
1980年働く女性
■地デジ難民、買い物難民
7月24日、地上テレビ放送は「完全」デジタル化になった。民放連の広瀬道貞会長は10万世帯ほどの地デジ難民が生まれると推定している。
地デジ難民が、デジタル化未対応の人という意味なら、我が家も地デジ難民である。何か思いがあって対応しないわけではなく、必死で対応を急がなければならないほど、見たいテレビがあるわけでもないから…という意識的消極派(?)である。
ところで、ぼくはこの「難民」という言葉の使い方が気になる。もちろん、環境がどんどん変化するなかで、取り残される高齢者は多いし、文化的な持続力を失いつつある。電車の自動改札機、種々のカード、ケータイやパソコン、複雑なリモコン、IT…それらが一体となり、ぼくらの社会を包み込み、返す刃で「雇用難民」を生み出す。困っている人たちを「難民」と呼ぶことで、社会の奥で進行している深刻な課題を指し示しているのだろう、とは思っている。
それでも、難民という言葉でいいのだろうかと気になるのだ。難民は、迫害を受け、切迫する危機から避難し、亡命者として祖国を離れて暮らす。過酷な政治状況下をくぐりぬける悲惨さ、徹底的な絶望、それと隣り合わせの生きようとする力…。社会や政治がもっている残酷さに、立ち向かい、逃げまどい、生き抜くギリギリの人間存在を指している言葉を、「地デジ難民」「買い物難民」などの表現で、ことの本質を薄めてしまっていいのだろうか、と。
■1980年ベイルート
写真はパレスチナ難民の縫製工場。時は1980年。壁には祖国パレスチナの地図がある。祖国への帰還を願いながら、若い女性がミシンを動かしシャツを縫っている。
1947年、イスラエルの建国、その後の何度かの中東戦争で、400万人を超えるパレスチナ人たちが祖国を追われた。この工場で働いている若い女性たちの多くは、難民化したのちに生まれた二世なのだろう。
1980年という年は、パレスチナ人組織(PLO)にとって小春日和のような時期だった。
1947年以降、難民化したパレスチナ人の多くはヨルダンに移る。ヨルダンでPLO活動が活発化した60年代後半、ヨルダン政府はPLOを弾圧する。1970年ヨルダンから追放されたPLOはレバノンに移るが、75年‐76年、キリスト教系民兵とイスラム教系民兵の内戦に参戦。そこに、さらにシリアも介入。
1980年はいくつもの武装勢力がにらみ合いながら、沈静化していた時期だった。しかしそれは1982年のイスラエルによる侵攻までのつかの間の「平和」でしかなかった。
難民はさまよえる人々である。だからこそ、家族をもち、子を育て、仲間を作り、生産する。移動し、武装し、戦う。傷つき、家族を失い、苦しみに身もだえし、そして愛する。悲しいことだが、それは、確実に人類の歴史の一部である。
■ベルリンのパレスチナ青年
『犯罪』(フェルディナント・フォン・シーラッハ、2009年、邦訳2011年、酒寄進一、東京創元社)という本が出版された。
「このストレートなタイトルからは、つい反射的に推理小説や警察小説を連想してしまう。しかし本書は、トリックを解いたり犯人捜しをしたり、あるいは警察や権力の裏に隠された闇を暴くといった内容ではなく、弁護士から見た犯罪者を、簡潔な筆致で『魅力的に』語る短編集である…ベルリンで活躍する刑事事件弁護士である著者が、『現実の事件に材を得て』書いた作品である」(楊逸、7月24日、朝日新聞書評欄)
この短編集のひとつに、パレスチナ難民が出てくる。「自分のために買春した恋人を謀殺したであろうパレスチナ難民キャンプ育ちの麻薬売人の青年」がそうだ。
1982年6月イスラエルのレバノン侵攻があった。ベイルートまで北上したイスラエル軍は、9月にPLOのベイルートからの退去を条件に停戦する。しかし、PLO武装勢力が海外退去した直後、ベイルートの二つのパレスチナ難民キャンプで虐殺事件を引き起こす。
イスラエル軍がキャンプを完全に包囲・封鎖するなか、同盟を組んでいるキリスト教系民兵がキャンプの中に入り、三日にわたり何百人、何千人もの高齢者・女性・子どものパレスチナ人を虐殺した。
物語の青年、アッバスは、虐殺事件の4年後、事件のあったキャンプで生まれたという設定である。両親が仲介者に大金を払い、17歳のアッバスは非合法にドイツにわたった。政府から亡命は認められず、労働許可も得られなかった。やがて、彼は犯罪に身をもち崩しながら21世紀のドイツを生きる。
「国の援助は受けられたが、すべての行動を禁じられた。映画館に入ることも、マクドナルドで食べることもできず、プレイステーションも携帯電話をもつこともできなかった。言葉は路上で覚えた。ハンサムだが、彼女はできなかった。仮に彼女がいても、食事代をだすことさえできなかった。アッバスには自分しかいなかった」(p98)
アッバスは、難民三世である。祖父はパレスチナを追われ、父はベイルートにたどりつき、孫の彼はベルリンに住むが人間的なコミュニティを失った。シーラッハの描くアッバスの未来には光が見えない。
■エチオピアの男
『犯罪』の最後の小編の主人公・ミハルカの人生は、まるでアッバスと逆行するように推移する。ミハルカはドイツ人である。
孤児として育ち、乱暴な大男になったミハルカは、学業で失敗し、兵役でもめごとを起こし、建具屋を解雇され、次第に社会の吹き溜まりで暮らすようになった。この世はゴミの山だと確信。一人で銀行強盗をして、得た金でエチオピアにわたった。どうしようもない人生を自殺で総決算しようと決心し、マラリアにおかされながら、コーヒー園をさまよい、意識がなくなり倒れたとき、死ぬはずだった。
気がついたとき、彼は小さな村で命を救われていた。病気から立ち直った彼は村のために働きたいと申し出た。そして倒れていたときに世話をしてくれた女と暮らすことにした。
彼はものづくりの才を発揮する。コーヒー園での仕事が楽になるように、収穫したコーヒーの果実を運ぶ小さなロープウェイをつくり、乾燥場を作って、豆の品質を上げる。村は豊かになり、トラックを増やし、町から教師を雇い、医者から治療の手ほどきを教わり、病人の世話をしたのだった。ミハルカには子どもも生まれ、ティルと名づけた。彼はこの村のなかで生き甲斐を見つけたのだった。6年がたっていた。
いつしか、当局がミハルカに目をつけ、銀行強盗で指名手配されていることが判明。ドイツに送還され、禁固5年の刑に服す。3年後、一時外出が許可されたが、エチオピアに帰りたい気持ちと、金もパスポートもない状況のなか、葛藤し、三日間飲まず食わず悩んだあげく、意識朦朧のなかで銀行強盗を起こし、ふたたび逮捕される。
裁判の審理は一日だけだった。とっくに希望を失ったミハルカは、ずっと放心状態だった。鑑定した精神科医は彼の経過を話し、自制能力のないなかでの犯行だったと証言した。
しかし、検察官は彼のエチオピアの話はでっちあげだと言った。彼はエチオピアの村の住所も知らず、1枚の写真もなく、彼の話を証拠立てるものがなかったのだ。
弁護士はミハルカに知らせることなく、エチオピアで知り合った医者を証人として呼んでいた。医者は「友が生きていると知ってこんなにうれしいことはない。彼に会うためならどこへでも行く」と言ってくれたのだった。ドアを開け、医者が法定に入ってきた。
「ミハルカの表情はぱっと明るくなった。法廷に入ってきた医者を見て立ち上がり、涙を流してそばに行こうとした。警官がすぐミハルカを押さえたが、裁判長は手を振って、そのままにさせた。二人は法廷の真ん中で抱き合った」。
医者がもってきたビデオテープには、ロープウェイ、トラック、笑いながらビデオカメラに手を振り、彼の名を呼ぶ子どもや大人たちが映っていた。
「ミハルカは泣いて笑って、また泣いた。すっかり興奮していた。友である医者の横にすわり、大きな両手で医者の指をつぶさんばかりに握りしめていた。裁判長と参審員のひとりが目に涙を浮かべた。裁判ではなかなか見られない光景だ」
判決は禁固2年で、半分刑期を務めたあと、仮釈放する。ミハルカはエチオピアで暮らし、ティルの下に弟と妹ができた。ミハルカは弁護士にときどき電話をしてはそのたびにいう。幸せだと。
■コミュニティを見いだす
ミハルカは、均衡強盗をはたらき、ドイツから死ぬためにエチオピアに向かったが、そこにコミュニティ(=生き甲斐)を見いだした。アッバスは、レバノンから将来を託してドイツに渡り、コミュニティを喪失し、たった一人の愛し合う人、恋人を、まちがった嫉妬で殺めてしまった。
これは物語だが、コミュニティ(=生き甲斐)を先進国で見つけるストーリーの方が、いまは現実味がない。かつては、アメリカンドリームのように、先進国で夢や生き甲斐を見つけたはずだが…。
いまも、あまたのミハルカとアッバスが、世界をかけめぐっている。あまたのミハルカとアッバスは互いに知らないうちに、鏡像のように向き合い、見えないつながりで補い合っている。それがこの「世界」である。人間と社会はかくも複雑に入り組みながら、ぼくたちに、混沌とした相貌のいったんを垣間見せる。
ぼくはパレスチナの人々に平和がおとずれてほしいとせつに願う。一方で、彼らの平和が、巨大な国々の冷徹で残酷な軍事力という嵐の中で舞う、はかない一枚の葉っぱのように思えてくる。しかし、何十年も続く嵐の中、今日も生まれ、育っていくパレスチナの赤ん坊と子どもたちがいる。だからこそ、難民という言葉のもつ重さ、深さ、リアリティを、忘れてはならないとあたらめて自分に言い聞かせたいと思う。