なんとなくサンネット日記

2009年12月31日

Sさんへの手紙 №2

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:33 PM
ひいらぎの花言葉には用心も

ひいらぎの花言葉には用心も

 メールをいただきました。貴兄のメールにはこのように書かれていました。

 「自立支援法になってから、…ケースマネジメントだの、自立しない(自立支援協議会)だの、(名前だけの)当事者参加だの、「形式」が整えられてしまい、…やっていた実践が見失われ、実践者も今、自分たちが行なっていることの「不自由さ」に気づけなくなっています」。

 自立支援法が内包しているもの…システム、考え方、専門性などが、各地の活動をよい方向にではなく、そうでない方向に向かわせる促進力になっている。貴兄は、そう考えているようですね。よくわかります。

 さらに、貴兄は、自立支援法の問題(形式・不自由さ)を突き抜けたむこうに、「生命」とかかわる福祉の実践活動、その根源的な意義を考えていらっしゃるようです。これは、おおきな、そして大切な問題です。

  おおきな問題にここでふれることはできませんが、自立支援法の表面的な変化について、とりあえず考えていること、気がかりなことを述べておこうと思います。

 ■かつて「公正な社会」がキーワードだった

 ところで、この分野、精神医療・福祉の地域活動に私がかかわり始めたのは、30年以上前のことです。この30年間、私を支えたのは、精神病を病んだ人たちが、他の人たちと同じように、町に住み、気持ちよく暮らせるような地域社会になってほしいという「願い」でした。社会的公平さへの希求が、私の原動力でした。この時代、この種の活動は手弁当が当たり前。稼ぎや儲けなど望むべくもなく、だからこそ、かかわる人たちが熱い思いだけで活動するのが「普通」でした。

 かかわる人たちは、政治的背景のある人、宗教的な動機のある人、既存の医療職にあきたらない人…個々に自分の立場をかかえていました。立場の違いによって衝突もありましたが、病者も、かかわる人も、その他の人も含んだ「われわれ」の未来、公正な社会の実現を夢見ていたのです。

 だから、集会の終わりに、参加者が肩を組んで、革命歌「インターナショナル」を歌うのは珍しくありませんでした。クリスチャンの参加者が「この歌は何ですか? 賛美歌のようですね」と言ったりしていたのです。

 大きな声はあげなくとも、地域の病者とともに活動の拠点を地道に運営する人たちがいました。かかわる健常者も参加する病者も、ともに貧しさを分かち合っていました。

 ■80年代半ばから施策の展開

 地域精神保健福祉の施策が展開されるようになると、現実的な対応が求められるようになりました。それぞれのグループ・個人はそれぞれの立場・態度をはっきりさせなければならなくなりなした。また、施策の展開を機に、新しい活動グループがどんどん生まれました。70年代からの活動グループの全体に占める割合はほんとうに少なくなりました。

 実現したい社会の共通イメージは、「インターナショナル」ではなくなりました。実際的な地域ネットワーク、新しい拠点としての作業所作り、行政職員もまじえた研究会、市民向けの集会…具体的な課題が目の前に広がったのです。病院や社会福祉法人は社会復帰施設を立ち上げ始めました。

 活動は多様になり、それぞれの活動が実践を重ねると、自分たちの持ち味を特化しました。専門家の専門性を強調するグループ、当事者の社会活動を展開するグループ、支援技術を研究するグループ…。さらに、障害者プランからの10年ほど、地域によってはある種のバブルのような状況にもなりました。

 画餅のようになり、お題目になっていたかもしれませんが、それでも、社会に公平さを望む実践でありたいというのはある程度共有されていたと思います。

 ■公正=個人の欲望か

 自立支援法は2006年に施行されました。地域活動は、契約・個人が受けるサービス・選択といった考え方に、分解され、還元されました。「お客様は神様です」という考え方もまことしやかに語られるようになります。社会に公平さを求める姿勢は一変したのです。

 施行された頃、市場原理・競争・成果主義が謳われていましたから、個々人の満足度が競争的に高まっていけば、「おのずと公正な社会に向かうだろう」ということだったのかもしれません。しかし、これでは「公正な社会」は個人の欲望の中に存在しているということになります。

 サンネットは、長年、オープンスペースを運営してきましたが、2007年に自立支援法の事業所を立ち上げました。「それでは、サンネットは公平さを希求しなくなり、サービス提供に専念するように転換したのか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。

 事業所を立ち上げて2年。むしろ、素朴に公平さを求める雰囲気が、以前より生まれている気がします。ここにはサンネットの特殊事情があります。オープンスペースであったため、利己的個人主義が時代に先駆けて立ちあらわれたが、事業所になり、逆に、個々の思いを互いに受けとめるようになったという事情があるのです。

 ■もう一度、出発に戻って

 精神病のかなり多くの人にとって、公平で、率直で、明るい日常的な人間関係というものは、水や空気のように必要だと思います。そのためには、特別な「お客様=神様」を生みだす努力ではなく、「公正さ」「公平さ」を感じあう、身近な関係を生み出す互いの努力が、活動の基礎にしっかり位置づかねばならないでしょう。

 公平さをなぜ求めるか。その行動の始まりは、公平を求める欲求にあるのではなく、不公平に対する嫌悪にあるといいます。そうであるなら、個人的な欲望によって公平さが獲得されるというイメージはかなり間違っているといっていいでしょう。他者との関係のなかで引き起こされる不公平を回避したいという欲求によって、その結果、公平さが実現するというイメージが現実的なようです。これは私の今までの経験とも合致する気がします。(http://www.tamagawa.ac.jp/brain/news/091224.html) 

 不公平に対する嫌悪が、公正で公平なコミュニティを実現する原動力であるということは、身近なところで起きる不公平な事象とそれに対する個人感覚が、ことの出発だということです。それはたいへん興味深いことです。さらに、獲得したいという欲望なら、対話を回避し、秘密裏に獲物に接近することもありますが、関係上の不公平を回避したいこの種の欲求は、その性質上、他者との対話は欠かせないという点もおもしろいところです。

 市場原理的・利己的個人主義な自立支援法のもと、だからこそ、そこに抗し、個々の事業所で、地域で、不公正や不公平を回避し、公正さを実現しようという営みが求められているように思えてきます。自立支援法システムを超えるためのキーワード、それは、身近な関係、不公平の回避、対話による関係、になるのでしょうか?

 Sさんのメールへのきちんとした返信にはなっていないかもしれません。でも、これからも、共に考え、刺激しあえる関係でありたいと思います。そのような願いを込めながら、新しい年を迎えたいと思います。よい年でありますように。

2009年12月22日

ダブルバインド2010 №1

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:49 PM
カラスも散歩

カラスも散歩

 「コミュニケーションの二重拘束」ともいわれるのですが、「ダブルバインド(double bind)」という言葉があります。文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンが、複数の精神科医とともに1950年代に提唱した理論で、当時の学習理論(情報・コミュニケーション理論)です。統合失調症の家族にインタビュー調査をし、患者をめぐって現われるコミュニケーションに注目して、理論はつくられました。

 次のエピソードは有名です(表現は原文のまま)。

 ――強度の分裂病発作事件からかなり回復した若者のところへ、母親が見舞いに来た。喜んだ若者は思わず彼女の肩を抱いたが、すると彼女は身をこわばらせた。

 彼が手を引っ込めると、彼女は「もう私のことが好きじゃないの?」と尋ね、息子が顔を赤らめるのを見て「そんなにまごついちゃいけないわ。自分の気持ちを恐れることなんかないのよ」と語ってきかせたのである。

 患者はその後ほんの数分しか母親と一緒にいることができず、彼女が帰ったあと、病院の清掃夫に襲いかかったため、冷水浴を施された――(元は1956年の論文。『精神の生態学』G・ベイトソン.邦訳1986年)

  このエピソードは、母親が加害者(強者)であり、息子が被害者(弱者)という構図が下敷きにあります。母親は息子に愛情を示せないか、示すことに深い抵抗があるのですが、彼女はそのことを認めません。母のそのようなためらいを、息子は知っているので、母が身をこわばらせたとき、そのしるしであることをすぐ理解したのです。しかし、彼の理解は母の「私のことが好きじゃないの?」という言葉で否定されてしまいます。さらに、好きじゃないのは母親の側であるのに、彼が好きじゃないように逆転してしまいました。

 彼の率直な反応(顔を赤らめる)は戸惑いに変わったことでしょう。それなのに「そんなにまごついちゃいけないわ…」と母親はたたみかけ、彼の戸惑いすらも否定されたのです。被害者である息子は、いかなる行動も否定され、行き場を失った彼の精神は本人自身を蝕んだ…のでした。

 ダブルバインドは、精神保健関係の試験などでは、もうお馴染みの言葉です。この理論は、もともとの論文でも母親原因論のように表現されていました。発表以降、さらに、家族内に原因を求める実践アプローチが行われ、「加害者探し」のようだと大きな反発を受けました。しかし、70年代になると、人間のコミュニケーション全般の理解として再評価されるようになりました。

 ダブルバインド理論は、人間のコミュニケーションというものが機械的なものではないこと、言語上のメッセージと非言語のメッセージが衝突し、表面上のメッセージをさらに暗黙のメッセージが否定するといったダイナミックな過程であること、その結果、きわめて窮地に立たされる人々がいること、そういったことを描き出してくれた意義は大きいと思います。

  さきのエピソードの母親の行為を別の見方から眺めると、「嘘」と「秘密」にいろどられていることに気がつきます。「愛情を示せない母親という事実」は、親子の秘密である気がします。そして母の言明はいずれも「嘘」です。そして、「嘘」を嘘といってはいけない「秘密」も共有しているのかもしれません。

 「嘘」と「秘密」が巷にあふれている現在、ダブルバインドはいたるところで生まれているのではないだろうか、私は気になっているのです。ダブルバインド理論は、新たな分野で、新たな展開をまっているのかもしれません。だから「ダブルバインド2010」の可能性があるのではないでしょうか。

2009年12月19日

第三の目

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:33 PM
雪のお地蔵さん

雪のお地蔵さん

■スリランカ出身の仏教徒、アルボムッレ・スマナサーラ氏の話を初めて聞いた。18日早朝、NHKラジオ深夜便のコーナー「心の時代」で、「怒らない生き方」という題で語ってくれた。

 ■スマナサーラ氏は上座部仏教の長老であるというが、私は「上座部仏教」という言葉を初めて聞いた。大乗仏教という言葉は知っている。インドから中国・チベットに渡り、日本に伝播したのは大乗仏教だ。その一方、タイ、ミャンマー、スリランカに渡った流れがあり、大乗仏教のという言葉に対して、かつては「小乗仏教」と呼んだ。いまはこのような呼び方はせず、上座部仏教というそうである。

あとで知ったが、スマナサーラ氏は、長年日本で上座部仏教の教義や瞑想の普及に大きな役割をはたした方で、数多くの書籍があり、師事している人たちも数多くいる。

 ■何がおいしい食べ物か、それはその本人しかわからない、ということからスマナサーラ氏の話が始まった。人間ばかりでなく動物もそうだ。何が食べ物か、食べられるものか、何がおいしいか、それは自分で決め、その考えが正しいということも決めているのだ。そして、そこに「怒り」も入り込んでいる、という。「食べ物」、ある物が食べ物だと思う自分の「意識」、そう思う自分の意識が正しいと思う「信念」…そういった自分の奥深くにある仕組みに「怒り」もきちんと組み込まれている、という。(確かにそうなのかもしれない、とぼくは思う)

 ■「怒り」は人間の奥深くにセットされているから、簡単に伝染する。生徒が怒れば、先生も怒る。楽しく過ごしたい学校が、怒りの伝染した場所になる。それは家庭も、職場も同じ。楽しい場にするためには、怒りがなくなればいいがそうは簡単にいかない。(相手の気持ちを考えればいいのですか?とアナウンサーが聞いた。するとスマナサーラ氏は「第三の目を持つことですよ。」と答えた!)

 ■そうか!第三の目か。自分を見る目でもなく、他人が自分を見る目でもない。怒り、乱暴な言葉を投げかけあっている二人を見る目。相手の立場にも立たない。自分の感情にとらわれる目でもない。もう一つの目…。そうかもかもしれない。食欲、生存に関与した「怒り」であるから、そこから脱出するには、高次の目(意識)が必要なのだろう。これには考えさせられる。

 ■「怒り」すら抑圧されてきた人が、「怒ることができて人間であることを感じた」という人がいる。それにも強いリアリティを感じる。「怒り」が抑圧されたとき、それは人間以下、動物以下の立場に置かれたのだろう。しかし、「怒り」は解放されたが、「怒り」にとらわれてしまっているのなら、動物とそう区別されない人間だろう(いや、動物に失礼か?)。さらに、そのとらわれから解き放されたとき、人間は動物以上の存在になれるのだろうし、そこに第三の目が関与するのか…。そう思いながら、眠ってしまった…ZZZ。

2009年12月15日

たな卸し moral inventory

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:01 PM
雪の中の小学生

雪の中の小学生

 最近、電話で、同期のT君と話した。彼の声を聞いたのは12年ぶりだ。

 最後に1997年3月に会った、彼は電話でそう話した。そうか!ぼくが、家族で岡山から青森に移り住むため、軽乗用車で移動していた時だ。途中、東京で2,3日間滞在したが、そのおり、彼と会っていたのか。その記憶はぼくの中から消えていた。

 当時、ぼくはほんとうに寄る辺ない状態だった。仕事も住むところも決まっていなかった。彼はまだ職場で働いていた。彼と会っても、自分の生活の不安定さを再確認し、それで記憶を抑圧することにしたのかもしれない。いっしょに食事をしたことはほとんど覚えていなかった。言われてみると、横浜の寿町、栄和荘近くの食堂で何か食べた気もするが、記憶の捏造かもしれない。

  彼とぼくは福祉職の同期。同じ現場で働いたことはないけど、何かと近い距離で過ごした。ぼくは24歳の新卒就職、彼は転職の26歳だった。ぼくは42歳で退職し、彼は51歳で退職している。

 97年に会った何年かのち、彼の退職を、風の便りで聞いた。かつての仲間、友人たちが、早期退職し、あるいはなくなったことを聞くたび、さみしい気がしていたが、彼までやめてしまうとは…。かつての職場はぼくを気にしていないだろうが、ぼくはときどき気にしていた。

 4年ほど前から、彼の噂も届かなくなると、どうしているか気になり始め、この秋、その思いがいよいよ募り、行動を起こすことにした。知人にはがきを送り、電話やメールをした。やがて彼の居所がわかった。

  ――仕事をやめて2,3年ぶらぶらしていて、思うところがありまして、たな卸しをしたんです――。いつ辞めたのかというぼくの質問に答えながら、彼はそういった。福祉職のとき、彼はアルコール依存症者の回復プログラム、AAに長年かかわっていた。「たな卸し」というのは、AAのプログラム=12ステップの一つのことである。

 第4ステップ 探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。

第5ステップ 神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。

  アルコールから回復するプロセスで、自分の過去と向き合う。それは恐ろしい。数多くの失敗があり、多くの人を裏切り、傷つけた過去と向き合うなんて。このたな卸しという作業が、回復する上での大きな課題なんだ。そのように、アルコールの人がよく語っていた。

 依存症の人ばかりではない。誰にとっても過去と向き合うことはつらく、避けたい。記憶は隠され、つくられる。心の奥深くに沈み、影のような静かな存在になる。また、別の物語が生み出され、華麗だが怪しげな舞台も用意される。記憶は柔軟に変形するのである。したがって、私たちが真に逃れられないのは、過去ではない。ぼくたちがとらえられているのは、記憶を変形加工している「自分」なのだ。こわいのはその「自分」と向き合うことだ。

  T君はたな卸しをやり遂げた。ぼくはそのことをうれしく思う。中国地方の小さな町に住むT君。どのような町でどのように暮らしているのだろうと想像しつつ、彼を誇りに思う。電話から4日たち、彼からのハガキが届いた。

 ――鍼灸、マッサージ、リハビリの仕事を出張専門で開業し、高齢者、障害者の方の家を訪問し、患者さんと自分のペースでゆったりと仕事をしています――。これもまたうれしかった。

2009年12月9日

引き下げデモクラシー

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:14 PM
柳も師走

柳も師走

 「1990年代の初め頃から、長らく日本人の生活を支えてきた官僚主導体制の機能不全が露わになった」。宮本太郎の『生活保障』(岩波新書.2009年)の出だしだ。90年代初め、バブルとその破綻の時期…たしかにおかしな時代だった。

 ある深夜、横浜スタジアムの近くでタクシーに乗ると、おきつる会館近くのタクシー会社だった。ぼくが帰宅する方向と同じ。車内で運転手と会話が始まった。というか、ドライバーが調子高く勝手に話した。そのうち、ドライバーの彼が、えらく高価な酒を関内の高級店に入れているという話をする。「え!あの地域の社員が、どこかの高級店?」とぼくは胸の中で驚く。下町も山手もなく、高級公務員もタクシードライバーもなく、みながどこかさみしく浮かれていた時代だった。

 また、ある朝、ビル街に延々と続く行列が現れた。ぼくは何ごとが起きたのだろうと思ったのだが、それは宅建試験の受験者だった。「えっ!タッケン?なにそれ?」。ぼくの意識はそんなものだったが、これも同じ頃のことだと思う。

 そのバブルが破綻した。92年頃から野宿者が増加した。上流で大雨があり、川がぐんぐん水かさを増すように、ホームレスは増え続けた。年配者だけでなく若手が増えていく。アルコールなどの問題をかかえた日雇い労働者だけではなくなった。この前までパチンコ店で住み込んでいた夫婦、かなり専門のとび職人、まじめそうな建築片付け仕事をする若者、ネクタイをしている人…。昨年の派遣切りのような風景がその頃から始まった。

 日本の金融会社は破綻し、不良債権に悩まされた。不動産に投資していた都市銀行の行員が自己破産した。そしてリストラ…。
宮本氏のいう官僚主導体制とは、業界・官僚・政治の「鉄の三角形」を官が束ねるという体制のことである。その三角形が、社会・経済をコントロールできなくなっていたのだ…。

 宮本氏は続けて次のようにいう。
 「2000年代に入ると第二の局面が本格化する。官僚支配を一掃し社会に活力をもたらすことを謳って、構造改革路線がおしすすめられるようになったのである。人々は、いったんは「自民党をぶっこわす」という改革イニシアチブに期待した。だが、すでに痛んでいた制度をさらに解体しただけで、それに代わる仕組みを何一つつくらなかった。その結果、貧困と格差が至るところで広がり、人々の生活不安はいっそう強まった」。
この25年間、自殺者数は、意外なことにバブルが破綻した91年、92年がもっとも少ない。1998年から、突然8千人以上も増加し、年間3万人以上の自殺者数となった。今年も3万人越えそうで、そうなると連続12年。ぼくたち日本に住む者は、数多くの自殺者を生み出す不機嫌な時代を共有してきた。

 氏の着眼点は次の点にある。
 ――1990年代からの一連の変化によって、日本社会の生活を守る仕組みが壊れた。日本型雇用システムの上に、社会保障が成り立っていたのに、その雇用システムが大きくゆらぎ、壊滅した。だから、いま求められているのは、雇用システムと社会保障システムを連動し、新しい社会の仕組みを構想することである――。だから、社会保障ではなく、「生活保障」という概念を提示しているのであった。

 著書にはいろいろ興味深い論点があったが、ぼくの関心をひきつけた、一つの挿話が220頁にある。
 2008年のOECDの世界価値観調査で、「貧困がなぜ生じるか」という質問に各国の人はどのように答えたかという話があった。アメリカやオーストリアのアングロサクソン系は「個人の怠惰」にあると答える人が多く、ヨーロッパは「社会の不公正」が多いという。
 日本はどうなのかというと、アングロサクソンともヨーロッパとも韓国とも異なって、「社会の不公正」を上げる割合が最も少ないことだ。そして「わからない」が比較的多く、アングロサクソン系についで「怠惰」が多い。この調査における日本社会の世論の方向軸は見出しにくい。宮本氏はこの結果について次のように指摘する。
 ――人々は途方にくれていると言ってよいであろう。原因が定かでない不安が広がると、「公務員の既得権」「特権的正規社員」「怠惰な福祉受給者」等々、諸悪の根源となるスケープゴート(いけにえ)をたてる言説がはびこり、人々の間の亀裂が深まる…そして「引き下げデモクラシー」が横行する――。

 引き下げデモクラシーとは、現実をしっかり検証するという態度ではなく、やみくもに特権や保護を叩き、これを引き下げることで政治的支持を広げようとする言説であるという(同書28頁)。

 もともとは丸山真男の言葉だそうだが、なるほどそうだろうと思う。まっとうな論拠をもっているかのように見せかけつつ、一方的な論旨で、強引な攻撃をしかけては、いけにえ作りをする言動。そのようなものはよくあるが、社会をつくりあげる創造力にはなっていない。多くの人の知恵と力でつくりあげた価値を、自分勝手に使い込んで、全体を引き下げているのだ。辛口批判のようなポーズをとりながら、実は自己の権益に執着する…。この20年、日本社会にはびこったのは、不安と、それに乗じて広がった構想力を欠いた引き下げデモクラシーだ…。おそらく、引き下げデモクラシーと格差社会は同じ根をもっているはず。

 もうすぐ2010年代が始まる。後世、この10年代が、引き下げデモクラシーの終焉だったといわれたいとつくづく思う。

2009年12月5日

出会い

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:02 PM
栗原清右衛門(プロレタリア哀愁劇場から)

栗原清右衛門(プロレタリア哀愁劇場から)

 11月26日に「取りつくシマ」をアップしたのですが、その数日後、記事のなかでふれたオイちゃん本人からメールをいただきました。

■根本さん こんにちは!
 オイちゃんです。いやあー、奇遇です。なんなんでしょうか。
 ふとなにげなくインターネットで『プロレタリア哀愁劇場』と検索したら、サンネット日記に辿り着きました。ブログにはコメントできないようなのでメールします。

 私もときどき、『プロレタリア哀愁劇場』の世界のこと思い出します。高度成長期、揚野さんの言葉を借りれば、仕事も遊びだ! という怒涛の時代に生きていたアナーキーな人々…なつかしくもあり、せつなくもありです。
 おきつる会館で公演した時にいろいろと協力してくれた方々も、同じ匂いがした人たちでしたね。いまでもお付き合いはあるのでしょうか。
 来年、チンチン電車内での演劇を全国8ヶ所で予定しています。何かのためになるか、ならないか、取りつくシマのないエンゲキをこれからも続けます。いつか青森でも公演をさせてください。
あと、、、私が演ったのは寺中ではなく、暴力手配師の清右衛門です!

モケレンベンベ・プロジェクト
http://www.rr.iij4u.or.jp/~mokele/

■メールをいただき、こんなこともあるのだなあとびっくりです。ぼくが「プロレタリア哀愁劇場」を取り上げたのは、11月21日から23日まで福祉関係の研修があって、その場でもふれられた「利用者(障害者)中心」という言葉が気になったからです。いま、日本的個人主義が広がっているのですが、それは人びとの連帯をつくる方向ではなく、断ち切る力になっているとぼくは危惧しているのです。その流れとこの「利用者中心」という言葉が重なっていると感じ、考えさせられました。連帯、民主主義、権利、地域…あれこれ思いをめぐらせていたら、「プロレタリア哀愁劇場」のことが頭に浮かんだのでした。そして書き込んだのです。
オイちゃんは「あの頃、どこの場所で公演をやったのかな」と思って、ある夜(?)、検索していたそうです。そしてサンネット日記に出会ったのです。別々の暮らしと思いから、20年前の「プロレタリア哀愁劇場」に出会うなんて、いいですね。

 ぼくは、おきつる会館で開催した正確な日付を思い出そうと、本棚から古いスケジュール帳を引っ張り出し、手繰ってみました。1988年7月16日。思い出すと、おきつる会館の公演の前に、沖縄民謡の演奏と沖縄舞踊もありました。それは県人会の方々のご協力でした。さらに公演が終わってからいただいた沖縄ソバのおいしかったこと。
 写真は劇のパンフレットの一部のイラストで、オイちゃんの栗原清右衛門です。さて、来年はオイちゃんの「取りつくシマのないエンゲキ」にめぐりあいたいものです。

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