なんとなくサンネット日記

2011年7月28日

難民という言葉

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1980年働く女性

1980年働く女性

■地デジ難民、買い物難民

 7月24日、地上テレビ放送は「完全」デジタル化になった。民放連の広瀬道貞会長は10万世帯ほどの地デジ難民が生まれると推定している。

 地デジ難民が、デジタル化未対応の人という意味なら、我が家も地デジ難民である。何か思いがあって対応しないわけではなく、必死で対応を急がなければならないほど、見たいテレビがあるわけでもないから…という意識的消極派(?)である。

 ところで、ぼくはこの「難民」という言葉の使い方が気になる。もちろん、環境がどんどん変化するなかで、取り残される高齢者は多いし、文化的な持続力を失いつつある。電車の自動改札機、種々のカード、ケータイやパソコン、複雑なリモコン、IT…それらが一体となり、ぼくらの社会を包み込み、返す刃で「雇用難民」を生み出す。困っている人たちを「難民」と呼ぶことで、社会の奥で進行している深刻な課題を指し示しているのだろう、とは思っている。

 それでも、難民という言葉でいいのだろうかと気になるのだ。難民は、迫害を受け、切迫する危機から避難し、亡命者として祖国を離れて暮らす。過酷な政治状況下をくぐりぬける悲惨さ、徹底的な絶望、それと隣り合わせの生きようとする力…。社会や政治がもっている残酷さに、立ち向かい、逃げまどい、生き抜くギリギリの人間存在を指している言葉を、「地デジ難民」「買い物難民」などの表現で、ことの本質を薄めてしまっていいのだろうか、と。

 ■1980年ベイルート

 写真はパレスチナ難民の縫製工場。時は1980年。壁には祖国パレスチナの地図がある。祖国への帰還を願いながら、若い女性がミシンを動かしシャツを縫っている。

 1947年、イスラエルの建国、その後の何度かの中東戦争で、400万人を超えるパレスチナ人たちが祖国を追われた。この工場で働いている若い女性たちの多くは、難民化したのちに生まれた二世なのだろう。

 1980年という年は、パレスチナ人組織(PLO)にとって小春日和のような時期だった。

 1947年以降、難民化したパレスチナ人の多くはヨルダンに移る。ヨルダンでPLO活動が活発化した60年代後半、ヨルダン政府はPLOを弾圧する。1970年ヨルダンから追放されたPLOはレバノンに移るが、75年‐76年、キリスト教系民兵とイスラム教系民兵の内戦に参戦。そこに、さらにシリアも介入。

 1980年はいくつもの武装勢力がにらみ合いながら、沈静化していた時期だった。しかしそれは1982年のイスラエルによる侵攻までのつかの間の「平和」でしかなかった。

 難民はさまよえる人々である。だからこそ、家族をもち、子を育て、仲間を作り、生産する。移動し、武装し、戦う。傷つき、家族を失い、苦しみに身もだえし、そして愛する。悲しいことだが、それは、確実に人類の歴史の一部である。

 ■ベルリンのパレスチナ青年

 『犯罪』(フェルディナント・フォン・シーラッハ、2009年、邦訳2011年、酒寄進一、東京創元社)という本が出版された。

 「このストレートなタイトルからは、つい反射的に推理小説や警察小説を連想してしまう。しかし本書は、トリックを解いたり犯人捜しをしたり、あるいは警察や権力の裏に隠された闇を暴くといった内容ではなく、弁護士から見た犯罪者を、簡潔な筆致で『魅力的に』語る短編集である…ベルリンで活躍する刑事事件弁護士である著者が、『現実の事件に材を得て』書いた作品である」(楊逸、7月24日、朝日新聞書評欄)

  この短編集のひとつに、パレスチナ難民が出てくる。「自分のために買春した恋人を謀殺したであろうパレスチナ難民キャンプ育ちの麻薬売人の青年」がそうだ。

ピース

1980年のピース

 1982年6月イスラエルのレバノン侵攻があった。ベイルートまで北上したイスラエル軍は、9月にPLOのベイルートからの退去を条件に停戦する。しかし、PLO武装勢力が海外退去した直後、ベイルートの二つのパレスチナ難民キャンプで虐殺事件を引き起こす。

 イスラエル軍がキャンプを完全に包囲・封鎖するなか、同盟を組んでいるキリスト教系民兵がキャンプの中に入り、三日にわたり何百人、何千人もの高齢者・女性・子どものパレスチナ人を虐殺した。

  物語の青年、アッバスは、虐殺事件の4年後、事件のあったキャンプで生まれたという設定である。両親が仲介者に大金を払い、17歳のアッバスは非合法にドイツにわたった。政府から亡命は認められず、労働許可も得られなかった。やがて、彼は犯罪に身をもち崩しながら21世紀のドイツを生きる。

 「国の援助は受けられたが、すべての行動を禁じられた。映画館に入ることも、マクドナルドで食べることもできず、プレイステーションも携帯電話をもつこともできなかった。言葉は路上で覚えた。ハンサムだが、彼女はできなかった。仮に彼女がいても、食事代をだすことさえできなかった。アッバスには自分しかいなかった」(p98)

 アッバスは、難民三世である。祖父はパレスチナを追われ、父はベイルートにたどりつき、孫の彼はベルリンに住むが人間的なコミュニティを失った。シーラッハの描くアッバスの未来には光が見えない。

 ■エチオピアの男

 『犯罪』の最後の小編の主人公・ミハルカの人生は、まるでアッバスと逆行するように推移する。ミハルカはドイツ人である。

 孤児として育ち、乱暴な大男になったミハルカは、学業で失敗し、兵役でもめごとを起こし、建具屋を解雇され、次第に社会の吹き溜まりで暮らすようになった。この世はゴミの山だと確信。一人で銀行強盗をして、得た金でエチオピアにわたった。どうしようもない人生を自殺で総決算しようと決心し、マラリアにおかされながら、コーヒー園をさまよい、意識がなくなり倒れたとき、死ぬはずだった。

 気がついたとき、彼は小さな村で命を救われていた。病気から立ち直った彼は村のために働きたいと申し出た。そして倒れていたときに世話をしてくれた女と暮らすことにした。

 彼はものづくりの才を発揮する。コーヒー園での仕事が楽になるように、収穫したコーヒーの果実を運ぶ小さなロープウェイをつくり、乾燥場を作って、豆の品質を上げる。村は豊かになり、トラックを増やし、町から教師を雇い、医者から治療の手ほどきを教わり、病人の世話をしたのだった。ミハルカには子どもも生まれ、ティルと名づけた。彼はこの村のなかで生き甲斐を見つけたのだった。6年がたっていた。

 いつしか、当局がミハルカに目をつけ、銀行強盗で指名手配されていることが判明。ドイツに送還され、禁固5年の刑に服す。3年後、一時外出が許可されたが、エチオピアに帰りたい気持ちと、金もパスポートもない状況のなか、葛藤し、三日間飲まず食わず悩んだあげく、意識朦朧のなかで銀行強盗を起こし、ふたたび逮捕される。

 裁判の審理は一日だけだった。とっくに希望を失ったミハルカは、ずっと放心状態だった。鑑定した精神科医は彼の経過を話し、自制能力のないなかでの犯行だったと証言した。

 しかし、検察官は彼のエチオピアの話はでっちあげだと言った。彼はエチオピアの村の住所も知らず、1枚の写真もなく、彼の話を証拠立てるものがなかったのだ。

 弁護士はミハルカに知らせることなく、エチオピアで知り合った医者を証人として呼んでいた。医者は「友が生きていると知ってこんなにうれしいことはない。彼に会うためならどこへでも行く」と言ってくれたのだった。ドアを開け、医者が法定に入ってきた。

 「ミハルカの表情はぱっと明るくなった。法廷に入ってきた医者を見て立ち上がり、涙を流してそばに行こうとした。警官がすぐミハルカを押さえたが、裁判長は手を振って、そのままにさせた。二人は法廷の真ん中で抱き合った」。

 医者がもってきたビデオテープには、ロープウェイ、トラック、笑いながらビデオカメラに手を振り、彼の名を呼ぶ子どもや大人たちが映っていた。

 「ミハルカは泣いて笑って、また泣いた。すっかり興奮していた。友である医者の横にすわり、大きな両手で医者の指をつぶさんばかりに握りしめていた。裁判長と参審員のひとりが目に涙を浮かべた。裁判ではなかなか見られない光景だ」

 判決は禁固2年で、半分刑期を務めたあと、仮釈放する。ミハルカはエチオピアで暮らし、ティルの下に弟と妹ができた。ミハルカは弁護士にときどき電話をしてはそのたびにいう。幸せだと。

 ■コミュニティを見いだす

 ミハルカは、均衡強盗をはたらき、ドイツから死ぬためにエチオピアに向かったが、そこにコミュニティ(=生き甲斐)を見いだした。アッバスは、レバノンから将来を託してドイツに渡り、コミュニティを喪失し、たった一人の愛し合う人、恋人を、まちがった嫉妬で殺めてしまった。

 これは物語だが、コミュニティ(=生き甲斐)を先進国で見つけるストーリーの方が、いまは現実味がない。かつては、アメリカンドリームのように、先進国で夢や生き甲斐を見つけたはずだが…。

 いまも、あまたのミハルカとアッバスが、世界をかけめぐっている。あまたのミハルカとアッバスは互いに知らないうちに、鏡像のように向き合い、見えないつながりで補い合っている。それがこの「世界」である。人間と社会はかくも複雑に入り組みながら、ぼくたちに、混沌とした相貌のいったんを垣間見せる。

 ぼくはパレスチナの人々に平和がおとずれてほしいとせつに願う。一方で、彼らの平和が、巨大な国々の冷徹で残酷な軍事力という嵐の中で舞う、はかない一枚の葉っぱのように思えてくる。しかし、何十年も続く嵐の中、今日も生まれ、育っていくパレスチナの赤ん坊と子どもたちがいる。だからこそ、難民という言葉のもつ重さ、深さ、リアリティを、忘れてはならないとあたらめて自分に言い聞かせたいと思う。

2011年7月20日

熟議

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:56 PM
かつてさがした

かつてさがした

 16日付『時代の航海図』(東奥日報)は、「注目集める討論型世論調査――『他者の意見』発見が重要――『熟議』後、回答に変化も」という見出しだった。

 「討論型世論調査」という耳慣れない世論調査について書かれた記事だ。

 最近の世論調査はコンピュータによる電話調査。乱数番号法というそうだが、わが家にも時折かかってくる。2,3回答えた経験があるが、機械音の指示に従って、電話機のボタンを押す作業はどこかむなしい。

 個々人の「むなしい」作業の集積=電話世論調査が、気まぐれな人気投票になり、私たちの社会の基礎を液状化し始めたのはいつからだろう。小泉政権の頃には、おかしなことになったと意識していたと思う。

 世論調査方法についての新提案が、「討論型世論調査(deliberative poll: DP)」だ。

 方法は、まず、個別テーマを設定する。たとえば「年金をどうする」というテーマであれば、これは全国的テーマだから、全国の人を対象にアンケート調査を行う。ここまでは通常の新聞社などの世論調査とは変わりない。

 変わるのはこのあとで、世論調査に協力した人に「討論フォーラム」への参加希望をたずね、その希望者の中から一定の人数を選出する。参加者には一か所の会場に集まってもらい、10数人の小グループ討論と全体討論を何回か繰り返す。これが「討論型」のゆえんだが、目的は議論の結論ではなく、フォーラムで問題を整理し、個々人が熟慮することにある。

 二日間の討論の前後にアンケート調査を行い、討論によってどのように意見が変わったか、変わらなかったのかを比較する。ここが「討論型世論調査」の特徴だ。

 慶応大学の曽根泰教教授の言葉――年金や原発など、今向き合うべき問題は、電話で即答できるものではない。人々が議論し、回答した結果に重い意味がある。単なる数値ではない、質的な変化をみることができる――。

 DPの考案者であるスタンフォード大学のフィシュキン教授の言葉――DPは、無作為に選ばれた500人が競技場で議論して物事を決める古代アテネの慣習からヒントを得ている…(小グループという形式に生まれる参加意識、他者や専門家の多様な情報提供、無作為抽出という政治的平等の原則に)熟議と組み合わせることで普段より理性的な意見が出てくる。熟議の前後で大きな意見の変化が起きているのも興味深い――。

 対面する場で熟慮を重ねあう。それは「公共の場」を生み出す営みでもある。古代から続いた営みを、世論調査という形で現代的に再構成しようというのだろうか。

 匿名性を活用し、なりすましてウソをつく。悪口雑言の限りを尽くす。対面する場所を情報収集の場であると、本意は隠し、勘を頼りに、攻撃は最大の防御であるとうそぶく。いかに自己保身できるか、いかに他者にダメージを与えられるか、誰もがそう考えるのだから自分も…このような民主主義の「悪貨」に対抗するため、大きな手間をかけ、熟議という「良貨」を生み出そうとしている。

 ぼくらはここをだいじにしなければならないと思う。大切なこと、人間的なことには時間がかかるということだ。

2011年7月13日

大事に思う気持ち

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:31 PM
また夏が来る(ねぶたの家ワラッセ)

また夏が来る(ねぶたの家ワラッセ)

 小説「俺俺」(星野智幸、新潮社、2010年)を読もうと思ったのは、今月2日東奥日報に掲載された『時代の航海図―他者への想像力』での星野智幸氏のインタビュー記事にひかれたからです。

 他者と寄り添う中で自分の思いをどのように紡ぎ、社会とかかわっていくか…。天災や事故、戦争と事件の頻発する時代を生き抜くため、個々人の想像力が問われている時代であるという問題意識に立ち、想像力の対極のテーマとして『俺俺』が取りあげられていました。

――「俺俺」の登場人物は「“自分がない”から、人のことを考えられない状態」にある人間たち。「人を信頼するためのベースがないんですよ」と星野さんは言う。

 それは、秋葉原の無差別殺傷事件に象徴されるように、インターネットの存在が当たり前になり、心の深い部分にある、言葉にならない叫びをぶつける場所がネット上になっていることにもつながる。「生身の人間を相手に言葉で訴え、受けとめ合えれば、それが歯止めになると思うんです」――(東奥日報、7月2日)
 

 小説「俺俺」にはこんなシーンがありました。

 俺“大樹”はカメラの量販店で働いている。学生の“ナオ”も実は俺。さいたま市役所の“均”も俺…。三人は出会い、一体感を喜び、複数の俺は集合名詞のになった。

 しかし、はさらに次々と増殖し続ける。“ナオ”の知り合いの“溝ノ口”もだが、“溝ノ口”が三人の輪に入ろうとしたとき、“均”は「これ以上他の何か見たくも知りたくないんだよ。もううんざりなんだよ」と反発。“均”の言葉に“ナオ”が言い返す。これが、俺と俺が反発しあい、一体感が崩壊する始まりだった。

 「俺はほんの少しでも自分を認めさせてやりたかったから、であるこいつ(均)も溝ノ口も大事にした。こいつや溝ノ口や大樹さんを信用できるってことは、俺が俺自身を信用しているってことだと思っていた。事実俺は人生で初めて自信ってものをもったよ。それはここにいる俺らを大事に思う気持ちとセットだったよ。でもこいつはそうじゃなかった。俺にも溝ノ口にも冷たくできるのは、こいつが自分自身を信用していないからだ。自分を大事にできないからだ」(P157)

 自分を大事にするためには、自分を忘れていないことが前提条件です。遠い昔の記憶を捨て去り、言葉の奥のかすかな言葉を見失った時、が忍び寄るのかもしれません。

2011年7月9日

間借り

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:07 PM
三家族が住む

三家族が住む

 青森にも暑い日がおとずれるようになりました。店には夏野菜が出回り、子どもたちは夏休みを心待ちにし、田んぼの稲もずいぶん伸びました。

 写真は、たぶん昭和34年(1959年)の夏。私が小学校2年生。うしろに立っているのは下の姉。私たちの家族は、前の年に、岩手県摺沢村から静岡県清水市(現在は静岡市清水区)に引っ越しました。村では仕事がなく、暮らしていけなかったのです。

 清水での新しい生活の最初、2年間は間借り生活でした。閑静な住宅地、写真の家の玄関に近い一部屋で暮らしました。

 私たちの少しあとから、確か三浦さんという家族が奥の部屋を間借りするようになりました。大家さんの名前は忘れましたが、お母さんと10歳くらいの女の子の二人暮らしでした。いまから考えると、大家さんも、三浦さんも、私たち家族もみな貧しく、からだを寄せ合うように生きていたのでしょう。

 家の正面はやや洋風で、脇にシュロの木が見えます。私にはシュロがとても南国的に感じました。家の表を右側に回りこむと、庭があって、大きな木が1本立っていました。

 その木陰で、私と三浦さんの子と大家さんの娘さんで、色紙をバケツでもんで、色のついた水を作って遊びました。三浦さんの部屋の近くの廊下で、みんなでふかしたジャガイモを食べたのはこの秋かな。たわいもないことで喜べた時代です。

 映画館で月光仮面を見て、フランク永井の♪夜霧に消えたチャコが休憩時間に流れると、「チャコ」が犬だと思いこんでいました。「酒場に咲いた 花だけど」という歌詞があるのですが…。

 家にはまだテレビはありません。ゼンマイ式のロボット(おもちゃ)を暗くなった玄関で歩かせて、ロボットのどこかが光るのをじっと見るのが好きでした。すると、私の頭の中ではたちまち映画『宇宙大戦争』の世界になったのです。

 

 さて、52年後のこの夏、星野智幸の小説『俺俺』(新潮社、2010年)を読んでいます。以下は「BOOK」データベース。

 マクドナルで隣り合わせた男の携帯電話を手に入れてしまった俺は、なりゆきでオレオレ詐欺をしてしまった。そして俺は、気付いたら別の俺になっていた。上司も俺だし母親も俺、俺でない俺、俺ではない俺、俺たち俺俺。俺でありすぎてもう何が何だかわからない。電源オフだ、オフ。壊ちまうす。増殖していく俺に耐えきれず右往左往する俺同士はやがて―。孤独と絶望に満ちたこの時代に、人間が信頼し合うとはどういうことか、読む者に問いかける問題作、…なんだそうです。

 私にはなかなかしっくりこない世界。この半世紀で、私はずいぶん遠くまで来たものだと思うのです。ヤレヤレ…。

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