なんとなくサンネット日記

2011年9月30日

排他するアイデンティティ

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:50 PM
たたずむカモメ

たたずむカモメ

■当事者研究の二重性

 社会学者の大澤真幸は、対談『痛みの記憶/記憶の痛み』(現代思想、2011年8月号)で、当事者研究のことについてふれた。

 「『当事者研究』という考え方は、とても面白いと思います…当事者なのに、研究者のようでもある、という二重性が、です」。当事者研究は、専門的な知識の構築とは異なるベクトルをもつ。そして、当事者だけが当事者の世界を理解しているのだ、というスタンスに寄り添うものでもない。

 研究者と当事者を往復する二重の立場だからこそ、当事者研究は「信じるという契機(が引き出されたし)…(また)どうやって引き出すか(に賭けた)工夫」でもあった、という。ここから大澤の議論は、信じることに焦点化していくのだが、彼の視点には複数のアイデンティティ(当事者/研究者)というアイディアもひそんでいるように思う。

 なぜ、単一のアイデンティティでは生じないものが、二重のアイデンティティのもとでは生まれるのだろうか。そして、単一のアイデンティティに信じるという契機がないのはなぜだろう。(たとえば「私は研究者だ。それ以外の何者でもない」などという人がいれば、その人は一途に信じていて、強いアイデンティティをもっているではないかと思うのだが、実は、それはその人が主体的に信じているのではなく、外側から与えられたものを信じているだけで、非主体的だと大澤は考えているらしいのだ)

■アイデンティティに内在する暴力

 アマルティア・センはアイデンティティの複数性という考え方について提唱している。

 ――私は1940年代の分離政策と結びついたヒンドゥー・ムスリム間の暴動を経験した子供ころの記憶から、1月にはごく普通の人間だった人びとが、7月には情け容赦ないヒンドゥー教徒と好戦的なムスリム教徒に変貌していった変わり身の早さが忘れられない。…暴力は、テロの達人が掲げる好戦的な単一基準アイデンティティを、だまされやすい人びとに押しつけることによって助長される――(『アイデンティティと暴力』、アマルティア・セン、2006、邦訳東郷えりか、勁草書房、2011、P17)

 センは1933年インド・ベンガル地方で出生。経済学・哲学とを接合する独特のアプローチを構築し、アジア人で初めてノーベル経済学賞を受賞した。ハーヴァード大学の教授だ。

 彼は、この本で9・11以来よく言われるようになった「文明の衝突」論を批判している。「目には目を」がムスリムの教えなんだ、などという単眼的なレッテルづけは対立図式をあおるだけである。

 その一方、「ムスリムは決して好戦的な宗教ではなく、平和的で豊かな歴史をもっている」といったムスリム弁護も、外側を置き換えただけで、「単一のムスリム」という中身は変わっていないと彼は批判する。問題はアイデンティティがもつ排他性なのだ、と指摘しているのだ。

 センの言い方に従えば、何かの集団にアイデンティティをもつということは、その集団に忠誠を誓うことである。忠誠を誓ったとたん、その集団ではない別の集団を排他しようとする力学が生まれる。この両義性が問題なのだろう。

 人間社会は、「国籍・居住地・出身地・性別・階級・政治信条・職業・雇用状況・食習慣・好きなスポーツ・好きな音楽・社会活動を通じて、われわれは多様な集団に属している。こうした集合体のすべてに人は同時に所属しており、それぞれが特定のアイデンティティをその人に付与している。どの集団を取りあげても、その人の唯一のアイデンティティ、また唯一の帰属集団として扱うことはできない(P20)」。

 この多様性に目を向ければ、別の集団を排他しようとする「境」ははっきりしなくなる。

 連帯や忠誠心をともなって「私は〇〇である」と宣言するとき、そこは問題がない。しかし、宣言した場所の脇に目を向け、次のステップに踏み込んで、「われわれは△△ではない」、あるいは「△△は◇◇すべきだ」と言い始めたとき、あっという間に排他性や攻撃性が入り込んでくるのだろう。ここは実に微妙だ。

 多様性を基礎に、信じることの主体性を立ち上げる。それと、輪郭が明確なアイデンティティを主張することの違いを、センはどのように語ってくれるのか。読み始めたばかりの本のこれからが楽しみだ。

2011年9月25日

関係性にコミットする

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:15 PM
雲たなびく

雲たなびく

 『痛みの記憶/記憶の痛み――痛みでつながるとはどういうことか』(現代思想、2011年8月号、P38-55)は、熊谷晋一郎(小児科医)と大澤真幸(社会学者)の対談だった。

 熊谷さんは1977年生まれ、出生時から脳性小児まひで電動車いすを使う日常だ。

 大澤さんは1958年生まれの社会学者。年齢も立場も違う二人が、痛みと人のつながりについて考察している。

 熊谷さんは当事者研究に関心がある。大澤さんは、熊谷さんの身体的な痛みや当事者研究のことを興味深く受け止めつつ、新たな知的世界にむけてスケッチを描く。多産で豊饒な大澤さんは、あきらかに熊谷さんに刺激されている。

 熊谷さんの話は興味深い。

 彼は脳性まひの二次障害として慢性疼痛をかかえている。慢性疼痛は急性疼痛と違い、痛みの原因が特定できない。

 「最近の痛みの研究の現場では、おそらく過去の痛みの記憶が、神経の中に記憶、痕跡として残ってしまって…フラッシュバックのように現在の記憶として思い起こされているという状態ではないか、ということがわかるようになっ」たと熊谷さんはいう。(p39)

 慢性疼痛の患者には二つのサポートの方法がある。一つは「痛み随伴性サポート」といわれるもので、相手に共感して痛みを取り除いてあげようと、相手が「痛い、痛い」と表現するたびにそれに応答義務をはたそうとして、いろいろ手立てを講じるサポートである。

 もう一つは「社会的サポート」と呼んでそれと区別する。「痛い、痛い」と表現する人の痛みはさておき、それ以外の部分、たとえば社会復帰のための手立てを講じるとか、体が不自由であれば介助するとか痛みとは関係のないところでサポートする方法である。

 そして「痛み随伴性サポートは痛みをかえって悪くすることがわかってき」たと熊谷さんはいう。

 幼子が道で転んで泣いているとき、周囲が騒ぎ立てればよけいに子どもは痛がる。おとなでもちょっとした切り傷をあまり心配されると、かえって本人は心配になる。日常的な経験を延長させると、慢性疼痛も呼応的であればよくないのでは、と想像できる。

 しかし、この事実を、痛みをかかえ、身体介護を必要としている熊谷さんの側から指摘するところがすごい、と思う。受ける側にしてみれば「痛み随伴性サポート」を確保しておいた方が「得」なはずだからだ。

 彼は、個人的で物理的な「損得」より、当事者がもつ価値の可能性に関心がある。「痛い」→「対応」という応答を越え、言葉を越えた「信頼」「信じる」という次元におおきな潜在的な力があることを、ダルクやべてるの活動を通じ、また自身の体験から知っているからだろう。そして、こう述べる。

 「仲間とともに、関係性にコミットする形で、信をともなった『私たちの知』を開いていくという可能性を見いだしてい」るのが彼の当事者研究、当事者活動であるという(P50)。

 この言葉は、大澤さんが「信じる」ということについて述べたことへの応答である。大澤さんは彼の言葉のやや前にこういった。

 「どうして人は根拠なしにある特定の仮定や可能性を『信じる』ということができるのか。『信じる』ということは何かにコミットするということなのですが、何にコミットするかといえば、実は他者との関係性にコミットしているのです。知識にコミットすることはできないのです」(P48)

 信じるとは、その人の主体的なことであり、「関係性」(“目に見えないきずな”)にコミットしようとする営みであるという。担保も根拠ももたずに、見えないものにコミットする「信」、それが当事者研究、当事者活動を通していよいよあきらかになってきたという前提を二人は共有している。

 そして、それを社会システムにどうやって応用するか、それがこれからの問題だと二人は思っている。「信じる」「関係性へのコミット」…この先には大きな知の地平が広がるのだ。

 (さて、では、なぜ痛みに随伴するサポートに効果がなく、「信」にいたる道を損なうのでしょう。それは「痛み」に人を孤立させるベクトルがあるからだと述べています。サポートすればするほど、痛みのベクトルに沿ってしまい、その人を孤立させてしまう。援助者もそのベクトルに乗ってしまうからだというのです。こんなふうに両義的なエネルギーが、人間を突き動かしているのですね。支配、暴力、自傷、偽り、焦らし、気を引く、嘘…。「援助を求める―援助する」という関係は、人間存在のこの両義的な領域にかかわるむずかしさがあります。でも、だからこそ孤立から共同に折り返す道も“ここ”にあるのではないか、私はそう思うのです。)

2011年9月14日

入れ子の共感

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:28 PM
共感の時代、p293

共感の時代、p293

 地球上に哺乳類が存在する時代になり、共感という現象が生まれた。共感は人間の空想物ではなく、進化の産物である、『共感の時代へ』の著者フランス・ドゥ・ヴァールはこう考えている。

 私たちの脳は、古代のげっ歯類の「共感」、類人猿の時代に獲得した「共感」、人類になって育てた「共感」が重なっていて、200万年の間に増殖した人間の前頭葉だけに存在しているのではない。

 また共感は、情動伝染・他者への気づかい・視点取得という三つの機能が入れ子状に組み合わさっているとヴァールはいう。

 あくびをするアニメのチンパンジーを本物のチンパンジーに見せる実験をした。アニメは頭部だけが描かれ、数回あくびをする。それを見たチンパンジーもあくびをした。アニメを見ないとあくびはしなかった。これが「情動伝染」である。

 また、あるチンパンジーが箱を積み上げて、天井から吊り下げられたバナナを取ろうとしている。からだを立たせ、さらに腕を伸ばし、バナナにふれようとしている。遠くで見ていた別のチンパンジーは身体を同調させ、同じように腕を伸ばした。これも情動伝染だ。

 「他者への気づかい」は、他者の感情に関して認識し、そして他者の苦境を緩和するために必要な行動をとることである。しかし、認識以前の、伝染しているかのような気づかいもある。動物も幼い子どもも何が起きているか理解している様子もないまま、悲しんだり苦しんだりしりしている仲間に近寄っていく。

 あるときアカゲザルの子どもが上位のメスザルの上に飛び乗ってしまい、メスザルに噛みつかれた。噛まれた子ザルはひっきりなしに泣きわめいたので、他の子ザルたちがすぐに周りを取り囲み、お互いどうしで押したり引いたり、小突きあったりした。「子ザルたちの反応は自動的らしく、彼らも犠牲者に負けず劣らず取り乱し、自分も慰めようとしているかのようだった」((『共感の時代へ――動物行動学が教えてくれること』、フランス・ドゥ・ヴァール、2009、邦訳2010、柴田裕之、紀伊国屋書店、P137)

 傷ついた子ザルに、他の子ザルは引きつけられるように近づいた。つまり気づかっている。ただし、傷ついた子ザルが求めることに行動が対応しているわけではない。必要な行動を提供するには、もう一つの機能が必要なのだ。

 自己と他者の区別をし、その上で、他者がどのように感じ、何をしてほしいと思っているかを想像する能力、「視点取得」がそれである。

 1954年公営水族館用のイルカを捕獲するため、フロリダ沖でバンドウイルカの群れのそばでダイナマイトを爆発させた。気絶させて捕獲しようとしたのだが、一頭のイルカが体を大きく傾けたまま水面に浮かび上がった。その途端、二頭のイルカが助けにきた。

 「両側の水中から現れた二頭のイルカは、やられたイルカの胸びれの下あたりに頭の側面を当て、水面に押し上げた。明らかに、まだなかば気絶した状態のイルカが呼吸できるようにするためだった…目の前で繰り広げられた共同の援助が本物であり、意図的なものだったことは、疑いようもない」(P183)

 アカゲザルの子どもは傷ついた子ザルに何が必要かはわからなかった。しかしこのバンドウイルカは、気絶した仲間が意識なく、そのため呼吸を助けなければならないことを理解した。気絶したイルカの視点を理解し、その視点を自分のものに取得しているのだ。

 間もなく仲間が回復すると見事な跳躍を見せて、一斉に逃げていったという。

 共感に関する三つの機能が入れ子になり、さらにそれが大きな入れ子状態をつくり、私たち人類の「共感」に成長し、進化した。何億年もかかって生まれた私たちの共感を私たちは働かせたり、抑制したりしながら、社会を形成している。地域社会から国際社会まで、社会システムは共感の影響を受けている。

 視点取得と共感にかかわる深層の部位との結びつきが完全に絶たれると、利己的に他者を操作する。ここに、まさに生き馬の目を抜くビジネス社会、競争社会、他者を人間と思わない関係が生まれる。こうすればこう思うだろうなと思いつつ、相手の望まないことをする。裏をかく。ダメージを与える。われわれに与えられた進化の恵みを、完全に悪用しているのだ。

9月の雨

9月の雨

 ところがヴァールは楽観的な人だ。

 「私は共感が進化の歴史上とても古いものであることを思うと、何とも楽観的な気分になる。共感は確固たる特性ということであり、事実上すべての人間の中で発達するから、社会はそれを当てにして、育み、伸ばしていくことができる」(P294)

 共感システムのいろいろな悪用・誤用があろうとも、共感が多くの哺乳動物や人間に普遍的に存在しているものである以上、それは必ずや修正されていくと述べているのだ。おそらく、私たちは、私たちの社会からだけでなく、動物や幼児からも学ぶべきことがたくさんあるようだ。

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