なんとなくサンネット日記

2010年3月28日

人の世の情け

Filed under: つぶやき — toshio @ 11:45 AM
テレビがやってきた 1960年頃

テレビがやってきた 1960年頃

■1986年

 横浜市鶴見区の高台で暮らし始めて4年目の1986年。ハレー彗星が接近した。ある夕暮れどき、向かいのご主人と立ち話をした。その人は定年後の暮らしをしていた。

 「母が、若いときにハレー彗星を見たと言っていました」。品のいい彼が静かに語る。お母様との二人暮らしの人だったが、お母様は前年あたりに亡くなった。「もう一度見せてあげたかったと思いますよ」。76年ぶりのハレー彗星は、今回、よく見えないまま通り過ぎていた。

 この年、ソ連のチェルノブイリの原発事故もあった。放射能の被害や影響はヨーロッパ全土に広がっていた。

 チェルノブイリはロシア語でニガヨモギの意味、聖書の黙示録にニガヨモギ星が落ちてきて…とある。そんな歌詞の唄があった。びっくりして、家から二軒先のクリスチャンの奥さんに聖書を借りる。

 「黙示録は難しいですよ。いろいろな読み方があります…」と安易な意味づけはしないようにそれとなく注意された。彼女は気取らない方で、いつもあたふたとフランス語の本をかかえては、電車やバスに駆け込んでいた。

 近所の三家族で伊豆大島に旅行したのもこの年。1歳の息子もいっしょだった。ぼくは雨に放射能が混じっていないだろうかと、旅行先で気にしていた。

 元自民党代議士という噂のあった裏のご主人は、ときどき着物を着、下駄を履き、詩吟を唸って歩いていた。隣の共産党の奥さんも元気だった。これはバブルの始まる直前のぼくたちの町の風景だった。

 ■われ=われ

 最近、小田実(おだ・まこと)の『われ=われの哲学』(岩波新書・黄色版、1986年)を読み返した。あらためてわかったが、彼は60年代末「学生の反乱」を社会的な文脈で批判していた。

  ――自分の「欲望」を押さえてひたすら人民に奉仕するというたぐいの昔の「左翼」にくらべて、「学生の反乱」の主役たちは、彼らの一つの特徴として、禁欲的でなかったといえるだろう…自分のさまざまな「私」的な「欲望」を押さえることはしなかった。むしろ、それを革命というような「公的」な欲望に結びつけようとした。そしてそうした革命を、本当の意味での革命であるとした。(P110)

 ――無知モーマイのおくれた「人民大衆」の上位に立って彼らを指導する地域あるとする「前衛」のマヤカシ傲慢に対して衝撃的な打撃力をもつことばであり、考え方であった…そこで学生たちに大きく欠けていたのは、自分と「他者」との関係にかかわっての認識であり、配慮だった…自分と本質的に自由・平等の関係にある、自分もその一人として「共生」すべき存在としてある「他者」―「市民」としての「他者」だ。(P111)

 そうだったのか。「私」的な「欲望」を、「他者」との関係の上位におき、それで「先駆的」で、よきこととしてとらえる現代の風潮は、「学生の反乱」から始まったのか。そうかもしれない…。

 当時の「学生」は、いまや定年である。社会の表舞台から去った。すると、この社会には、「他者」に対する危うい認識が残されているのかもしれない、と思う。

  今もなお、小田実の指摘した課題、そしてそれを超えようとした彼の「われ=われの哲学」は残されたままかもしれない。「われ=われの哲学」とは私なりに要約すれば次のようなものだ。

 ――「私」的「欲望」がある。その「わたし」の周りに、血縁、地縁、国家縁、民族縁、階級縁、組織縁…がひろがり、「われら」を形作る。「われら」にはそれぞれの論理があり、つながりがある。そしてその一方で、「われら」と異なる「かれ」があり、「かれ」にはかれの論理とつながりがある。

 その別々の「われ」と「かれ」が、つながろうとするとき、それぞれの論理とつながり方を超えた何かが見えてくる。互いによって立つところは、より普遍的な「天下の道理」であり「人の世の情け」であろう。その普遍的な価値に支えられた「われ=われ(かれ)」というつながりは、立場を超えた連帯となり、「人を殺すな」「助けよ」といった行動になってあらわれるに違いない――。

 このようなことを小田実は言っている、と思う。「私」にこだわるな、「われら」という大樹に身を寄せ安住するな、状況に身を乗り出し、一人の人間として向き合え。自分の立場を越えた向こうにいるもう一人の自分と連帯せよ。それが「われ=われ」なのだ。彼はそう言っている気がする。この本は西ベルリンで書きあげられた。そして、チェルノブイリ放射能汚染が、彼の住むところにおしよせつつあるとき、彼は西ベルリンにとどまる決心をした。「私」的な「欲望」より、「われ=われ」というつながりを求めたのかもしれない。私はそんなふうに想像した。

 この時の彼の年齢をいまの私は超えてしまった。私も、彼の後を追い、「われ=われ」を考え、求めたいと願う。「私」・「われら」中心の論理と価値は、1986年以後、ますます激しく、この世をいびつに変えてきた気がするから…。

2010年3月18日

はなみずき通り

Filed under: つぶやき — toshio @ 11:24 AM
青森港のかもめ

青森港のかもめ

父 ここが東田端1丁目商店街だ。別名「はなみずき通り」ともいう。あと1ヶ月ちょっとすれば、はなみずきが両側にきれいに咲くんだ。

息子 ふ~ん。特に変わりがある商店街に見えないけどね。

父 そうだ。変わりがあるとすれば、50年近く前に、お父さんがここを歩いたことくらいだろう。しかし、あの、ご老人を見てみろ。椅子を路上に出し、朝6時半の空気を気持ちよくすうため、身体をゆったり動かしている優雅さ!悟りとはあのようなものから生まれてくるのではないか。

息子 タバコを吸っているだけのようだけど。

父 それに、あそこのご夫人。看板にあるが、鈴木工業の奥さんに違いない。自宅兼事務所だろうか。その自宅のドアを開け、いきなりポストにはたきをかけている。不景気のご時世、よい知らせが来るように祈りながら、リズミカルに動いている!庶民の願い、祈りだな。

息子 ラジカセの「きよしのズンドコ節」に合わせていると思うよ。

父 彼女には社長夫人といった気品を感じるぞ。

息子 そういえば、去年、釣りバカ日誌の映画のエキストラに出たよ。

父 ほお!

息子 鈴木建設社長のスーさんが「社長を辞めます」と社員に話すシーンで、100人くらいの社員の一人だったんだ。

父 よく背広をもっていたもんだ。

息子 朝10時から午後4時まで撮影して、待っている時間が長くて。狭いところに押しこまれるんだ。

父 それでいくらになった?

息子 2000円。それも忘れた頃になって、銀行振り込みされた。

父 なるほど、安いな…。ところで、アルバイトで、率がいいのはどんなものがあると思っている?

息子 「率」って何?

父 楽で、金になる仕事という意味だ。

息子 学生の頃、通学していた自転車のカゴにチラシが入っていて、新薬を飲んで実験室でブラブラしていれば何万円かになるという宣伝があったよ。

父 それをやってみたということか?

息子 いや。

父 自分でやってみて、これは率がいいなと思ったことはないのか?このあいだの正月にやった獅子舞の仕事はどうだ?

息子 あれはたいへんだよ。冬なのに汗が出てきて、中腰で30分も動くし、足は痛くなるし…。

父 だから、率がいい仕事があるかと聞いているんだ。

息子 そういう仕事はないね。金になればたいへんだし、金にならなくてもたいへんなことはあるし…。

父 そういう考えはすばらしいぞ!人間、率がいいかどうかを考え始めると、きりがなくなる。どんなに楽で、金になる仕事でも、もっと率がいい仕事がないかと求めるようになる。あいつのほうが、率がいい。おれは悪いと考えるようになる。そうとうな富裕層になれば別かもしれないが、ほとんどの場合、常に不平等を感じ続ける。どんどん不平等感が大きくなるんだ、ある意味、平等になるほどに、不平等感の度合いが強まる。その感覚を相対的剥奪感というんだ。率のよさ、平等を求めること、それを利己的な心情から始めると、それが回りまわって自分を食み始める…。

息子 それは東京の矛盾かなあ…。

父 だから、東田端1丁目商店街はすばらしいんだ。この人間味あふれる小さな街角に、江戸から続く人間の、庶民の智恵が残っている。それは秋葉原にはないものだ…。そう考えるとこの朝も、素晴らしいものに感じるだろう!…さて、今夜は、このやきとり屋、てる吉のレバ刺しでも食べようか!

息子 ぼくは遠慮しておくよ。…じゃあね。                               (終わり)

2010年3月8日

顔が浮かぶ

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:39 PM
春待つレンギョウ

春待つレンギョウ

 ――昭和24年9月1日、いつものように出勤した私は(総武線の)平井の駅を降りて呆然としてしまった。駅前から町は一面水につかって歩くこともどうすることもできなかったからである。私は電車の線路を歩き、中川の土手をつたって変電所の裏にゆき、大声でドナった。仲間が船で迎えにきてくれて、やっと中に入ることができたが、変電所は完全に水につかっており、調相機室には社宅の人は勿論、近所の人も避難しており、かろうじて運び込んだ畳の上に、家族もろとも小屋掛で数十名が生活していたのである――。

 
 この前日、相模湾に上陸したキティ台風は、満潮時と重なったため、関東地方に大きな被害の爪痕を残したのでした。この体験談は、亀戸の変電所に勤めていた高橋さんという電気技師が「思い出」として綴ったものです。

 このようにして、なんとか職場にたどりついた高橋さんたちのその後の活動は、過酷をきわめました。

 変電所の被害を調査して、復旧をしなければならない。しかし、堤防が決壊しているため、海抜零メートル地帯の亀戸では水が引くまで長期間かかります。避難してきている近所の住民にも必需品や食べ物を提供しなければならない。それを所員20名の労働組合の班会議を開いて、ひとつひとつ討議ながら、活動したというのです。

 仕事なのになぜ労働組合だったのでしょう。大きな被害のため、電力会社の指揮系統が停止していたのかもしれません。当時は組合活動が活発だったからかもしれません。ともかく、非常事態に対処して機能しなければならない職場の集団として、労働組合の班しかなかったのでしょう。

 社宅に住んでいない所員の時間外の勤務時間は月80時間を超えたそうです。当時、週の勤務時間は48時間でしたから、週に70時間ほど働いたわけです。社宅に住んでいる所員は、勤務場所が近いので120時間の時間外だったそうです。そうなると80時間、拘束時間を入れると90時間近くなり、「ほとんど昼夜ぶっ通しで復旧に奮闘した」と高橋さんは言っています。そののち、まもなく高橋さんは会社を退職し、神田で古本屋を開きます。キティ台風の事件から30年たった1980年、高橋さんは当時を振り返った文章をこう締めくくりました。

 ――もし、一方的な命令でやられたのなら、このような力はとても発揮できなかったと思う。(中略)亀戸変電所の生活、それはたった3年余りにしかすぎなかった。しかし今でも私の一生の中で「自分の職場」と呼べるものがあったとすれば、この中川べりの変電所であり、“働く仲間”といえば、此処で働いた人々の顔が浮かぶ。この職場で私は労働者としての自覚に目覚め、(中略)人間として一人前になっていったのである――(『町工場・スーパーなものづくり』、小関智弘、ちくま文庫版、P34‐37からの孫引きです)

 台風、地震などの天災。戦災や石油ショックのような人災。人はいつもと違う事態におちいることがあります。非常事態を生き延びるため、人は力を合わせます。他人のために昼夜を通して働くこともあるでしょう。そして、共同して行った利他行為は仲間の「誇り」や「名誉」になります。誰かに評価される誇りではなく、その仲間が共有した記憶にある誇りです。

 わずか3年であっても、共同した利他行為の経験は、人を一人前にし、一生の宝としてその人を導いてくれまるのですね。

 非正規雇用、派遣労働の制度がもたらした社会に対する被害とは、若者の生活の安定や収入を奪ったばかりでなく、人が人としての宝を得る機会の喪失ではなかったか、高橋さんのお話はそのことに気づかせてくれます。

 私たちがいま創らねばならないもの。それは誇りをもちながら「自分の職場(場所)だったなあ」と、振り返ることのできる人間関係と価値世界と、それを支える記憶の仕方ではないでしょうか。

2010年3月3日

生活の重み

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:19 PM
子守1958年

子守1958年

 昭和22年から25年、盛岡市に住み、古着の行商で北岩手の村々を回った大牟羅良さんという方がいます。大牟羅さんは次のように当時の農村の様子を描いています。

  ――正月も過ぎて、まだ雪の深い季節でした。木の根っこがポカポカ燃えているいろりに、暖をとらせてもらいながらの世間話で、「このころは何時に起きているす?」ときいてみました。

 「四時半頃でがんす」

 「そんなに早く起きないと、間に合わながんすか?」

 「なァに、六時に起ぎでも、間に合うのす、だども、あたりほとりの家ァ、早く起きで雨戸っコあげるのでなス」

 こういうことで、早く起きて雨戸をあけるというのでした。

 「では雨戸をあけてまた寝ていたらよがすんべ」

 「そうはいがながんす。煙っコ立でねえと、雨戸っコあげでて、また寝でるべと思われんべス」

 こんなことでした。――

(岩波新書、ものいわぬ農民、1958年、P70) 「世間体」と小見出しのついたエピソードです。

 ここには、ヨメは姑に遠慮し、隣家に気遣い、大家・分家のしきたりがあり、地主と小作の関係を引きずる当時の農村がしっかり存在しています。(私は昭和26年、岩手県で生まれました。ちょうどその頃の地域のありようだったのでしょう。)

  教員夫婦の12人兄弟の6番目として育った大牟羅さんは、親の転勤のため転々として生活。そして、17歳に代用教員、やがて教師になり、29歳満州にわたりました。召集され、沖縄戦で終戦を迎え、岩手に帰ったときには37歳になっていたそうです。

 大牟羅さんは農村で暮らしたのですが、農民の暮らしとは肌をふれないまま成人したのでしょう。そのため行商で話しながら、小さなエピソードから暮らしのなかの仕組みを理解していったのです。

  ――私の足はどちらかというと、山村に向きがちでした。それは顔見知りに出会いたくないという気持ちと、また農村景気に湧き立っている(盛岡)都市の近郊農村に、貧しい者としての反発があったからのような気がします。…古着を背負って駅に下りると、私は今日どこへ足を向けようかと迷う。見はるかす北上山脈の山なみがつらなっている遥かに目をはせる。今日はあの山襞の中に入ってみようかと思う。売れるか売れないか皆目見当がつかない…こんなことで、行商のはじまりには、何の目当もなく奥地へ奥地へと行ったのです――(P43-44)

  戦後の食糧難の時期、都市住民は農村に食料を求めました。近郊農村は特に景気が良かったのでしょうが、山村にもそれなりの影響はあったのでしょう。仕事を得られない大牟羅さんは、「農村契機」を当てにしつつ、なれない古着行商を始めたのでしょうが、40歳近くになっていた彼が、元教員がの彼が「顔見知りに出会いたくない」と思う気持ちはわかります。

 大牟羅さんは、農村を研究したわけではありません。調査したり、何かの理論を実証したりするためのフィールドワークではありませんでした。興味本位のルポでもありません。同じ岩手で生きているのに暮らし方が違ったため、その落差を心の奥でしっかり受け止めようとしただけなのです。

 大牟羅さんは4年の行商を終え、昭和33年に県国民健康保険団体連合会の機関紙『岩手の保健』の編集に携わるようになりました。編集の仕事も初めてでした。通り一遍の機関紙に仕上げることもできたでしょうが、彼は真摯に取り組んだのです。

  ――県内の書いてくれそうな目ぼしい人、また県にゆかりのある在京人にも原稿依頼の手紙をせっせと書きました。こうして集まった原稿、それは…よくまとまった原稿でした。しかし、行商生活で農村を歩きまわった私には、農民に訴える雑誌として、如何にもそらぞらしいものに思えてなりませんでした。――

 ――もっと農民に身近なもの、それは何か…それは私が行商の旅できいたいろり端の話…それは言葉のやりとりですから、まとまった話というより、きれぎれの言葉が多いのです…それはどんな言葉か?と聞かれても、ちょっと抽象的には言えないのですが…「体の疲れは寝ればなおるが、気持ちの疲れは寝でもなおらねぇす」…また時計が止まっているのを「時計稼しぇがせろ!」と言う言葉、そういう言葉です。――

 ――つまり日頃の生活の重みが体にしみこんでいて、それがふっと口をついて出たような言葉だと言ったらよいでしょうか…私はそのようなくらしの声をこそ数多くとり上げ、それを土台に農民の生活を考え合ってゆかねばと思ったのです。なぜならそういう言葉の背後には、その言葉に対応する生活があるのですから――(P118-119)

  なんといい言葉でしょう。「生活の重みが」「ふっと口をついて出たような言葉」の「背後に(は)対応する生活がある」という見方。それはいまも、しっかり生きている見方だと思うのです。私たちは2010年にいますが、つい60年前ほど、このような社会が私たちのすぐそばにあったのです。いまは物と情報があふれ、このような貧しさは想像ができなくなりましたが、社会の「問題」や「課題」は古い世界としっかりつながって、いまもあります。それに、何を良しとして、何を悪いとするか、その目印もまた古い時代につながっているのです。

 見方と価値は古い時代につながり、モノと情報が時代の連続性を断ち切っているところに、いまの私たちの不幸があるように思えてきます。

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