なんとなくサンネット日記

2010年6月30日

〈私〉の時代 №3

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:16 PM
雲谷の初夏

雲谷の初夏

 マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)を読んでいます。

 政治哲学の分野だからか、あるいは論争的な組み立ての本だからそうなのか、いろいろな思考方法をぶつけ合っているのですが、ぶつかり合い方になかなかついていけないところもあります。

 でも、いろいろな事例を提示し、挑戦的に読み手に問いかけるので、あきさせません。

 とてもとても要約などはできませんが、ちょっとおもしろかった箇所。イマヌエル・カント(1724-1804)の「自由」についてです。

 「動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的欲求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。欲望を満たそうとしている時の行動はすべて、外部から与えられたものを目的としている」だけだ、とカントはいうのです。

 のどが渇いてスプライトを飲みたいとか、暑いからバニラアイスを食べようか、それともチョコレートアイスにしようかというのは、外部から押し寄せる欲望に服従しただけ、だそうです。

 自己選択、自由意思と私たちが呼ぶものの多くは、カントから見れば、欲望への服従にしかすぎないでしょう。欲望から引き離れ、道徳や理性が支える自律的な自由が存在しているということを説いたそうです。

 「われわれは道徳と自由の存在を証明することはできないが、それらが存在するという前提なしに、道徳的な生活を理解することもまたできない」(P168)。これって、かっこいいですよね。

 自由を保障する、誰かの自由を守るという行為は、欲望を達成させるという目的があるのではなく、理性や価値のためにあるということでしょう。彼にとってだいじなのは、結果ではなくて動機なのです。

 この論争、この先どうなりますか?

2010年6月27日

〈私〉の時代 №2

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:05 PM
初夏の新町通り

初夏の新町通り

 今朝、東奥日報を見ていたら東京で読まれている本の第2位が、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』でした。(2009年.訳者鬼沢忍.邦訳2010年.早川書房)

 NHK教育の日曜日夕方放映されている『ハーバード白熱教室』の政治哲学者マイケル・サンデルの著書。しかも、第2位とは…驚きでした。

 「正義の話」が多くの人の注目を集めているということですね。その一方で、私たちの周りで「正義」についての話などありません。「正義」はわかりにくく、語りにくくなっている、その一方で知りたい、語りたいという両面があるということでしょう。

 かつて、正義などの本質的な価値は、大きな声で語られていました。神や仏、人間中心主義、社会主義、市場原理主義、自己選択、共同体。それぞれの価値と立場から、望ましい未来と社会が語られ、人間のあるべき姿が議論され、衝突し、模索されていました。正義を支える役者(思想や価値)は、わたしたちの社会という舞台に現れて、去っていきます。そして、まるで、祭りのあとのもの悲しい時を迎えたかのように、この20年ほど正義は語られなくなりました。

 孤立している〈私〉たちは、どのような「正義」の支え手を見つめているのでしょうか。あるいは誰もいない舞台をながめているのでしょうか。〈どこかのあいつら〉の不正義さをあげつらねることで、〈私〉たちの「正義」は証明されるとでも思っているのでしょうか?正義について語るための材料は失われ、私たちは手元ぶさたのまま、ぶらついています。

 本の帯には社会学者・宮台真司氏の言葉が印刷されていました。

 「1人殺すか5人殺すかを選ぶしかない状況に置かれた際、1人殺すのを選ぶことを正当化する立場が功利主義だ。これで話が済めば万事合理性(計算可能性)のうちにあると見える。

 ところがどっこい、多くの人はそんな選択は許されないと現に感じる。なぜか。人が社会に埋め込まれた存在だからだ――サンデルの論理である。」

 興味深いです。画面のなかのものを画面の外側から選択するように、この選択はできないというのですね。なぜなら、選択されるものと選択するものが同じ社会のなかの同じ部分どうしだから…。なるほど…その同じレベルから、正義を語る視点を生み出すのです。どうなりますか、刺激的です。

2010年6月26日

〈私〉の時代

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:20 PM
初夏のアスパム通り

初夏のアスパム通り

 ――対等への欲求はかつてないほど先鋭化していますが、その平等を実現するための、他者との連帯・共闘の道筋は不透明になるばかりです。それどころか〈私〉の平等意識には、自分と同じような人間たちの一人にすぎない自分、という独特の無力感があります。

 他者との紐帯が希薄化するなか、自分の「かけがえのなさ」にあくまでもこだわる〈私〉。と同時に「大勢の一人」でしかない自分の小ささを、痛いほど自覚している〈私〉。このような〈私〉の平等意識こそが、現代の平等問題の最大の特徴なのです。――(『〈私〉時代のデモクラシー』.宇野重規.岩波新書.2010年.P41)

 かつて、対等・平等への欲求の深部には、政治性が位置づいていました。

 1955年、黒人女性のローザ・パークスは公営バスの「白人専用及び優先座席」に座ったのですが、日常的な人種差別に抵抗する勇気ある彼女の行動は、公民権運動を推し進めました。平等を求める個々人の欲求、それは、平等を許さぬ現実と衝突し、その軋轢のなかで政治性を帯びるのです。

 かつて、どこの国でも、一人ひとりの思い・行動が、他者のそれとつながり、まだ陽のなかに出ていない、人々の政治性が闇の中を地下水脈のようにとうとうと流れていたのです。

 時代は変わりました。対等を求め、私たちは遠くまで旅をしてきました。政治、社会、他者との連帯、町や村、いろいろな風景を通り過ぎました。そして、ここは〈私〉の国。他者との連帯を求めようとする欲求を、〈私〉へのこだわりが巻き取る世界です。孤立した数多くの〈私〉はたたずみ、不安で、不機嫌なまなざしを足元に落としています。

 引力のように、自己に、自己にと、内側に押し込めてしまう「力」に抗し、他者への共感を、連帯のこころを外側にいかに飛ばしうるのか。その営みを、時代が求め始めています。禁止された場所を奪い返したローザ・パークスのように。しかしいま求められているそれは、不可視の営みなのです。

2010年6月11日

風と夏

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:13 PM
カッコーが聞こえる畑

カッコーが聞こえる畑

 『ぼんやりの時間』(辰濃和男. 岩波新書.2010年.P80-81)にこんな話がありました。 

 臨済宗の禅師・山田無文(1900-1988)は若い頃、結核にかかりました。ある先生のところに入門し、修行を続けている時でしたが、医者からは「もう治療の方法がない」と見放されるほどでした。

 無文は故郷(愛知)に帰り、寝て暮らす日々が続きました。近所の人は家の前を避けるように走って通りぬけます。体重は37キロにまで落ち、世間から見捨てられ、もう死ぬしかないという気持ちになってきました。

 その日、さわやかな初夏の日でした。久しぶりで縁側まで這っていくと、庭の片隅に南天の花が咲いていました。すずしい風が吹き、南天の葉が揺れます。こんな気持ちのよい風に吹かれるのは何ヵ月ぶりだろうと、ふと思いました。

 …風とはなんだったかなあ、空気が動いて風になるんだったな。そうだ、空気というものがあったんだ。生まれてから二十過ぎまで、病気で寝こんでいるいまも、空気があるから生きつづけることができたんだ。それほど空気のお世話になりながら、そのことに気づくことがなかったんだ。

 大きな力が、一秒も一分も自分から離れず、じぶんを育ててくれてきたのです。「治れ治れ、生きろ、生きろ」と励ましてくれている、と無文は思ったのでした。

 「ああ、ひとりじゃなかった。孤独じゃない。大いなるものが片ときも離れず、わたくしを守り育ててくれている」。このときの心を詠んだ歌がこれです。

  大いなるものにいだかれあることを けさふく風のすずしさにしる 

 …なるほどなあ、確かに風はいろいろなかたちで私たちを守ってくれているけど、そのことに気づかないで過ごしているなあと私は反省的に読みます。そして、風についての私の思い出をふりかえります。夏休み、色紙を水に溶かして遊んだ木陰を吹く風…。台風が近づいて休校になり、雨はまだ降らず、雲はちぎれるように流れ、風の強まる帰り道…。友だちとカヤのなかではしゃいで、おしゃべりして、ふうと吹いてきた風…。

 風、そのものの思い出が少ないことに気づきます。しかも小学校以降の思い出になると、視覚の思い出がまさってしまい、風は定かな思い出にはなっていません。

 きっといつの時期からか、私は、風を、そして大いなるものを、忘れながら、生きてきたのかもしれません。

 いまは初夏の気もちよい季節。せめて今晩くらいは、風を、感じましょう。

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