
雲谷の初夏
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)を読んでいます。
政治哲学の分野だからか、あるいは論争的な組み立ての本だからそうなのか、いろいろな思考方法をぶつけ合っているのですが、ぶつかり合い方になかなかついていけないところもあります。
でも、いろいろな事例を提示し、挑戦的に読み手に問いかけるので、あきさせません。
とてもとても要約などはできませんが、ちょっとおもしろかった箇所。イマヌエル・カント(1724-1804)の「自由」についてです。
「動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的欲求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。欲望を満たそうとしている時の行動はすべて、外部から与えられたものを目的としている」だけだ、とカントはいうのです。
のどが渇いてスプライトを飲みたいとか、暑いからバニラアイスを食べようか、それともチョコレートアイスにしようかというのは、外部から押し寄せる欲望に服従しただけ、だそうです。
自己選択、自由意思と私たちが呼ぶものの多くは、カントから見れば、欲望への服従にしかすぎないでしょう。欲望から引き離れ、道徳や理性が支える自律的な自由が存在しているということを説いたそうです。
「われわれは道徳と自由の存在を証明することはできないが、それらが存在するという前提なしに、道徳的な生活を理解することもまたできない」(P168)。これって、かっこいいですよね。
自由を保障する、誰かの自由を守るという行為は、欲望を達成させるという目的があるのではなく、理性や価値のためにあるということでしょう。彼にとってだいじなのは、結果ではなくて動機なのです。
この論争、この先どうなりますか?