なんとなくサンネット日記

2011年12月27日

社会を創るための契約

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:54 PM
雪降る町

雪降る町

■措置から契約へ

 社会福祉の分野は、2000年から「措置から契約へ」の時代になりました。それまでは、公的責任(国・自治体)を通じて国民の福祉を実現しようという枠組みだったのですが、その枠組みを取り外して、多様で自由な契約活動を中心に、個々人の福祉を増進させる社会にしようという方向に変わりました。

 私は、「措置から契約へ」進展したのは、きっと、政・財・官の癒着した人々が、安上がり福祉を固定し、市場化によって経済効果を図ることをねらったからだ、と思っていました。この動きを怪しんでいたのです。

 明治時代、国民の税金で大きくした国有企業を民間に払い下げ、民間資本を育成したように、今回の場合も、「措置」の廃止(=国の資源の開放化)に重点があるのだろうし、これからは民間福祉業界の育成が進展するに違いないと、自分勝手にそう考えていました。だから、「契約」は本質的な問題ではないと為政者は考えているだろうと思い込んでいました。

 最近、本屋をぶらぶらしていると、民法改正について書かれた本を見ました。しかも同じテーマで、2冊の新書が同時に(今年の10月)出版されています。なんとなく気になり、手にとって読みました。テーマは民法の中の「契約法」についてでした。

 「契約法」が改正されようとしている。改正しなければならない理由がある。読んでいくうちに、この改正の理由の源流をたどると、福祉分野の「措置から契約へ」の問題とも合流するし、その奥にはさらに大きな背景(社会的な課題)があると気づかされました。

■契約法改正を突き動かすもの

 2冊の新書の一冊は『民法改正を考える』(大村敦志、岩波新書)、もうひとつは『民法改正――契約のルールが百年ぶりに変わる』(内田貴、ちくま新書)です。

 二人とも民法学者ですが、大村氏は法制度、社会的背景、国際比較について重点を置きつつ論点を整理するような書き方。内田氏は民法の成り立ちや時代の変化を判例を引きながら、くだいて教えるような書き方です。2009年から契約法の改正作業の動きが進展して、今年7月にいよいよ実質的な改正審議に入ったのだそうです。この審議を経て、一定の案を2013年2月に提出できるよう、目標が定められました。まさにホットな状況があって、2冊の本も出版されたのでした。

 大村氏は「民法改正の思潮」として次の5点をあげます。社会的背景についての説明なのですが、これはよくよく吟味されるべきことです。

 ①規制緩和・グローバリゼーションの進展と、その動きをサポートする司法制度改革。司法の動きは会社法、証券法などにおいて1999年から始まっているそうです。(これが民法改正に関わっているといいます。以下同様に関係することがらです)

 ②1990年代からの市民運動の多様化と政権の流動化。この20年の政治的流動化のことです。

 さらに、③消費者の登場と家族の多様化、④法学における解釈論から、立法論・政策論へ--法の安定性、権威的な法律家のあり方から、社会への対応力、実務者としての法律家にという流れについて--

 ⑤今回の動きは、契約法の改正にとどまらず、漸進的に広範囲な改正に連動していくだろう、この5点をしっかりとらえることで、民法改正の意味がつかむことができる、そういう意味で大村氏は述べているのです(『民法改正を考える』P59-63)。

 民法改正の「思潮」とは、民法改正を突き動かしている社会的動向であり、民法改正作業が進む先にあるパラダイム(思考の枠組み)のことでもあるのでしょう。しかし特に①から③の社会状況は、市場・消費・個人主義・排外主義にいろどられた現代の特徴全体と重なりあっているではありませんか。しかも、最近の20年の状況が法改正の直接的な影響を与えているようです。

 民法改正の問題は、世俗から空高く離れた法学の問題ではありませんでした。世俗に深くかかわった課題が法学を揺らがせていたのです。ここが、「措置から契約へ」を動かした源流、社会的原因です。「措置の廃止」は「契約の拡大」と裏と表の関係です。単なる厚労省レベルの問題ではなく、現代的な諸課題が集約して「措置から契約へ」突き動かしていった面があったということです。

■制度から契約に

 大村氏は、福祉分野の「措置から契約へ」のキャッチコピーのように、契約法を改正しなければならない社会状況を大きくまとめれば、「制度から契約に」になるそうです。制度から契約にとは、従来「制度」と考えられてきたものを「契約」としてとらえ直すことで、「限定的・固定的な『制度』を、より開放的で可変的な『契約』とすることで、個人の自由の領分を拡張しよう」とすることである、と述べています(『民法改正を考える』P162-163)。

 その一方、この百年、民法が典型的な契約として想定していたのは不動産売買であり、現代的な介護契約、教育契約、金融サービス契約などについて適用できるような民法の規定はほとんど用意されていなかった、という現実もあります(『民法改正――』、P189-191)。百年の間で契約の実態が大きく変わったのです。

 つまり、――いままで、措置制度とか教育を受ける義務とか取引慣行とかという有形無形の「制度」によって成り立ってきた社会現象を、「契約」という考え方で新たにとらえ直すことが、国際化・情報化の現代社会は求められている。ところが、受け皿になる法的な考え方、社会的感受性は熟成されてこなかった。なので、いま法改正に着手している。金銭交換の現実と人々の感受性の落差は広がり、社会的諸制度は弱体化しつつ、契約概念はどんどん拡大している――ということではないでしょうか。

 ひょっとして、制度が弱体化するなかで生じる権益というものがあり、その樹皮からにじみだす樹液のような蜜に、契約という概念を盾にした甲虫のような人々が群れる。こういったこともあるかもしれません。いずれにせよ、いま私たちは過渡期、混乱期にいるのです。契約、サービスの消費に関し、急激に変化した人々の意識(たとえば極端なクレーマーなど)は、こういった社会的変化を敏感に反映させているのかもしれません。

 しかし、やや希望的に考えれると、「われわれは、このような契約を用いて、新しい制度を創り出していくことができる」ことも、確かでしょう(『民法改正を考える』P166)。契約のなかに、自由意思、構想する意思、法的な枠組みを組み入れる。そして、新たな市民的関係を契約の中にデザインするというのです。

 新しい社会の構築を望みつつ、契約の観念と実践を誠実に積み重ねるか、それとも、崩れ去る制度からこぼれる富を拾い求めて、契約という旗をなびかせ争いあうのか。私たちは、法改正の問題にとどまらない、文明的な岐路に立っていると思います。いま、まず大切なことは、私たちが闘うべき相手は何なのか、それを熟慮し、語り合うことかもしれません。

2011年12月1日

監視型社会を生きる

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:36 PM
ビルの裏側にも粉雪

ビルの裏側にも粉雪

■監視カメラの私たち

 監視カメラがあれば安全だと思うようになったのはいつからだろう。

 以前は、監視カメラがあれば、覗かれる自分を想像し、想像力は瞬間的に嫌悪感になり、覗く人間(権力)に抵抗を感じた。

 権力=監視と、「私」=活動する市民は対立していた。覗かれるものと、覗く側とは確かな距離があった。交叉するものではなかった。

 いまや、そのシチュエーションは変わった。

 監視カメラが覗こうとしているターゲットは、「私」などではない。標的は私が見たこともないどこかの「犯罪者」。「私」は無関係、せいぜいその他大勢。

 監視カメラの画像を点検しチェックする人は、漏水を点検する水道職員と同じ。「不全」「故障」「異物」を点検する品質管理にかかわる。寒い日に鉄道の保線をする人、切れた電線を修理する職員、荒天のなか新聞を届けようとする人たち…。私たちは多くの人の努力に守られ、彼らが形成するガードフェンス、城壁の内側で暮らすことができている。

 だから、今や監視カメラで覗いている人の背中の後ろから、「私」たちも画像を覗きこみ、点検を済ませて、安心して暮すという図式になったのだ。

 監視型社会の内側でぬくぬくと暮らしたいと望む私たちは、日常の行動様式も変化し、新たな社会には新しい行動スタイルが選択される。

 情報を得たり情報をチェックする行動には、「監視」への欲求が含まれるようになった。誰かにまなざしを向ける、何かの行動を知る…その際、「安全」かどうかのチェックがすばやく、共感や感動が起きる前に、優先的に立ち上がる。

 「知ること」「見ること」「関わること」の下層、意識できない深いところの下層意識に、「監視」感覚がインクの滲みのように広がる。さらにその下層には、覗いてしまう自己に対する罪悪感、安全を脅かす他者の存在への嫌悪感、そんなものが山奥の沼の面にあわ立つメタンガスさながら、そこらここらにポコポコと浮かび上がる…。

■ワインズマンの答え

 アメリカのドキュメント映画作家、フレデリック・ワインズマン(1930年生)の作品上映会が、この秋から来年にかけて各地で行われている。

 11月に開催された渋谷・ユーロスペースの上映会は「ワイズマンを見る/アメリカを観る ―アメリカ社会の偉大なる観察者、フレデリック・ワイズマンの世界」と題されている。

 「偉大なる観察者」! 偉大なる観察者には、覗いてしまうことの罪悪感があるのだろうか、と思う。凡人はそんなことを考えるものだろう。来日していたワインズマンはインタビューでこう聞かれた。

 ――実際に撮影される際に、被写体のかたを傷つけてしまうことへの倫理的な恐怖感を感じることはありませんか。また、被写体のかたと撮影に関する契約を交わされることはありますか――(10月29日ユーロスペースのトークショー)

 この質問は、撮影という行為への本質的な問いかけではなくて、質問者自身がかかえている、見ることの罪悪感が表出し、ワインズマンに投影させたのだと思う。

 この前にワインズマンは次のような話をしている。「私の場合(マイケル・ムーア監督と違い)、実際に現場に行って、自分が観察し、そこで6か月とか12か月かけて学んだことを、映画という形で報告するという手法です」と。

 ワインズマンの撮影は客体と距離がない。彼が選んだ場――たとえば刑務所、救急病院、福祉センター、裁判所、DVなど――の一方の当事者として、その場に長い期間とどまる。そして、客体を見、客体の向こうにある世界の断片をつかみ続け、編集という作業で再構成したレポート・「映画」をこの世に送り返す。

 先の質問にワインズマンは答えた。

 ワインズマン 答えになるかどうかわかりませんが、ひとつ申しあげたいのは、今まで撮影対象としたかたのなかで、苦情を言って来られたかたはありません。撮影に際しては、こういう形で撮影しますと、口頭で説明します。そのときに、「イエスかノーか」という形でお聞きしますが、「ノー」とお答えになるかたは、めったにいらっしゃいません。…公共機関に関しては、書面の許可、撮影許可は取りません…民間の機関であればどうするのか。…『肉』という映画では、食肉加工工場を取りあげています。そちらに関しては、撮影許可を録音で取り付けています。どうして書面でのやりとりにしないのか。契約書に署名をすることになると、署名するかたは、もしかすると重大なことをしているんじゃないかという気持ちになってしまうんですね。ほとんど身売りをしているような気分になってしまうのです――(週刊読書人.2011.11.25号)

 私のいう「罪悪感」、質問者のいう「倫理的恐怖感」から遠く離れたところを、ワインズマンは歩いてきたのだ。彼は、多くの人の言葉に耳を傾け、足音や騒音を聞き、表情を覗き込む。緊張感や絶望、そして希望と日常。複雑な世界から何かをつかむが、単純化を避けてきた。世界と世界の境目を歩いていくだけ…。だけど、それはなんと軽やかな足取りなのだろう、と思う。

 彼の映画を見たい。

(以下、コミュニティーセンターの「フレデリック・ワインズマンのすべて」のHP)
http://jc3.jp/wiseman2011/index.html

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