6カ月児に二つのできごとを見せます。できごとを演じるのは積み木です。三角形、四角形、丸の三つの積み木に、それぞれ「目」がついています。目は、積み木から人間を連想するように描かれたものです。
三つの積み木は、それぞれの役割があります。「坂を登るやつ」「親切なやつ」「意地悪なやつ」。
そして、たとえばこうなるのです。円い積み木が坂を登ろうとしています。円い積み木が「坂を登るやつ」です。しかし、なかなか登れません。すると三角の「親切なやつ」が現れ、円い積み木を後ろから押し上げてくれました。そして、円い積み木は無事坂道を登り切りました。
二つ目のできごとには、四角形の積み木の「意地悪なやつ」が登場します。円い積み木は同じように坂を登ろうとするのですが、四角形の「意地悪なやつ」が前から邪魔をして、円い積み木を下に落ちしてしまうのです。
この二つのできごとを交互に飽きるまで見せて、赤ちゃんの前に「親切なやつ」と「意地悪なやつ」を置いたら、どちらに手を伸ばすかというのが実験です。
すると、6カ月児も「親切なやつ」に手を伸ばすことが有意に多かったのだそうです。わずか6カ月児が利他的行動をとる「親切なやつ」を好んだということは、しつけや教育という社会的な働きかけ以前に、自動的で潜在的な「知識」が存在しているということです。(『赤ちゃんの不思議』、関一夫、岩波新書、2011年、p35-39)
利他的か利己的か。たぶんこういった個人的な性向の根っこには、深いところに埋め込まれた「好み」があるのでしょう。「好み」はほとんど生理的、肉体的なもの、そういったこと示唆している実験です。利他的な人は6カ月児の時からすでに利他的なら、利己的な人はもっと幼い時から利己的なはず。つまり、利他人間と利己的人間は、「生理的」にかなり違うタイプなのかもしれません。
利他・利己で対立する人々ですが、社会のなかでは異なるタイプが同居し、一つの社会を紡ぎだしています。すると、人間の社会とはまか不思議な存在だと、あらためて気づかされます。
たぶん、「親切なやつ」と「意地悪なやつ」を「統合する知識」、それが、社会の奥に静かに埋め込まれているはず。どのような知識かわかりませんが、そうでなければ社会として成り立たないほど分裂してしまっているからです。人間社会の奥深くにある知恵に接近する営み、「知識」を指し示す行為、それがしつけや教育なのかもしれません。
そのような営みがしっかり働くことで、社会的システムと生理的な判断のバランスがとれる、もしかしたら、そんな仕組みがこの世に隠れているのかもしれませんね。
なので、君が代斉唱で起立を強制することが教育だとはとうてい思えません…おっと、これは蛇足でした…。