なんとなくサンネット日記

2010年10月29日

人形探し

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:21 PM
秋の日の公園

秋の日の公園

 「先生」のあとをついて私は歩いていました。ある実験室に入ります。中は、床も天井も壁も真っ白。四隅に同じ形の白い箱があるだけで。他には何もありません。長方形の部屋です。

 私は入ってきたのはどこだったか、ドアはまるで消えたように見当たりません。「先生」は、手に持っていたぬいぐるみの人形を、一つの箱に隠しました。

 そして「先生」は私に目隠しをし、私の体をグルグルまわしました。幾度か体を回して、目隠しをはずし、目を開けると、「先生」は「人形を探してください」といいました。

 確か、人形を隠したのは、私から見て長い壁の左側です。いま見ている前の方の壁か、それとも後ろの壁か、区別はつきません。「ええい!こっちかな」と選ぶと、たまたま正解。同じことを何度かやりましたが、正解は半々。

 長い壁の左側=短い壁の右側。また別の場合は、長い方の右=短い方の左。長い壁か短いか、右・左の区別がつけば、ランダムに探す場合より正解率は倍になるのでした。
 「この区別は、実は、ネズミも2歳の乳児もできるのです」と言った「先生」の言葉は、驚きでした。「では、次の実験室に行きましょう」と「先生」。

 今度の部屋は、前の部屋とほとんど同じですが、たったひとつ、短い壁の一つが黒くなっていることが違ってします。同じように目隠しをして人形を探しますが、今度は簡単です。「先生」は長い壁の左側の箱に隠したのですが、それは黒い壁に接したところでしたから、ぐるぐる回されても見渡せば、その箱の場所は特定できます。反対側の長い壁の左側は白い壁に接しているのですし…。

 今度は正解率100%です。「さっきの区別の仕方。それと今度の、黒い壁に接しているか、接していないかの区別を重ねれば、正解率は100%になります。これはネズミにも2歳の乳児にもできません。しかし、5歳くらいになるとできるのです」。「5歳とは」、私はややがっかりしました。

 「さて、大人のあなたにやっていただきたいのは、この部屋でもう一度同じことを、ヘッドホンをし、耳に流れてくる音声と同じ内容を声に出し、反復しながら、人形を探していただきたいのです」と「先生」。

 聞こえてくる音声は、小説や論文、ニュース原稿の断片です。新聞折込のチラシ原稿さえあります。「先生」が人形を隠す時も、目隠ししてグルグル回っている時も、目を開けて探そうとする時も、聞こえてくる脈絡ない音声に注意し、正確に繰り返しながら、さっきのように人形を探そうとしました。

 音を聞いていると、「ネズミ」の動きはできますが、黒い壁との関係を把握する「5歳児」の行動ができにくいことに気づきました。気が取られるというか、注意力を持続できないというか、つい間違えてしまいます。聞こえる音に集中すると、複数の手がかりを同時に扱うこと、物と物の関係を認識し、空間をとらえること、そういったことが途端にむずかしくなりました。正解率は落ちてしまい、50%に近かずきました。私は「ネズミ」レベルの行動しかできなかったのです――。
     (『ことばと思考』.岩波新書.2010年.今井むつみ.p162-165)
 
 自己中心な立場で空間把握をする能力から、一歩踏み出すこと。それは、思考する軸が自己から離れ、別の視点で空間関係をとらえようとする能力であろうが、そこには言葉を扱う能力も関係しているということだ。

 ネズミから5歳児に成長するには、言葉を扱い、自分以外の地点から空間関係を把握しなければならない。ひょっとすると、この能力の出現と並行して、他者に共感する能力も生まれるのかもしれない、と思う。なぜなら、言葉自身、他者という存在があってこそ存在するのだから、すでに言葉は共感を含んでいる。それに、自分の位置から離れて関係性を把握するという物理的な能力は、人間関係において他者の目から関係を把握しようとする「共感」と、よく似通っている。

 もうひとつ別のことも思いついた。ひどい幻聴を体験している人は、それまでとは違って、いろいろなことができなくなることがある。これは、音を反復すると識別できなくなるという実験と似ている。ヘッドホンの音声のごとく、絶え間ない幻聴が、空間の把握、時間感覚の保持、共感する力を押さえつけ、発揮できない状況に陥れているのかもしれない。

 すると、幻聴で苦しんでいる人がいて、周りで支援する人間は、その人を何もできない人、わからない人と見なしてはならないだろう。ヘッドホンをとれば、きちんと空間を把握できるようになる人なのだから。
 「空間がゆがんで見えても、上手に共感を表現できなくても、大丈夫!必要なことは応援するし、ゆっくり待っているよ…」と、呼びかけることが求められるのかもしれない。幻聴の隙間からあたたかなメッセージが届き、芽生える安心感によって、逆に幻聴が薄まっていくこともあるのではないか…。本を読みつつ、こんなことを漠然と考えていた。

2010年10月18日

多くの人が強くなる

Filed under: つぶやき — toshio @ 9:57 AM
トオガラシ

トオガラシ

 1999年4月20日、昼近く、コロラド州コロンバイン高校で銃乱射事件が起きた。

 2人の高校生、エリック・ハリスとディラン・クレボルドが学内で銃と爆弾を乱射。教師1人、生徒12人を殺害、多くの負傷者が出た。2人は襲撃の始まりから49分後に自殺。

 被害の甚大さに現場は混乱。3時間以上も犯人を特定することができないまま、数百人の学生が学内に取り残され救出をまった。

 これは立てこもり事件なのか、共同犯が潜んでいないか、わからないまま数百人の警官が周囲を包囲した。マスコミはヘリコプターから実況中継をし、学内に残った学生との電話インタビューがテレビに流れる。

 救出活動は滞り、そのあいだに息を引き取る人もおり、遺体の収容は翌日にもちこされた。

  事件後、彼らのすさまじい計画が明らかになるが、一部の事実は当局によって隠蔽される。市民は「なぜ、このような事件が起きたのか」を知りたがったが、被害者たちの記憶は錯綜し、情報は入り乱れる。特ダネを追ううち、事実から離れたいくつかのストーリーが生まれた。

 被害者たちは事件によって肉体的・精神的被害を負ったが、「ストーリー」に翻弄された世論によって苦悩はさらに深まった…。

  ジャーナリストのディブ・カリンは、10年間、この事件に取り組んだ。大量の資料を検討し、数多くの関係者とのインタビューを行った。そして、重厚なノンフィクションをあらわす。『コロンバイン 銃乱射事件の真実』(ディブ・カリン、2009、邦訳堀江里美、2010、河出書房新社)である。

  実行される1年半も前に、事件は計画されていたのだった。「いろいろな兆候があったがネット予告も見逃された」。ある書評にそう書かれてあった。私は、どのような兆候だったのか、何ゆえ見逃したのか、そこに関心が向き、読みたくなった。

  表紙を開いて、本文を読み始める前に、ドストエフスキーとヘミングウェイの言葉が並んでいた。

 ひとつめは、ドストエフスキーの『地下室の手記』の一節。悪についてである。

 次は、『武器よさらば』からのヘミングウェイの一節。「世界は誰彼なしに打ちのめし、そのあと打ちのめされた場所で多くの人が強くなる」。

  ディブ・カリンがこの引用で表現したいのは、信じがたい「悪」が存在し、想像しがたいできごとを引き起こすということ。

 絶望的な悲しみのどん底に突き落とされた事件の被害者・関係者たちは、その後も幾度も繰り返しひどい目にあうのだが、長い時間をかけ、やがて、立ちあがろうとする。ヘミングウェイの言葉は、人々のこのような「力」を指している。

 この二つが、この著作のテーマ、基調低音である。しかし、善と悪、正義と不正義といった二項対立ではない。

 読みすすむと、破壊的な人間の性質、とくに主犯のエリック・ハリスが秘密のうちに育てていた「思い」には、おさえきれないやりきれなさに襲われる。そして、その「思い」がいとも簡単に現実化してしまう現代の危うさに、目まいを覚える。なぜ、人はこのようなシステムをつくってしまったのだろうか…。

 18歳になったばかりで死んだエリックは短い人生だが、予兆を表現し、記録を残すことに熱心だった。ウェッブサイトに、学友に、親に、保安官に、セラピストに、更生保護担当者に、ビデオテープに、バイト先の若者に。しかし、関係者のそれぞれの都合によって、それは見逃された。見逃しの動機は自己防衛と真剣さの欠如だった。

  彼らに銃の調達を行った人物への判決で、判事はこう述べた。「被告の取った行動は、あとにくる激震の第一歩だった。我々はみな、危害をもたらす可能性を目撃したときにそれを阻止しようとする道徳義務がある」(P392)。確かにそうだ。しかし、この事件の場合、道徳的義務はほとんど行使されず、エリックの「思い」はあらゆる阻止線を簡単にスルーした。

  耐え難い事件だが、本の最後で、10周年の式典で負傷者を代表してスピーチをしたヴァリーン・シュナーの言葉に救われる。1年に4度の手術を受け、数年にわたり感染症に苦しんだ彼女は、いま児童関係のソーシャルワークの仕事についているのだった。彼女はこうインタビューにこたえた。

 ――新しい道を見つけたからこそ、エリックとデュランを許すことができた。「怒り?もうないわ」彼女は言う。時間はかかったが、数年をかけて徐々に怒りは薄れていった。「自分をしっかり持とうと思ったときから、過去にとらわれなくなった」彼らではない、彼女自身の問題だった。(P506)

 絶望と希望がぴったり同居した事件とその後。「悪」と、打ちひしがれた人々が立ち上げろうとする「力」の二つは、闘いあっているのではなく、別々に同じ場所に存在している。この本はそう言っている。

 家族・規制・情報などの社会システムが、「悪」の側からも、「力」の側からも利用可能な中立的な存在であることが、事件を可能にしたのだ。ディブ・カリンは控えめにであるが、それでいいのかと私たちに問いかけているようだ。

2010年10月14日

ダブルバインド2010 №2

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:28 PM
秋空

秋空

 ダブルバインドが「嘘」と「秘密」にいろどられている、と書いたことがあります。(「ダブルバインド2010 №1」2009年12月)

 最近、斉藤環の『家族の痕跡』(ちくま文庫、2010年)のなかで、「日本的ダブルバインド」という言葉を見つけました。本家のG・ベイトソンのダブルバインドの事例では、加害者である母親は、暗黙のうちに息子を拒否していました。

 斉藤氏の「日本的ダブルバインド」における「加害者(母)」は、息子を手元に置き続けることを潜在的に望んでいる、そこが違うというのです。(しかし、これは理論という硬いものではなく、社会を読み解くためのアイディアといったものだと思います)

――母親たちが、わが子に「早く自立しなさい」「家から出なさい」という否定的なメッセージを与えつつ、実はわが子の生活を曖昧に支え続けている。無限に許す母親が悪いのではない。そんな母親こそ例外的存在なのだ。否定の言葉とともに抱きしめることが、いかに人を束縛するのか。…本人は、そうした姿勢に秘められた矛盾を意識しつつも、もはや関係の磁場から立ち去ることができなくなる。これこそが私の考える『日本的ダブルバインド』の本質である。(P30-31)

  否定の言葉とともに抱きしめる…よくある心象風景です。私たちの日常においても、ドラマや小説でも、繰り返し現れる風景です。(でも、加害者が男ならこれは“DV”ですね)

 口ではやかましく、あるいは悩ましく、繰言を、願いを、言いつつ、しかし見放さない、支え続けてしまう。それが問題というだけでなく、「母親の愛」「慈愛」ととらえるように強いる関係・社会(それこそ「磁場」)のありようも問題なのです。

 このダブルバインド的状況の真の恐ろしさは、「愛」と「信頼」を、「嘘」「秘密」とミックスしてしまうことにあるかもしれません。

  ダブルバインドの問題が指し示すのは、真意(言語以前のもの)と、その言語が指し示すところとの乖離、ギャップの存在です。ダブルバインドとは、そのギャップをはっきりさせず、あいまいにして、自分に都合のよい方向へ利用してしまう、問題のあるコミュニケーション手法なのです。

 加害者の意図レベルの問題も大きいのですが、もともと言語がもっている本質的な「虚構性」に、ダブルバインドのルーツがあるという側面を忘れてはならないでしょう。

  ――言語が記号であるなら、意味は確実に伝わる。なぜなら記号の意味は、それが単数であれ複数であれ、きちんと対応関係が定まっているからだ。しかし、言語はそうではない。言語の意味は、文脈(コンテキスト)によって、きわめて流動的で定めがたい。…言語は指示する事物と直接の関係を持ちえず、ただ言語間の隠喩的な結びつきによってのみ、意味を生成できる。…記号は対象とのみ関係し、記号同士はほとんど関係を持たないが、言語は対象と直接の関係を持たない代わりに、言語同士の関係から無限に意味を創り出すことができるのだ。――(同、P84-85)

  言語のもつ限界、それは現実の事象と直接の関係をもちえないこと。言語の創造性、それは言語同士の絡み合いつながり合いから、無限の意味が生成すること。フランスの精神科医・思想家であるラカンの言説をひきながら、斉藤氏はこのように述べていました。

 この限界と創造性を逆立ちさせてしまうのが、私たちでもあるのです。たとえば、インターネット(文字)が自分の居場所(空間)であるという日常。文字情報(言語)を集積すれば、世界(事象)が把握できると信じる。共感(事象の基礎)はしなくとも、連帯する権利(言語)があると思い込むetc…。

 このようなあまたある世界の切れ目の地点からダブルバインドは生まれ、「嘘」と「秘密」が湧きあがり、ゆがんだ「愛」が流出するのかもしれません。

  私たちは、言葉のもつ力をあるべき位置に戻し、そうすることで、「嘘」と「愛」を区別できるようにしなければなりません。世界の切れ目を指し示そうとする責務。そういった種類の「仕事」が、人の生きる意味のような気がしてきます。

  今日、友人が退院しました。退院した彼と私、彼につながる人びとが、これからしなければならないことは、言葉の力をだいじに、しかしその限界をしっかり見つめることです。なぜなら、この営みによって、信頼を、情愛を見極めることができますし、ダブルバインド状況を折り返し、克服していくことになるからです。

 ダブルバインドを克服する、それこそがリカバリー(回復)ではないでしょうか。ですから、作業の一端にかかわる、それが、きっと私にとっても大きな喜びになると思うのです。

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