特定の対象にスポットライトで照らすように注意をむける「スポットライト型意識」。
外部に目新しいものが現れたり、新しい状況が生まれれば、そこに注意をむける。この場合、「外因性注意」といいます。自分から自発的に注意をむけ、集中させる場合は、「内因性注意」です。
この、外因と内因のそれぞれがせめぎ合う状況で、注意とスポットライト型意識がどのように働くのか、調べた実験があります。
何人かがボールをパスし合っているビデオを、実験参加者に見せます。ボールが人から人に何回移動するかを数えるように指示します。ビデオのプレーヤーは素早く動くので、ボールがどこにあるかを目で追うのは簡単ではありません。
そうして、ビデオが終わった時に「何かおかしなことに気づきませんでした?」と聞くのですが、参加者は「いえ何も」と答えるのです。
そこで実験者はもう一度同じビデオをかけ、今度はボールを目で追わないように指示します。すると、ゴリラの着ぐるみをまとった人物が画面の真ん中をゆっくり歩いていくのに気がつきます。最初に見た時も、ゴリラは視界に入っていたはずなのに、まったく見えなかったのはボールに極度に意識を集中させていためです。(『哲学する赤ちゃん』.アリソン・ゴブニック.2009.青木玲訳.2010.亜紀書房.p160-161)
ゴリラの出現という新しい状況が起きたにもかかわらず、スポットライト型意識は、それを脳のなかの「盲点」に納めていました。こういったことは、日常的に良くあることです。
考えごとをしていて、階段があることに気づかなかった。眼鏡をかけながら眼鏡を探していた。駅で大事な用件で待ち人をしていたら、同僚に声をかけられても聞こえなかった…この程度ならほほえましいもの。
そこから、さらに、「ゴリラに気づかない」日々を過ごしていれば、私たちは、人間性を失いそうになることを知っています。深夜までの残業、ノルマ、過労死…日本社会で長年問題視されてきた課題と、スポットライト型意識のことがつながります。
やはり、スポットライト型意識の性質に、思いやりや道徳を度外視してしまうものがあると思えます。
危害を加えることとルール
ジュディス・スメタナは2歳半の子どもに、2種類の日常的な逸脱行動の場面を示しました。種類1は、ルールに関することです。幼稚園で決められたルール、上着を決められた場所におかない、お昼寝の時間におしゃべりしているといった場面です。
種類2は他の子どもを、ぶつ、からかう、おやつを盗むなど、身体的・心理的危害を加えるという場面です。
二つの場面を見せ、そしてそれぞれ二種類の質問をします。質問1は、場面についての考えをたずねます。ルールを破るのはどうして悪いのか、ルール違反をした子どもに罰は必要か…などです。
もうひとつの質問2は、もしこのようなルールがなかったら同じことをしてもいいだろうか、と仮定の場面を想像してもらいます。
するといちばん幼い子まで含めて、子どもたちはみな、ルール違反も他の子どもに危害を加えることも悪いが、危害を加えことのほうがもっと悪いと思っていることがわかった、というそうです。(同p300-301)
1歳半になると、他人の痛みを自分の痛みのように感じるのですから(12月27日「苦楽を共にする」)、この逆に、誰かを傷つける行為はどんな場合でもいけないことであることに2歳半ですでに気づくのでしょう。
なのに、他者を傷つけることに躊躇しない大人はたくさんいます。他者を傷つけて平気、そういう社会的雰囲気も強まっています。危害を加えることとルールを守ることの区別をつけない人も増えています。スポット型意識が社会・文化システムに組み入れられ、偏重されすぎているからでしょうか?
私たちは2歳半の子どもたちに負けないよう、道徳的に向上しなければいけません。それにしてもマーク・ローランズのいう「サルの魂」と、ゴブニックの「スポットライト型意識」とが似ているのは不思議な一致だと思います。
私たちは何か大きな問題の周辺を、それぞれのペースで歩きながら、だんだん互いに近づき、問題を絞り上げているのかもしれません。
(実は、問題は、スポットライト型意識ではなくて、「超スポットライト型意識」の存在ではないかと思います〈…これは私の造語です〉。先ほどのボールのパスとゴリラのビデオの例でいえば、ボールとゴリラのどちらにも注意が向き、軽々とゴリラ・ウォークに気づく意識です。複数のスポットライト状の意識を操るこのような人々にとって、「思いやり」や「ルール」はどのように映るのでしょう?ローランズなら「超サルの魂」というかもしれませんが…彼らが、非人間的な情報化社会であっても、おそらく「水を得た魚のように」難なく泳いでいくことはまちがいありません。)