なんとなくサンネット日記

2011年5月31日

親切を好む

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:13 PM
みんな違っていい

みんな違っていい

 赤ちゃんについての実験だそうです。

 6カ月児に二つのできごとを見せます。できごとを演じるのは積み木です。三角形、四角形、丸の三つの積み木に、それぞれ「目」がついています。目は、積み木から人間を連想するように描かれたものです。

 三つの積み木は、それぞれの役割があります。「坂を登るやつ」「親切なやつ」「意地悪なやつ」。

 そして、たとえばこうなるのです。円い積み木が坂を登ろうとしています。円い積み木が「坂を登るやつ」です。しかし、なかなか登れません。すると三角の「親切なやつ」が現れ、円い積み木を後ろから押し上げてくれました。そして、円い積み木は無事坂道を登り切りました。

 二つ目のできごとには、四角形の積み木の「意地悪なやつ」が登場します。円い積み木は同じように坂を登ろうとするのですが、四角形の「意地悪なやつ」が前から邪魔をして、円い積み木を下に落ちしてしまうのです。

 この二つのできごとを交互に飽きるまで見せて、赤ちゃんの前に「親切なやつ」と「意地悪なやつ」を置いたら、どちらに手を伸ばすかというのが実験です。

 すると、6カ月児も「親切なやつ」に手を伸ばすことが有意に多かったのだそうです。わずか6カ月児が利他的行動をとる「親切なやつ」を好んだということは、しつけや教育という社会的な働きかけ以前に、自動的で潜在的な「知識」が存在しているということです。(『赤ちゃんの不思議』、関一夫、岩波新書、2011年、p35-39)

 利他的か利己的か。たぶんこういった個人的な性向の根っこには、深いところに埋め込まれた「好み」があるのでしょう。「好み」はほとんど生理的、肉体的なもの、そういったこと示唆している実験です。利他的な人は6カ月児の時からすでに利他的なら、利己的な人はもっと幼い時から利己的なはず。つまり、利他人間と利己的人間は、「生理的」にかなり違うタイプなのかもしれません。

 利他・利己で対立する人々ですが、社会のなかでは異なるタイプが同居し、一つの社会を紡ぎだしています。すると、人間の社会とはまか不思議な存在だと、あらためて気づかされます。

 たぶん、「親切なやつ」と「意地悪なやつ」を「統合する知識」、それが、社会の奥に静かに埋め込まれているはず。どのような知識かわかりませんが、そうでなければ社会として成り立たないほど分裂してしまっているからです。人間社会の奥深くにある知恵に接近する営み、「知識」を指し示す行為、それがしつけや教育なのかもしれません。

 そのような営みがしっかり働くことで、社会的システムと生理的な判断のバランスがとれる、もしかしたら、そんな仕組みがこの世に隠れているのかもしれませんね。

 なので、君が代斉唱で起立を強制することが教育だとはとうてい思えません…おっと、これは蛇足でした…。

2011年5月17日

曲がり角

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:57 PM
川は流れます

川は流れます

 責任回避のための「とか」の濫発、という文章に出会いました。

 そういえば、テレビなどで、若い女性が「昨日の私とかぁ~」という場面に出会うと、言葉が頭にスッとは入ってきません。やや考えて、“昨日、私は、何々をしたのだけど…”と話しているのだろうと、なんとか理解します。

 サンネットの何人かに聞いてみたのですが、「とか」の多用がピンとこないようです。しかし、それは、極端な場合でなければ、すでに私たちの日常に入り込んでいるということのようです。

 こんな例文が載っていました。

 

 是非にと望まれて、何か、下谷あたりの金持ちの質屋とかへ嫁に行ったといふ。(久保田万太郎『樹蔭』)

  『樹蔭』は昭和26年の作品だそうです。久保田万太郎は明治22年生まれの小説家、俳人ですから、明治言葉を色濃く残しているのだと思います。いい意味で時代を感じる文章です。

 「質屋とか」の「とか」は、主人公が誰か、人づてに聞いたということです。「自分で確認したことではないから、あいまいだけど」ということで、“何か”という言葉で始まります。それを“とか”で受け、“いふ(誰かが言った)”で結ばれます。

 もともと、「とか」の「と」は、引用の「と」です。自分がじかに体験したわけではないから、質屋かどうかわからない。そこに疑問の「か」がついた、そうです。

 伝聞だからあいまい、という使い方がもともとでした。その次に、「伝聞」という文脈は失われ、「あいまいさ」が強調される段階になります。

  あの時はたまたま高校総体とかがあって(山崎光夫「いびき教授」『オール読物』1986年4月号)

 

 このケースは、自分の記憶がはっきりしないという意味で「とか」を使っています。その段階から、さらに、すすんだのが現代です。いまは、積極的にあいまいにするために「とか」を使います。 

 おばさんも、早く帰った方がいいよ。ダンナとか、いるんでしょ?(乃南アサ「野良猫」『オール読物』1997年3月号)

 「ダンナがいるんでしょ」と言ったら、旦那がいる可能性が高い「おばさん」でも、「いようがいまいがあんたと関係がないでしょ」と反撃するかもしれない。だから、「とか」を入れて逃げを打った、というのです。乃南アサは1960年生まれの作家です。

 何かの理由があってあいまいになったことがらを指す言葉は、「理由」という背景、文脈が失われます。理由が問題ではなく、あいまいにすることを目的に使われる言葉に、その限界は大きく踏み越えられたのです。

 ――自分の責任を取らないための言い方、つまり責任を回避するための言い方なんです…(同様に)現在のいわゆる敬語がおかしいのは、すべて責任回避から発しているということです。敬意からは発しておりません。…自分に対して損が及ばないように、自分が責任を問われることがないようにという一点張りで来ているわけです――(水谷静夫『曲がり角の日本語』、岩波新書、2011年、P84) 

 なるほど、ここまで来ると合点します。

 生身で世界と直に体験する人間は少なくなり、体験というものの、そのほとんどは伝聞、他人の情報で占められるようになったのが現代です。何百、何千という情報を閲覧し、ピックアップすることが日常化した人間にとって、落ち着きのなさが性格の一つになりました。

 秒単位で利益が損失に変化してしまう社会では、「生き馬の目」は抜かれてばかり。時代は、攻撃的な性格を帯びています。

 このような社会と時代だから、その一方で、責任を回避する言い方が蔓延するのでしょう。

 逆に考えるなら、責任を回避しない、攻撃的な力にきちんと向き合う、自分の生身の体験を大切にする…これらが自分の言葉を大切に扱うことにつながるのでしょうね。

2011年5月6日

責任の相互性

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:39 PM
今年も咲きました

今年も咲きました

風子:治療とは、患者が自分の病気に関する物語を書き換える のを手助けすること…この言葉、どこかで聞いたことがあると思っていたの。

陽平:そう!…友だちのメールも、その部分はカッコになっていたので、誰かの引用かなと思っていたんだ。

風子:彼のメールの元は何か分からないけど、この間から読んでいる本に似た個所を見つけたわ。アーサー・W・フランクの『傷ついた物語の語り手』という本なの。ちょっと読んでみていいかしら。

陽平:聞きたいな。

――(前立腺癌で亡くなった評論家・編集者)アナトール・ブロイヤードは、自分自身が医者に対して「よい物語」でありたいと述べていた。ブロイヤードは、医師たちにむけたスピーチでこれを語ったのであった。その文脈の中で彼は、病いを経験する者にとってもまた医師たちにとっても耳慣れない、責任の相互性という考え方を提起している。

――彼のいう責任とは、医者の指示にしたがうことによって快方を目指すという責任とは異なるものである…ブロイヤードは、自らの病いをよい物語へと仕立て、その中に物語的真実を見いだし、その真実を語る責任を求めるのである。彼は自らその病いについての証人として宣言する。そして彼は、その聴き手――医療専門職のメンバーたち――に、彼の証言についての証人となるよう呼びかける。

――(彼は、患者がつくる)物語が聴き手を必要とすること、したがって物語は語られねばならないということを心得ていた…よい物語であることへの責任を引き受けると同時に、その物語を受け取るという相補的な責任を担うよう医師たちに呼びかけたのである――。

陽平:命令されたことにしたがう責任ではなく、応答する責任と考えた方がいいんだね。見えている現実を越えて、もっと深い何かと応答する…。それを医師と協働していく。すごく深い、大きな話だと思う。

風子:物語というと作り話、意味のない、いい加減なものと思われるけど、ここでいう物語はそんなことではないのよね。病気の人がそれにしたがって生きられる何か、…世界のようなものよね。たとえ病いでこの世の生が断たされるかもしれないけど、死に侵されることのない世界…というのかしら。

陽平:物語的真実という言葉がいいね。

風子:そうね。医療データという真実でもないし、裁判所が事件などで認定する事実でもない。権威や機器で判定されることはない、人が生きていくために真に必要な「真実」なのよね。

陽平:他人に対する道徳ではない自分に対する道徳、高い道徳が求められていると思うな。

風子:この文章に続いてこんなことを述べているのよ。ほんとうにすごいと思うわ。怖いような気がすれけど、心が洗われるような思いもするの…。

 

――病いの物語をよい物語とするのは、証人の行為である。証人は、暗黙のうちにであれ明示的にであれ、次のように語る。

――「私は、あなたがそれを聞きたいとは願わないとしても、私がそれを生きてしまったがゆえにそれが真実であると知っていることをあなたに告げる。その真実は、あなたを混乱させるかもしれない。しかし、結局のところあなたは、真実を聴かずに放免されることはない。

――なぜならあなたはすでにそれを知っているからだ。あなたの身体がそれをすでに知っているのだ」。こうした物語を真実のものとして語ることによって、病む人は、その状況を受けとめ応えるのである――

(『傷ついた物語の語り手』、アーサー・W・フランク、1995年、鈴木智之訳2002年、ゆるみ出版、p95-97)

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