なんとなくサンネット日記

2010年11月29日

フェアの魅力

Filed under: つぶやき — toshio @ 10:37 AM
寒気団が南下

寒気団が南下

 この秋、岩波新書『アメリカン・デモクラシーの逆説』という本が出た。著者の渡辺靖氏は、20代のほとんどをアメリカで過ごした40代前半の社会人類学の研究者だそうだ。

 彼がフィールドワークしてきたアメリカ社会、「アメリカ学」のエッセンスが、この本につまっている。アメリカの内側からの視点でアメリカ社会を描いていて、興味深い。

 社会人類学とは文化人類学と同じ領域の学問らしいが、経済や社会・政治の領域に近接している。

 ぼくらは、日本社会で暮らしながら、アメリカの文化・政治と無関係に過ごせない。ニュース、ファッション、音楽・映画、本…。「アメリカ」というサングラスをかけて、朝から晩まで暮らしている。

 しかし、この本を読み終えて、閉じるとき、ぼくはアメリカの何を知っていたのだろう、と思い返さざるを得ない。

 アメリカに渦巻く貧困、暴力、抑圧、無関心…。政治を凌駕し「超資本主義」が謳歌する社会。エルサルバドル系のギャングが10万人。この40年で、刑務所に収監されている者は50万人から230万人に。富裕層はセキュリティを求め、メガチャーチ(保守派の巨大教会)やゲーテッド・コミュニティ(門塀に守られた高級住宅街)に集まった…。

 バングラディッシュのグラミン銀行は、マイクロクレジットといわれる貧困層を対象にした無担保融資の活動で2006年ノーベル賞を与えられたが、2008年にニューヨークに支店を出したという。これはアメリカの中に第三世界化するアメリカがあるということだ。

 そして、カリフォルニア大学の文化人類学者、ジョセフ・デュミットは「健康」についてこういっている。

――薬、病、コスト、インセキュリティ(不安)が増大し続けている根底には、私たちは生まれながらにして病であり、健康とはリスクを軽減することであり、自分自身が体感する健康状態は本質的にインセキュリティなものである、という比較的新しい定義が存在していることである(2010年論文)――

 健康が幻想で、病が常態であり、病気のリスクを軽減するために薬と医療が必要ということだ。渡辺氏はこの言葉を受けて次のように言っている。

――デュミット論文が示唆しているのは、今日の新自由主義的な文化や制度のもとでは、自らの精神性や身体性という、個人にもっとも直近なはずの領域さえ、自らの責任や判断によって統治・所有することが困難になっているという逆説に他ならない(P124)――

 新自由主義は、個人の責任と判断で資金を運用し、生活の維持発展という行為(自己統治)を考えの基礎にしている。そのさらに基底には自己の精神性や身体性であるはずなのだが、新自由主義的な文化のもとで、それはメルトダウン(炉心溶融)している、という。

  これは確かに「逆説」であるが、別の面から考えれば、理にあうことである。

 新自由主義は、コミュニティから個人を切り離し、完全に孤立した個人を想定した。自由になった個人の可能性は無限になったかに見えた。しかし、現実を孤独に浮遊する個人は、不安定になった。「自由」の獲得の代償に、軸を失ったのである。その不安定さの隙間に、DSM(診断マニュアル)や製薬企業が結びつくとき、病というリアリティが個人のなかに生まれ、市場(マーケット)が生まれた。新たな利益をめぐる結びつきが、再度個人という枠組みのなかにきちんと収納され、再び孤独な個人が起動するとき、その人のなかにはいったい何が生まれるのだろう。

 コミュニティ(他者との関係)からも、自己統治(セルフ・ガバメント)からも「自由」になるのだろうか。

  救いがたいアメリカであるかに見える。しかし、渡辺氏は、人々の言葉のなかに、小さな営みのなかに希望を見出す。そして有名な人々の中に。

 ブッシュ政権で国務長官を務めたコリン・パウエル(共和党)は、大統領選のあった2008年、オバマ(民主党)を支持した。共和党保守派の一部が「オバマはイスラム教徒である」と吹聴していることを、いましめてこういった。

「オバマ氏がイスラム教徒かと聞かれたら、彼はずっとキリスト教徒であるので違う、というのが正解です。しかし、本当に正しい答えは、彼がそうだったとしたらどうだというのか、ということです。アメリカでイスラム教徒であることに何か問題があるというのか。答えは否です。アメリカではそんなことが問題であるはずがないのです」

 パウエルの言葉につなげて、渡辺氏は“こうした自由な精神に導かれた、フェアなアメリカは私を魅了してやまない”(P218)と述べている。パウエルのメッセージはすばらしいと、私も思う。

  なるほど「フェア」か。フェアの存在、フェアであること、フェアが力をもつこと。それがアメリカのもっとも大きな資源で、可能性そのものなのだろう。

 ひるがえって、私たちの日本社会に目を向けると、「アンフェアな社会だからアンフェアに向き合おう」という風潮が強まり、あらゆるところに広がっているように思う。私たちの社会は、このような風潮を蔓延させる社会だったのか。アンフェアな振る舞いをたしなめ、フェアなあり方を育てる力はどこに行ったのか。

 本当に恐ろしいものは、新自由主義でも、不安の増大でもなく、アンフェアであることに厳しく向き合おうとしない傾向だ。

 「おてんとう様に顔むけができない」「誰も見ていなくても、おてんとう様が見ているよ」。こんな言い方が気軽に語られるように、いろいろな自発的なコミュニティが育ち、私たちなりのフェアさを認めあう明るい営みが活発になるとよいのだが。

2010年11月9日

寄り添う過去

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:57 PM
ひだまり

ひだまり

 人が過去に経験したことは、どんなに些細なことであっても、必ず現在のその人に寄り添っている。あらゆる経験が、あらゆる選択に影響を及ぼす。(『催眠』ラーシュ・ケプレル、2009、邦訳2010、レンハルメ美穂、早川書房、(下)P86)

  私たちは、選択の自由、無限の可能性を求めがちである。

 自己とかかわりないところに選択肢は存在し、いくらでもチョイスできる。「うまいところだけ」自分に引き寄せればいい。「いいとこどり」は可能である…などと思うものだ。

 しかし選択にも限界はある。なぜなら選択が、選択する自己に影響を与えてしまうからだ。

 自己を通過しながら、選択は肥大し、変化し、縮小する。だから、自己が耐えられる範囲だけに、選択は存在する。選択が自己を超えることはできないと思うのだ。

  さて、『催眠』はスウェーデンの推理小説である。

 80年代に読んだ「刑事マルティン・ベック」シリーズ以来のスウェーデンものだった。この30年でスウェーデンもずいぶん変わったようだ。文化、女性の社会参加、子どもたち、移民、教育…。そして精神医療についてのこんな文章を見つけた。

――ウッレローケル精神科病院は、1990年代初め“精神科医療改革”と称して行われた大幅な経費削減にもかかわらず、いまなお運営されている。あの改革によって、数多くの精神疾患患者がそれまでずっと暮らしてきた施設を離れ、自力で生きていくことを強いられた。請求書の支払などしたことがなく、コンロや玄関の鍵の管理も自分でしたことがない彼らは、与えられた住居をたちまち失った。入院患者の数は減ったが、ホームレスが同じ勢いで増加した。やがて政治が新自由主義的な方向に傾き、大規模な経済危機が訪れ、気がついてみればどの県も、こうした人々をふたたびすくい上げる資金をもはや持ち合わせていなかった。現在スウェーデンで運営されている精神科病院は数えるしかない――((下)P353)

 新自由主義が、医療や福祉に与える影響から、スウェーデンも逃れられなかった。住居を失った人々、そのような人々のかたわらを通り過ぎる人々、そしてそのような町と地域…。この共同体験は、未来のスウェーデンを照射し、その先に影が長く伸びていく。

2010年11月5日

遅刻をしないで

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:33 PM
静岡出身のKさんのイラスト

静岡出身のKさんのイラスト

【次の文章は83年の1月に発行した『ふれあいの会の会報』の序文です。文責は私です。

 ふれあいの会とは、私が呼びかける形で始まった、精神障害者の地域交流の会です。お金の貸し借りがあり、ケンカがあり、解散し、そしてつながっていました。

 30年近い前の文章ですが、障害者の交流に何を求めようとしていたか、今も変わらないものがたくさんあるなあと振り返りつつ、障害への時代的感受性の変化に驚きます。ただ、つながりを求める切実さ、人間味、情熱が懐かしくもあります。】

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ふれあいの会の会報をお届けいたします。

 私達の会は、80年6月が出発ですが、現在のような形として再出発したのは、82年2月からです。80年6月から翌年2月までは、メンバーは4人でした。再出発し、現在7~8人のメンバーとなり、短期間ながら2人のメンバーも一時期参加してくれました。また他の会の人達との交流もありました。

 現時点での私達全員一つの到達点として、良いところも、悪いところも含めて、この会報を届けることにしました。

 まず最初に会の特徴(あるいは約束ごと)を述べ、会の紹介としたいと思います。

 a) 横浜市鶴見区に在住しているメンバーで、障害者を中心に活動を行います。(現在の参加メンバーは男性のみとなっています)

 b) 会の目的は、こころのふれあいです。ふれあうということは、自分の心を開き、他のだれかと見えない糸を結んでいくということです。障害があるということで孤立し、自分だけで悩む状況から、ふれあうことを通して少しでも自由になっていく、また健常者はそれを学ぶ中で、本来の自分の生き方を模索していく、ということが目的なのです。

 c) 会の規則といったものはありません。継続して何かをしなければならない、ということもありません。参加することも、またしないことも自由です。会費もありません。会に参加し自由に発言することができ、また発言しないことも自由です。

 d) リーダーはいませんし、先輩・後輩という関係もありません。初めて参加した人も、同じメンバーとして受け入れられます。思想や信条が異なっていても、拒否されることはありませんが、他のメンバーを批難したり、差別すことは許されませんが、自分にとってつらく感じたり、悩みに感じることは拒むことができます。

 e) 月に2度、現在の原則としては第2、第4水曜日の夕方5時半から鶴見公会堂で例会を開きます。(時としては日や場所の変更はあります)例会に出席したメンバー全体で、レクリエーション等を計画します。問題が起きた時は、メンバー全体で、責任を負っていきます。

 f) 付け加えますと、障害者中心でありますので、障害の質や程度で差別することはありません。それは許されないことです。ただ現在の私達の会には、十分の介助や介護を必要としている人に対して、応えることのできない状態であることは、述べておかねばなりません。また私達の会の目的を理解したうえでの、健常者の参加は歓迎します。(現在、健常者は一人です)

 このように紹介していきますと、目的のはっきりしない、無意味な会として映るかもしれません。ただこの会は、障害者ということで孤立し、絶望を深めつつある人々のために、これ以上孤立や絶望を深めないように機能しなければならないのです。そしてこれらの特徴あるいは約束ごとは、今までの体験の中で試行錯誤しながら、全員で生み出してきたものであるのです。 

 私達は、何かをやり遂げることや世の中のいろいろな事柄を学ぶことが、価値があるように、リラックスするということも同じように価値があると信じています。約束ごとを少なくし、リラックスして、ふれあいを求めるということも簡単なようでも、むずかしいことであることを体験しています。

しかしまた、リラックスできた時にこそ自分に正直になれるし、各メンバーがそれぞれかかえている問題に対しても、その時点でのそれぞれができる範囲で取り組むことができ、安心感も生まれてくることも体験として得てきています。

 私達の願いは、メンバーを増やすことでも、会を長く存続させることでも、会を有名にすることでもありません。

 その時その時めぐりあった者同士が、支え合い、それぞれに合った新しい生き方をめざすための一つの契機に、この会がなればよい、ということです。そしてまた、もしもこの会が、会の目的を十分果たし得ないで、会を解散せねばならない事態が起きたとしても、このような会を必要としている人があり、それに代わる会がなければ、何度でも会を再建できるだけの力と誠意を、各メンバーがたくわえていくことも、私達の願いの一つです。

 最後に、会の雰囲気を伝えたいという意味で、会のメンバーの一人であるTさんの、メンバーへのメッセージを皆さんにも紹介します。

1.   集まりの時、時間を守ってほしい

2.   新人の人は仲間に入ってほしい

3.   後から会に入った人に、物の売り買いはしない(トラブルのもとだから)

4.   お互い仲たがいせず、仲良くやろう

5.   (Tさんは足が悪いので)他のメンバーは2~3日に一度くらい家に寄ってほしい

6.   お互い助け合おう

 このメッセージは、私達の会が不十分であるということと、同時に、これらの点をめざしているということを、明らかに表現しています。この会報が、私達と読んでくださるあなたとの、見えない架け橋となることを願いながら、届けることにします。(文責N 1983年1月)

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