なんとなくサンネット日記

2011年11月28日

ぼくたちの子育て支援

Filed under: お知らせ — toshio @ 4:47 PM
初仕事

初仕事

サンネットの確認事項・子育て支援について(抄) 

 Aさんたち夫婦には、長女の保育園送迎という「仕事」があります。24時間365日休みなしの子育ては、障害者にとって大きな負担です。

 そのため、長女は保育園に通所し、日常的に親族・ヘルパー・福祉関係者などの人たちの支援も受けてきました。

 保育園送迎は二人でおこなっていますが、冬季は歩道に雪が積もると車道を歩くなど危険な箇所があるため、タクシーを利用してきました。

 自宅から保育園は1km足らずですが、長女を連れて歩くと30分ほどかかってしまうこともたびたびで、冬季でなくても負担がいろいろあります。

 このような事情を勘案し、当事者の子育て支援として、2008年度からAさんたちの冬季保育園通所において、タクシー利用が必要な場合、初乗り運賃をNPOとして支援してきました。

 2011年度冬季をむかえ、長女の送迎について、Aさんたちからタクシー代の支援継続の要望がありましたが、今年もタクシーが必要だろうかといろいろな関係者から異論が出ました。理事会において、この支援を文書化し、誰にとっても確認しやすくした上で、今年度も支援を継続することにしようということになりました。これにより、将来、Aさんと同じような人が出た場合も、同様に支援しやすくなります。以下確認です。

――NPO法人サンネット青森が運営する障害者福祉サービス「地域サービスセンターSAN Net」利用者が子育てをおこなっている場合、子育ての大切さと親である利用者の負担の大変さについて、思いを巡らせたいと思います。

 会員、市民に対して、支援の必要性を伝えることで、自主的な行動を喚起し、支え合う地域社会をめざしたいと思います。

 サンネット青森の「利用者(精神障害者)の子育て支援」の一環として、当面、保育園通所の際車輌が必要であるが車輌を所持しておらず、タクシー利用するための経済的余裕がなく、送迎を支援する人もいない場合、最低限必要なタクシー代について法人本部で支援します。――

2011年11月24日

節約された自己犠牲

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:13 PM
インディアンサマー

インディアンサマー

 精神科医の木村敏氏がたずねられた。

 Q かつて精神医学に批判的だった人たちには、医療者―患者間の非対称的な関係を取り払って、「付き合うこと」「いっしょに暮らすこと」を模索した人たちがいましたが、そのことについてどう思いますか?

 彼はこう答えた。

 ――実際に自分が治療している統合失調症の患者さんで、「ああ、この人と一緒に暮らすことができたら、もう少しよくしてあげることができるのになあ」と思う人があることはあります。ただそれだけの自己犠牲的な熱意がないだけのことです。自己犠牲を節約して付き合ってもしょうがないと思いますから――(『現代思想』p55,2010年,10月特集・臨床現象学)

 「自己犠牲を節約して付き合ってもしょうがない」という言葉が私には印象的でした。

 しかし、ちょっと考えると、その言い方の内側に超越的、高踏的な「何か」があるのではと気になりました。高みからの彼のもの言いと、指し示す「自己犠牲」というリアルな現実とがクロスする領域には、どのような次元が存在しているのでしょう。

 ――例えば、両親のもとにいること自体がよくない、かといって自立して一人で暮らすこともできないような患者さんですね。両親との関係自体が病気を悪くしている、そこから切り離すだけでずっと楽になるはずだ、と思える患者は結構たくさんいます。しかしもちろんこちらも家庭を持っているわけですからそんなことはできないわけですが…そういうことを感じる場合は確かにあります。もし共同生活ということができたら、と。しかしそれは治療者の方の犠牲が大きすぎますよね――(p56)

 思想を背景している発言なので、この言葉だけで意味をつかむことはむずかしい。

 彼は、統合失調症は、全体的な存在、集団的な生命(=ゾーエー)が、有限な個的生命体(=ビオス)と接するところで生じた病的な事態と述べています。この考えが彼の現象学の中心らしいのです。これもまたむずかしい。

 大きな存在と連結するところで何か問題が起きたのであるから、責められるべきは患者ではない。家族や社会の特定の人が原因ということでもないが、集団的な現象による(p51)できごとなのだと彼は言います。

 「集団的な現象」が何をさしているか、これもつかみにくいイメージですが、たいへん大きな課題である以上、少なくとも、個人レベルで患者を簡単に良くするなんてことはできない、ということになります。同時に、そういう考え自体が超越的に響きます。

 社会や家族がどのような役割をはたしているのか、彼の考えをたどっているわけではありませんが、集団的な生命(全体性)と個人の生命が切り結ぶところに、社会や家族があるのなら、私たち人類は自分の生命に対してえらくいびつな装置をつくってしまったことになります。

 統合失調症の人ばかりでなく、ここの装置が人間にとって大きな課題だし、統合失調症の人はたまたまその課題を表現しているにすぎないということにもなるかもしれません。

 ならば、人間集団のいびつさ(=課題)を、生命の流れにそった素直な方向に修正するためには、限りない自己犠牲が必要なのはあたりまえかもしれません。そして、確かに、節約してはならないものでしょう。

2011年11月14日

関係の絶対性

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:50 PM
冬近し

冬近し

 ――9・11から3・11へとつづく話を、見田(宗助=社会学者)さんはされましたけど、今回まさに、そのお話をおたずねしたいと思って来ました。見田さんの中には、ふたつのモチーフがあると言いましたよね。どういう生き方をするのか。またそのような生き方ができる社会を、どうやって作るのか。この二つが、自己と社会の二つの領域で、9・11から3・11へと続く関係の絶対性から自己烈開の構造の問題、そして2008年に現れた虚構の無限空間とリアリティの有限性の問題となって現れているというのは、とても心に響く、アクチュアルなお話です――(週刊読書人2011年11月11日見田宗助・加藤典洋対談から、加藤氏の発言)

 ぼくにとって魅力的な、そして魅惑的な言葉群…。でも、論旨はつかめない。トホホ…。

 文章を読んで、最初につまづいたのが「関係の絶対性」という言葉。「絶対的関係」ならわかる。社会に広がるいろいろな関係のネットワークから超越、逸脱した関係をさすかもしれない。あるいは支配と被支配のように固定した関係のことかもしれない。しかし絶対性とはなんなのだろう…。

 「関係の相対性」という言葉があったとしたら、それならわかる気がする。ある関係が存在していて、離れたところからそれを見ると、見る者の立ち位置によって変わる。だから相対性であると…。すると、どこから見ても変わらない関係、そのような存在をさしているのだろうか。

 「関係の絶対性」は思想家・吉本隆明の初期の論文に出てくる有名な言葉だそうだ。見田さんはこの言葉を「絶対の敵対的な関係」と言い換えている。また「関係の絶対性を、関係の絶対性によって否定することはできない」(『社会学入門』岩波新書、2006年、P135)ともいっている。

 「関係の絶対性」とは、原初キリスト教のローマ帝国への憎悪、現代のイスラム原理主義者のアメリカへの憎悪感情など歴史に繰り返し現れてくる「憎悪」を生み出し、固定化する構造のことらしい。

 さらに「自己烈開」「虚構の無限空間」「リアリティの有限性」とむずかしい言葉が続くが、この話の理解をすすめることをとりあえず断念して、ちょっと脇に置く。

 そして「関係の絶対性」について考え、『社会学入門』を読み返す。するとこんな文章にたどりついた。

 ――けれども吉本の思考のうちには早い時期から、「関係の絶対性」という思想が、たとえば自爆テロのような仕方で死ぬ根拠となることはできても、生きるということの積極的な根拠としては、貧しいものであることの的確な予感があります。不当な秩序に屈服することなしに生き続けることの積極的な思想としての吉本がのちに獲得するのが、〈自立〉という概念でした――(P139)

 なるほど、支配・被支配の関係から離れるという願いを込めて、自立という言葉を語る人がいたんだ。支配している人はその支配から離れる。支配されている人は、支配する側に駆けあがろうとすることをやめる。そんなことを思考してきた長い年月があったということを気づかされた。

 これは、ぼくにとって思いがけない大きな収穫なのかもしれない。

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