なんとなくサンネット日記

2011年1月29日

契約と詐欺師

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:23 PM
晴れ間

蓬田村で見た太陽

マーク・ローランズは契約についてこう述べている。

人々が契約の定めに従って生きる道を選んだと想像することによって、わたしたちは公平な社会、公正な文明がどのようなものであるかも見つけ出すことができる、というのだ。そして、こうした定めがどのようなものであるかも見つけ出せるという。

わたしもかつてはこう考えていたが、今はそうではない。契約の意義は、それが人間についての何を露呈するのかという点にあると、今では思っている。しかも、契約が露呈するのは、またしても人間性のもつ決して喜ばしくはない側面なのである。(「哲学者とオオカミ」マーク・ローランズ著.2008.今泉みね子訳.白水社.2010年.P138-139)

契約は公明正大なもの、好ましいもの、吹き抜けのよいものと、わたしも信じていたが、最近はどうもあやしい場合があると思うようになった。だから、ローランズの話は刺激的だ。彼は、契約というものの本質に人間性の負の部分が反映しているという。

彼のいう人間性とは、彼が「サル」と呼ぶところの、功利的で、計算高く、相手を騙すことに躊躇ない性癖のことである。

(社会契約論を)掘り下げていくと…隠された仮定に突き当たる。契約は、予想される利益を見込んだ上での犠牲にもとづいている…契約によって保護を受け、他者にあなたの利益を守らせるようにするためには、あなたも他者の利益を守る意志がなければならない。

これは高くつくことがある…だがここに重要な抜け道がある。あなたは実際には自由を売らなくてもよい…重要なのは、犠牲を払うことではなくて、他の人々があなたが犠牲を払っていると信じることなのだ…契約では、イメージ、見た目がすべてである…契約はその本質からして、詐欺的な行為に報いる。

これは契約の奥にある構造的な特徴だ。あなたが人を騙せるなら、なんらコストをかけることなく、契約による利益を得ることができるのだ。(p140-141)

確かに、契約を結ぼうとする者は、互いに利益と不利益を相互に確認し、守りあいましょうと約束する。そして、金銭、時間、エネルギーを交換する。しかし、約束を守っているように見せかければ、これは、労なくして利益が得られる。契約を、公正さとは何の関係もない利益を生み出す材料として、可能性が計算できる素材として、うまく活用する。そういった事件やできごとは、この世に掃いて捨てるほどあふれている。

公明正大であるかの契約の奥深くに、なぜ、詐欺師が存在するのだろう。人は騙し、欺く動物であることを前提に、契約は成立し、発展してきたのだ。だからこそ、契約のなかに巧妙に詐欺師が入り込めば、大きな利益を生み出す。ハイリスク・ハイリターン、競馬の三連単。

社会は詐欺師を見つけ出すための技術を開発するが、詐欺師はさらに出し抜こうとする。詐欺師をめぐっての軍拡競争が現代社会にあるという。

契約は、わたしたちの奥深くにある何かを成文化したもの、つまり、はっきり表現したものにほかならない。計算は契約の核をなし、人間の内にあるサルの心臓部となる。契約はサルのための発明物であって、サルとオオカミの関係については、まったく語ることができない。

なぜ、わたしたちは…イヌが好きなのだろうか。なぜわたしは(オオカミの)ブレニンを愛したのだろうか…イヌは、わたしたちの魂の、久しく忘れられていた奥底にある何かに語りかけるのだ、と思いたい。

そこには、より古いわたしたちが住みついている…これはわたしたちがオオカミだった頃の魂だ。このオオカミの魂は、幸せが計算の中には見出せないことを知っている。

本当に意味ある関係は、契約によってはつくれないことを知っている。そこでは、忠誠心が最初にある。このことは、たとえ天空が落ちても、尊重しなければならない。計算や契約は常のその後に来るのだ。(p152-153)

忠誠心が存在しない契約は、ただのゲーム。愛と無関係の契約は、詐欺師にとってはゆりかご。騙し、欺くことに想像力が働かないお人よしたちは、不思議の国のアリスになった気になっているうちに、泣きをみる。

いま私たちが切実に求めているのは、計算と契約を越える関係である。契約では愛を形作れないし、幸せの前提にもなれない。真摯に愛を求め、誠実であろうとする者どうしのなかで、契約は、サルの策略から人類への素敵な贈り物に変容する。

森の奥にある小さな花が、そのとき同時に開花する、かすかなその音を耳の奥で私は聞くことができるかもしれない。何かの予兆として…

2011年1月18日

オオカミとサルの道徳

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:01 PM
大寒近し善知鳥神社

積雪77センチメートル

哲学者のマーク・ローランズは、ときには近所の人にマラミュート(大型犬)と紹介したブレニンといっしょにジョギングをするのが好きだった。

ブレニンが走ると、身体は上下せず、背中をまっすぐ伸ばし、地上数センチを浮び、滑空するようで、それは美しかった。

ローランズと10年以上も共に暮らしたブレニンは、実はマラミュートではなく98%のオオカミだった。

ローランズは、オオカミが十分な運動になるくらい、ジョギングにつきあえる体力の持ち主だったが、人嫌いの面もあった。ブレニンとの生活を送り、思索するうち、オオカミ好きが高じ、人嫌いはより促進されたらしい。

マーク・ローランズにいわせると、人のなかにはサルが住んでいる。「サル」とは人間の本質的な性癖をデフォルメ(誇張)したメタファー(比喩)だ。サルはけたたましく計算し、いそいそと可能性を考える。陰謀や謀略をめぐらせ、他者を欺き、騙すが、一方のオオカミにはそれはない。

オオカミは自分の強さを頼りに、なすべきことをなし、結果は受け入れる。しかし、社会的な動物であるサルは、仲間のなかに弱さを作り、そこにつけこみ、自分が欲する結果が生まれるように、日々忙しく過ごす。サルは「弱さ」から行動の契機が生まれるのだ。

サルに友だちはいない。友の代わりに、共謀者がいる。サルは他者を見やるのではなく、観察する。そして観察する間じゅう、利用する機会をねらう…サルは人生で一番大切なものも、コスト・利益分析の視点から見るのである(「哲学者とオオカミ」マーク・ローランズ著.2008.今泉みね子訳.白水社.2010年.P13)

このようなデフォルメは、猿に対しても人間に対してもあんまりだと思いつつ、彼の主張は明確だ。

人はそのようなサルだから、オオカミとは違い、道徳を必要とする。人は芸術や文学、文化を創造し、物事の真実を発見することができるが、それは、サル的詐欺師の側面をおさえる「道徳」という財産をもっているからだ。道徳を失えば、人はただのサル、ただの詐欺師に陥るという。確かに、そうかもしれない。

ローランズのいう道徳は、サルとしての本能的能力の暴走を、反対側から押し返す。そして思慮深く、思いやりある人間として存在させるために働く意思(義務)なのだ。

(道徳とは)身を守ることができない者を守る義務である。相手を劣った存在と見なして、だから犠牲にしてもよいと考えているような人間から自分を守ることのできない者を、守ってあげる義務だ。

(そしてもう一つあるのだが、それは)自分の信念を適度に批判的に検討する義務だ。入手できる証拠をもとに、自分の信念が正しいかどうかを検討し、その正当性を無効にするような証拠がないかどうかを、少なくとも確かめようとする義務である。(P111-112)

この二つの義務の不履行が、不道徳で邪な、信じがたい悲惨なできごとなどを引き起こす。邪悪は特殊なことではなく、誰のこころのなかにもある働きが、ある意思の欠落によってひき起こす陳腐なできごとだ。なるほどと思う。

自分より弱い存在を守り、自分の信念がそのために働いているかを確かめようとする。この二つの義務を個人で背負い、家族で大切にする。コミュニティのなかでこの義務を実現しようとする。これが正義というものだろう。

オオカミは邪悪な存在というイメージがあるが、ローランズは、邪悪はオオカミでなくサルのほうだといっているのかもしれない。そして実際のサルではなく、義務を忘れた人間であるといっているのである。

ローランズは大学で哲学を教えた。彼はアメリカ、アイルランド、イギリス、フランスと移動したが、ブレニンもいっしょだった。そしていっしょに大学に行った。だから、彼のシラバス(学生にむけた講義内容や留意事項のメモ)にはこう書いてあった。

「注意事項 オオカミを無視してください。オオカミはあなた方に何もしません。ただし、バッグの中に食物がある場合には、必ずバッグをしっかり締めてください」

講義が退屈な部分にさしかかると、寝ていたブレニンは身体を起こして遠吠えをした。学生たちは教わったデカルトのことは忘れても、きっとブレニンは忘れていないだろう。 ローランズのこの本には、サル的詐欺師と契約についてのおもしろい考察もある。しかし、これはまた別の話である。

2011年1月5日

驚き

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:09 PM
初めてのドライブ

浜名湖1961

明けましておめでとうございます。賀状やお会いしたいく人かの方から「時々ブログを見ていますよ」と声をかけていただきました。うれしいものです。これからもよろしくおつきあい下さい。

左の写真はぼくが初めて経験したドライブの記念写真です。左から、私、仲清隆くん、根地嶋孝夫くん。堤防に座っている女性二人、奥の人は仲くんのお母さん。写真を写しているのは、運転してくれた男性。

ぼくは、岩手から引っ越して、静岡県清水市で小学校に入学。慣れない土地でした。

小学校2年生の2学期に、東京から転校してきた仲くんと同じクラスに。お互い友だちの少ないどうし、たちまち仲良しになりました。友だちができた喜びをいまでもありありと思い出します。彼は運動ができて、明るくて、屈託のない性格。うらやましいことに、ぼくの家よりはるかにお金持ちでしたが、それを鼻にかけることはありませんでした。

根地嶋くんは小学校3年の時、同級生になりました。アイウエオ順の出席簿では、ぼくのひとつ前が根地嶋くん。それで仲良くなりました。おとなしくて、人の話をよく聞くタイプです。彼の家は川のそばの二階建てで、夏になると庭に大きな花が咲き、大きな蜂が舞っていたことをなぜか思い出します。

写真のぼくたちは小学校3年生か4年生。仲くんのお母さんが自動車の運転を習っていて、そこで知り合った教習場の先生のおかげで、このドライブが実現しました。

清水から名古屋まで行き、名古屋城と東山動物園を見物。仲良し3人組にとっては、城のなかのエレベーターを見ても、金の鯱鉾(しゃちほこ)を見ても、楽しいことばかり。ぼくにとってそれはそれは特別な日でした。

帰ってくる頃には夜になり、たくさんの星が見えるようになりました。当時の道路はたいへん暗かったのです、国道1号線でも。

車の前に座っている大人たちは疲れたのでしょう、無口になっていましたが、子どもたち3人組はまだまだ元気。あれこれ話をして、はしゃいでいました。
…宇宙はどれくらい広いのだろう。1000光年って、光が1000年かけて進む距離だよ!すごいと思わない。星はいくつあるのだろう。何億、何兆。兆の上は何? 宇宙の外には何があるんだろう。その外に宇宙があったとしてもその外には何があるんだろう? いったい、無限って、どんなこと…。

座席に頭を押し付けて、逆さに、車の後ろの窓を見ると、そこには降り注ぐような星々。車は暗い国道を走ります。おしゃべりにちょっとした隙間が生まれ、車のシートにうもれると、無限ということばの底から、ふと、不思議な感覚がわきあがってきます。切ないような、ジンとくるような、何とも言えない感覚。でも、一人で、胸のなかにそれをしまいました。
あとになってわかるのですが、それは無限という“考え”を発見した“驚き”でした。

あれから50年、「無限」は街角に捨てられて、風に舞うゴミほどに当たり前なものになり下がりました。「無限の可能性」「無限の力」などとよくいわれます。驚きとは無関係な、陳腐なものの一つです。残念なことです。

科学・消費経済が飛躍的に肥大化したこの50年、自然やコミュニティーが失われましたが、驚きも失ったもののひとつかもしれません。驚きを失い、当たり前になった「無限」こそ、私たちを孤独にさせ、感情を凍らせている元凶ではないでしょうか。

マシンや電光掲示板を見つめる。ネットに依存し、愛着を寄せる。情報を奪い、加工し、表示し、あるいは秘匿する。AはBであり、Bの別パターンはCで、Dという変形もあるが、Eに発展し、Fにはならず…。ディスプレイの向こうに無限の空間があると信じる人々の群れ。人々は無限というセルで仕切られ、隔てられているので肩を寄せ合うことはできない…。有限の世界のなかで「私」という存在が結びつくから、私たちは世界にふれることができ、肌で感じることができるのに…。

人として大切な“もやい綱”をほどき、無限の空間の海にただよいはじめました。ふれることも、聞くこともできないさみしい空間が、人間世界のそこここに広がっています。ミヒャエル・エンデの「虚無」の世界のようです…。

だからこそ、私たちは、有限であることを取り戻さなければなりません。有限であることによって、驚きも取り戻せるはず。

日常の小さなできごとに驚きあう関係。小さな物の中に感じる無限。無限に響きあえるこころ。無限は私たちのこころのなかにそっとあるもの。私たちを囲ったり、外側に出てくる“モノ”ではない。幾度も、ひとり確認するでしょう。

花壇に咲く花、鳥や虫たち、雨や雪や雲、語り合う笑い声、静かでかすかな祈り。驚き、胸が鳴る。このようなことが大切にできる1年でありたいものです。どうぞ、今年もよろしくお願いします。

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