫悟空に成り下がった。しかもその「お釈迦様」がプログラムと市場でつくられているというのだから、がっかりする。

 インターネットを再生するために、人としての関係と愛を再生するところから始まる、それは逆説めいて面白い。しかし、だからこそインターネット上の人間のよき未来が、これから生まれるのかもしれない…。だって、もうずいんぶんネットで時間をついやしたのだから。

2012年4月14日

現実にむかって退却

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:08 PM
古川1丁目

古川1丁目

 大澤真幸著、『夢より深い覚醒へ――3・11後の哲学』(岩波新書、2012年)を読みました。テーマがテーマだけに、力をこめた著作だと思いました。

 ぼくは夢の話に興味がそそられました。そのことです。

 現実を結びつけている結び目は、夢のなかで、ゆるみ、ほどけます。

 現実は断片となり、拡散し、隠されていた本質は抽象化します。そして、強い風にちぎれる雲のように、夢の形はどんどん変わります。

 ぼんやりと揺れ動く影がかろうじて端(エッジ)がはっきりしてきたかとおもうと、再びぼんやりして、闇に消えます。突然、見知らぬシーンが立ちあがったと思うと、忘却していたはずのものがそこに端然とある、という具合です。

 見誤った幸福が突然の悪夢に変身したので、うなされたかと思った瞬間、現(うつつ)の隙間にひそんでいた予兆が尊大にそこらを喜び回っているので、がっかりするのです。 いつものドアを開けると、見知らぬ世界からの罠だと知って、驚いて目を覚ます…。

 夢には規則などないように思うのですが、夢を精神分析で着目したのがフロイト。大澤真幸氏は、パリ・フロイト派のジャック・ラカンの夢の解釈を、この本の最初で提示します。

 ラカンは、夢の内在的な力によって、人を覚醒に追いやると解釈しているそうです。夢で再構成された現実の本質の荒々しさは、耐えがたい圧力であり、夢見ている人はやむを得ず現実へと退却すると。

 「はじめは現実から逃避するために夢のなかに入った。しかし、夢の中で、彼はもっと恐ろしい、自分が普段は否認していた――十分に意識していなかった――真実に出会い、今度はそこから現実の方へと逃避したのである」(P6)

 現実の中で隠された「真実」は、夢のなかで再帰する第2の「真実」となるが、それに耐えかねて現実に戻れば、もとの「真実」の影がふたたび立ちすくんでいる。

   現実/夢

   現実(リアル)/虚構(バーチャル)

   正気/狂気

 対立しているかにみえる二つの位相は、互いに情報をやり取りし、別のスタイルで情報を展開している。片側でとらえきれない情報はもう一方の側に送り込み、ストックして、相互に便宜的に依存しあっている。この解釈は深いと思います。

 「真実」は、ほんとうのところ、二つのどちらの側にもないということになります。本当に「真実」を知りたいと願うなら、現実/夢の対立軸を越えて、より深い覚醒へ向かわなければならない、これがこの本の通奏低音です。

 大澤氏は、3・11であらわになった原発の問題は、原発依存から脱却することでしか解決できないはずという主張を、この現実/夢の枠組みの中で、つまり現実と夢(理想)が解体された現実社会にむかいながら、縦横に問題化しています。ぼくには刺激的でした。

 しかし、大澤氏の原発問題はひとまず脇におき、二つの位相が互いに補いあい、依存しているというこのラカン・大澤の考えから触発されたことを書きたいと思います。

 おそらくほとんどの人は、夢のような現実と、現実のような夢を行き来しながら、真実から目をそむけているのでしょうが、そうだとしても、その二つの世界をつくりだすことによって本人を耐えがさから守っているという面があると思います。真実を欺く防御システムではあるのですが、二項対立を超えるために二項の存在があると考えて、世界は人それ自身より深いと理解したらどうでしょう。これはぼくのひとり言ですが…。

 しかし、現代的な問題は、そんな牧歌的な二項対立のことではありません。現実(リアル)/虚構(バーチャル)/虚構の虚構/虚構の虚構の…、というふうに枝分かれするあり方の問題の場合もあります。これは真実の先送りシステムといえます。もっと問題だと思うのは、現実A=暴力/現実B=虚構というふうに、現実が分離して、犯罪にいたる場合です。この場合は、真実を消去するシステムといえるかもしれません。

 

 さて、たぶん、深い覚醒に向かうための道筋として(だと思うのですが)、この本の最後で、大澤は「垂直的な関係を基底においた集合的な意思決定」というものを提案していて、これが面白いのです。ラカンの実践をふまえたアイディアのようです。

 未来のある集団には指導的な委員会が存在するのですが、この委員会は、委員会に上がってくる意見を判断することが大きな役割なのです。状況を分析して、すすむべき道を提示し、構成員にペナルティを課すような、よくある指導部ではありません。ひたすら耳を傾け、質問をして、やがてその意見を受け入れるか否かを決定するという委員会です。(ぼくはミヒャエルエンデの「はてしない物語」のお姫様=幼心の君が、ちょっと近代化して、委員会になったようなイメージをもちました。大澤氏はソクラテスの委員会版として語っていますけど…。)

 委員会に、意見を述べる人は、意見をもっている人自身ではありません。裁判の弁護士のような立場の人、媒介者Mがいます。意見を提起したいAが媒介者Mに話します。MはAの意見を中立的な立場で聞き、よく理解し、やがて委員会に伝える機会を得ます。

 意見をもっているAは、この仕組みを理解し、よりよく伝わるようにMにしっかり話さねばなりません。Aは委員会に自分の意見を受け入れてほしいのですから、媒介者Mというハードルを越える、強い説得力をもつ必要があります。

 (いまの世ではあまたあることですが、委員会の意見が出るのをまって出たあとにあれこれ評論する、受け入れられない理由を100も並べる、あるいは先制攻撃的に意見を出せと委員会に圧力をかけるなどの手法は使えないということです。)

 委員会のイメージはいいと思います。もし、ぼくが意見を言いたいAであれば、時に挑戦的な質問者であるMと向き合い、こうしたい、こうありたいと心からの意見を一生懸命に話します。その努力を傾けているとき、それは、きっと、夢より深い覚醒に向かうための鍛錬そのものだと思えるからです。

 考えてみると、いまの日本社会で跋扈するのは「あと出しじゃんけん」です。高飛車にもの申したり、クレーマーも。見てみぬ振りだったり、沈黙だったり。人間的な真実は(現実/夢・虚構)のどこかにストックされたままで、何かが起きたら(あるいは起こすように仕向けてから)、あと出しじゃんけん。

 だから、あと出しはやめましょう、あなたの思う真実をまず語りましょう。私は聞きますよ。という小さなシステムをつくり、そこで語り合って、現実/夢の境を超えていきましょう。…そんなふうに思えてきます。

 「ここに提案した方法で機能する委員会は、未来の他者を、ここに、現在に呼び寄せる一つの方法である」(P261)。未来の他者…これも魅力的な言葉ですが、これはまた別の話です。

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