■1986年
横浜市鶴見区の高台で暮らし始めて4年目の1986年。ハレー彗星が接近した。ある夕暮れどき、向かいのご主人と立ち話をした。その人は定年後の暮らしをしていた。
「母が、若いときにハレー彗星を見たと言っていました」。品のいい彼が静かに語る。お母様との二人暮らしの人だったが、お母様は前年あたりに亡くなった。「もう一度見せてあげたかったと思いますよ」。76年ぶりのハレー彗星は、今回、よく見えないまま通り過ぎていた。
この年、ソ連のチェルノブイリの原発事故もあった。放射能の被害や影響はヨーロッパ全土に広がっていた。
チェルノブイリはロシア語でニガヨモギの意味、聖書の黙示録にニガヨモギ星が落ちてきて…とある。そんな歌詞の唄があった。びっくりして、家から二軒先のクリスチャンの奥さんに聖書を借りる。
「黙示録は難しいですよ。いろいろな読み方があります…」と安易な意味づけはしないようにそれとなく注意された。彼女は気取らない方で、いつもあたふたとフランス語の本をかかえては、電車やバスに駆け込んでいた。
近所の三家族で伊豆大島に旅行したのもこの年。1歳の息子もいっしょだった。ぼくは雨に放射能が混じっていないだろうかと、旅行先で気にしていた。
元自民党代議士という噂のあった裏のご主人は、ときどき着物を着、下駄を履き、詩吟を唸って歩いていた。隣の共産党の奥さんも元気だった。これはバブルの始まる直前のぼくたちの町の風景だった。
■われ=われ
最近、小田実(おだ・まこと)の『われ=われの哲学』(岩波新書・黄色版、1986年)を読み返した。あらためてわかったが、彼は60年代末「学生の反乱」を社会的な文脈で批判していた。
――自分の「欲望」を押さえてひたすら人民に奉仕するというたぐいの昔の「左翼」にくらべて、「学生の反乱」の主役たちは、彼らの一つの特徴として、禁欲的でなかったといえるだろう…自分のさまざまな「私」的な「欲望」を押さえることはしなかった。むしろ、それを革命というような「公的」な欲望に結びつけようとした。そしてそうした革命を、本当の意味での革命であるとした。(P110)
――無知モーマイのおくれた「人民大衆」の上位に立って彼らを指導する地域あるとする「前衛」のマヤカシ傲慢に対して衝撃的な打撃力をもつことばであり、考え方であった…そこで学生たちに大きく欠けていたのは、自分と「他者」との関係にかかわっての認識であり、配慮だった…自分と本質的に自由・平等の関係にある、自分もその一人として「共生」すべき存在としてある「他者」―「市民」としての「他者」だ。(P111)
そうだったのか。「私」的な「欲望」を、「他者」との関係の上位におき、それで「先駆的」で、よきこととしてとらえる現代の風潮は、「学生の反乱」から始まったのか。そうかもしれない…。
当時の「学生」は、いまや定年である。社会の表舞台から去った。すると、この社会には、「他者」に対する危うい認識が残されているのかもしれない、と思う。
今もなお、小田実の指摘した課題、そしてそれを超えようとした彼の「われ=われの哲学」は残されたままかもしれない。「われ=われの哲学」とは私なりに要約すれば次のようなものだ。
――「私」的「欲望」がある。その「わたし」の周りに、血縁、地縁、国家縁、民族縁、階級縁、組織縁…がひろがり、「われら」を形作る。「われら」にはそれぞれの論理があり、つながりがある。そしてその一方で、「われら」と異なる「かれ」があり、「かれ」にはかれの論理とつながりがある。
その別々の「われ」と「かれ」が、つながろうとするとき、それぞれの論理とつながり方を超えた何かが見えてくる。互いによって立つところは、より普遍的な「天下の道理」であり「人の世の情け」であろう。その普遍的な価値に支えられた「われ=われ(かれ)」というつながりは、立場を超えた連帯となり、「人を殺すな」「助けよ」といった行動になってあらわれるに違いない――。
このようなことを小田実は言っている、と思う。「私」にこだわるな、「われら」という大樹に身を寄せ安住するな、状況に身を乗り出し、一人の人間として向き合え。自分の立場を越えた向こうにいるもう一人の自分と連帯せよ。それが「われ=われ」なのだ。彼はそう言っている気がする。この本は西ベルリンで書きあげられた。そして、チェルノブイリ放射能汚染が、彼の住むところにおしよせつつあるとき、彼は西ベルリンにとどまる決心をした。「私」的な「欲望」より、「われ=われ」というつながりを求めたのかもしれない。私はそんなふうに想像した。
この時の彼の年齢をいまの私は超えてしまった。私も、彼の後を追い、「われ=われ」を考え、求めたいと願う。「私」・「われら」中心の論理と価値は、1986年以後、ますます激しく、この世をいびつに変えてきた気がするから…。