なんとなくサンネット日記

2011年2月28日

スポット型意識

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:37 PM
アスパム通りの一念寺

アスパム通りの一念寺

特定の対象にスポットライトで照らすように注意をむける「スポットライト型意識」。

外部に目新しいものが現れたり、新しい状況が生まれれば、そこに注意をむける。この場合、「外因性注意」といいます。自分から自発的に注意をむけ、集中させる場合は、「内因性注意」です。

この、外因と内因のそれぞれがせめぎ合う状況で、注意とスポットライト型意識がどのように働くのか、調べた実験があります。

何人かがボールをパスし合っているビデオを、実験参加者に見せます。ボールが人から人に何回移動するかを数えるように指示します。ビデオのプレーヤーは素早く動くので、ボールがどこにあるかを目で追うのは簡単ではありません。

そうして、ビデオが終わった時に「何かおかしなことに気づきませんでした?」と聞くのですが、参加者は「いえ何も」と答えるのです。

そこで実験者はもう一度同じビデオをかけ、今度はボールを目で追わないように指示します。すると、ゴリラの着ぐるみをまとった人物が画面の真ん中をゆっくり歩いていくのに気がつきます。最初に見た時も、ゴリラは視界に入っていたはずなのに、まったく見えなかったのはボールに極度に意識を集中させていためです。(『哲学する赤ちゃん』.アリソン・ゴブニック.2009.青木玲訳.2010.亜紀書房.p160-161)

ゴリラの出現という新しい状況が起きたにもかかわらず、スポットライト型意識は、それを脳のなかの「盲点」に納めていました。こういったことは、日常的に良くあることです。

考えごとをしていて、階段があることに気づかなかった。眼鏡をかけながら眼鏡を探していた。駅で大事な用件で待ち人をしていたら、同僚に声をかけられても聞こえなかった…この程度ならほほえましいもの。

そこから、さらに、「ゴリラに気づかない」日々を過ごしていれば、私たちは、人間性を失いそうになることを知っています。深夜までの残業、ノルマ、過労死…日本社会で長年問題視されてきた課題と、スポットライト型意識のことがつながります。

やはり、スポットライト型意識の性質に、思いやりや道徳を度外視してしまうものがあると思えます。

危害を加えることとルール

ジュディス・スメタナは2歳半の子どもに、2種類の日常的な逸脱行動の場面を示しました。種類1は、ルールに関することです。幼稚園で決められたルール、上着を決められた場所におかない、お昼寝の時間におしゃべりしているといった場面です。

種類2は他の子どもを、ぶつ、からかう、おやつを盗むなど、身体的・心理的危害を加えるという場面です。

二つの場面を見せ、そしてそれぞれ二種類の質問をします。質問1は、場面についての考えをたずねます。ルールを破るのはどうして悪いのか、ルール違反をした子どもに罰は必要か…などです。

もうひとつの質問2は、もしこのようなルールがなかったら同じことをしてもいいだろうか、と仮定の場面を想像してもらいます。

するといちばん幼い子まで含めて、子どもたちはみな、ルール違反も他の子どもに危害を加えることも悪いが、危害を加えことのほうがもっと悪いと思っていることがわかった、というそうです。(同p300-301)

1歳半になると、他人の痛みを自分の痛みのように感じるのですから(12月27日「苦楽を共にする」)、この逆に、誰かを傷つける行為はどんな場合でもいけないことであることに2歳半ですでに気づくのでしょう。

なのに、他者を傷つけることに躊躇しない大人はたくさんいます。他者を傷つけて平気、そういう社会的雰囲気も強まっています。危害を加えることとルールを守ることの区別をつけない人も増えています。スポット型意識が社会・文化システムに組み入れられ、偏重されすぎているからでしょうか?

私たちは2歳半の子どもたちに負けないよう、道徳的に向上しなければいけません。それにしてもマーク・ローランズのいう「サルの魂」と、ゴブニックの「スポットライト型意識」とが似ているのは不思議な一致だと思います。

私たちは何か大きな問題の周辺を、それぞれのペースで歩きながら、だんだん互いに近づき、問題を絞り上げているのかもしれません。

(実は、問題は、スポットライト型意識ではなくて、「超スポットライト型意識」の存在ではないかと思います〈…これは私の造語です〉。先ほどのボールのパスとゴリラのビデオの例でいえば、ボールとゴリラのどちらにも注意が向き、軽々とゴリラ・ウォークに気づく意識です。複数のスポットライト状の意識を操るこのような人々にとって、「思いやり」や「ルール」はどのように映るのでしょう?ローランズなら「超サルの魂」というかもしれませんが…彼らが、非人間的な情報化社会であっても、おそらく「水を得た魚のように」難なく泳いでいくことはまちがいありません。)

2011年2月24日

ランタン型意識

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:20 PM
蓬田村の漁港

あらよっと

――この30年の間に、赤ちゃんと幼児の科学的理解には革命が起きています。かつては、赤ちゃんや幼児は非合理的、自己中心的で、道徳など無縁な存在だと思われてきました。その思考や体験は具体的、直接的、偏狭であると。

ところが、心理学者や神経科学者は最近になって、赤ちゃんにはめざましい学習能力だけでなく、私たちの予想していた以上の想像力があって、人を愛することも知っているし、豊かな世界を体験していることを発見しました。幼児はある意味、大人以上に賢く、想像力に富んでいて、思いやりがあって、意識も鮮明だったのです。――(『哲学する赤ちゃん』.アリソン・ゴブニック.2009.青木玲訳.2010.亜紀書房.p12-13)

赤ちゃんと幼児の意識は、空をひらひら舞うチョウのようであり、それが大人になるとノロノロ這い続けるイモムシのような意識になる、と表現しています。ふつうはイモムシからチョウに成長するのですが、それとは逆ですね。

――どうやら、赤ちゃんは、私たち大人よりずっと明るい意識をもつようです。大人の意識がスポットライトなら、赤ちゃんの注意はランタンのように周囲をまんべんなく照らすものかもしれません。(p177)

アリソン・ゴプニックは、チョウのように舞うランタン型意識に大きな可能性を感じているようです。大人が「ランタン型意識」に似た体験をするとしたら、目的をもたないぶらり旅のようなものだというのです。「異文化の手触りをまるごと楽し(み)…偶然見つけた品や想定外の出来事」を楽しむような、旅なれた意識だそうです。

さらに座禅のような「オープン・アウェアネス」瞑想の体験に似ているといい、そして、芸術で表現された意識現象とも結びつけられるといいます。

――ランタン型意識がもたらす幸福感は、むしろ忘我の境地というのに近いでしょうか。私たちがこのような幸福感を得るのは、世界に同化できたときです。こうした意識を呼び覚ます芸術家に、作家のバージニア・ウルフ、詩人のエミリー・ディキンソン、写真家のアンリ・カルティ=ブレッソンがいます。一粒の砂に世界を見るウィリアム・ブレイクの詩や、ウィリアム・ワーズワースの詩の一節にある「草原の輝き」もこれにあたるでしょう――(p184)

哲学者で心理学者であるゴプニックは、着眼点をそれ以上無理に展開することを避け、「科学的」な範囲に抑えています。ただ私には、身近な人の笑いに共感し、苦しんでいる人と共に苦しみ、他者を傷つけてはいけないという基本的な道徳など、人間的な感覚の根っこは、このランタン型意識のなかにある、といっているように思えます。

人が、成長にともない獲得していくスポットライト型意識(焦点化する意識)は、注意を集中させ、自己を統制し、大量の情報を処理し、論理立てていくのですが、それは世俗的で機械的な能力でしかないのかもしれません。現代はそれに重きを置きすぎているのでしょう。思いやりや人間的な道徳を欠かせたまま、自己の筋道や企てをひたすら貫徹しようとする…そのような人々のなんと多いことか。

ところで、いま流れているラジオ深夜便の歌は、沖縄・石垣出身の夏川りみが歌う「愛しい子(かなしいぐわ)」。素敵な歌ですよ。

♪ 泣いてたくさん 愛しい子
笑ったお顏も 愛しい子
モグモグお口は 何しゃべる
神樣言葉を しゃべってる

神様語は、ランタン型意識がつくる、もっとも深く、もっとも古い言葉かもしれませんが、私たちはそこに耳をすまさなければならない、とゴプニックは言っているような気がします。

2011年2月14日

沖縄のことば

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:55 PM
バレンタインデーの灯台

冬の中に春が

――沖縄には「ファーカンダ」という言葉があることを知った。

親しい人間関係を表す言葉に、「親子」「兄弟(姉妹)」という言葉がある。

親子も兄弟姉妹も、切っても切れない深いつながりがあるということで、親と子がセットになっている。

この中に、沖縄では「ファーカンダ」があるというのである。

ファーカンダとは「祖父母と孫」の意味である。つまり、オジイ、オバアとマゴがセットになって使われていたというのだ。

こうした老人と子ども(祖父母と孫)をセットにして呼んでいる言葉をもっているのは沖縄しかなく、とても新鮮な驚きであったと…言う――。(『沖縄・戦後子ども生活史』、野本三吉、現代書館、2010年、p278-279)

ファーカンダの「ファー」は葉っぱの意味で、「カンダ」は蔦の意味だそうです。やはり、切っても切れない関係を表しているのです。一体となった関係の片側に自分がいて、自分は全体の一部。私が一部ならば、それは全体でもあるはずです。

全体に包まれた感覚が存在すると、自分が全体にかかわり、それを維持しようとする認識方法が生まれます。共感し、信頼し、公平でありたいと願う指向が派生してくるのです。

反対に暴力や災いが押し寄せると、「全体」に包まれた感覚はなくなります。何かが失われ、奪われる。生命に危険が迫っている。そんな状況では誰が味方かわかりません。当然、そこにいる人間は「全体につながる」という感覚を遮断します。

沖縄が日本に復帰する1972年の直前、ベトナム戦争はまっただ中でした。当時中学教師をしていた幸地努氏は、復帰前の沖縄の青少年非行は、高い発生率を示していたと指摘しました。

――復帰前の沖縄の青少年は、戦場意識むき出しの米兵が駐留するようになって、日常的に米兵による窃盗、強盗、婦女暴行事件、轢殺事件、殺人事件などを見聞きし、また頻繁な発生のなかで、風紀は乱れ、殺伐とした社会に変わってしまったと幸地氏は書いている。

「そのため、青少年はいつのまにか米軍人、軍属を模倣し、諸々の事件をひき起こす風潮が沖縄社会を包みこむようになった

即ち、米軍人、軍属の犯罪は、復帰前後を通じて凶悪犯や粗暴犯の占める比重が大きくて、沖縄の青少年に与える悪循環ははかりしれないものがあった」――(P229-230)

沖縄からベトナムまで2500㎞あるのですが、それだけ離れたかなたで行われていた戦争、極悪の暴力はキチンと沖縄まで運ばれたのです。暴力は簡単に伝染します。遠くまで運ばれます。その手は長く、離れても、離れてもなかなか弱くなりません。

共感の不在は、暴力のもうひとつの形なのかもしれません。しかし、こんなに強い暴力を、水で洗い流すように流すのは、やはり共感や信頼でしょう。

ベトナム戦争の20年余前は、沖縄戦で20数万の人の命が奪われました…。沖縄はなんと幾多の暴力にさらされきたのでしょうか。

そして、“ということは、それに耐えてきた共感もある”ということですね…。

月(ついち)ん照り美(ちゅ)らさ 糸かめり童(わらび)

露(ついゆ)玉ひるて 貫(ぬ)ちゃい遊(あし)ば

(月が美しく照る夜は、糸を探しておいでよ子ども達よ、星空の露の玉をひろい集めて、糸を通して遊ぼうよ  民謡「ケーヒットゥリ節」)

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