
ひいらぎの花言葉には用心も
メールをいただきました。貴兄のメールにはこのように書かれていました。
「自立支援法になってから、…ケースマネジメントだの、自立しない(自立支援協議会)だの、(名前だけの)当事者参加だの、「形式」が整えられてしまい、…やっていた実践が見失われ、実践者も今、自分たちが行なっていることの「不自由さ」に気づけなくなっています」。
自立支援法が内包しているもの…システム、考え方、専門性などが、各地の活動をよい方向にではなく、そうでない方向に向かわせる促進力になっている。貴兄は、そう考えているようですね。よくわかります。
さらに、貴兄は、自立支援法の問題(形式・不自由さ)を突き抜けたむこうに、「生命」とかかわる福祉の実践活動、その根源的な意義を考えていらっしゃるようです。これは、おおきな、そして大切な問題です。
おおきな問題にここでふれることはできませんが、自立支援法の表面的な変化について、とりあえず考えていること、気がかりなことを述べておこうと思います。
■かつて「公正な社会」がキーワードだった
ところで、この分野、精神医療・福祉の地域活動に私がかかわり始めたのは、30年以上前のことです。この30年間、私を支えたのは、精神病を病んだ人たちが、他の人たちと同じように、町に住み、気持ちよく暮らせるような地域社会になってほしいという「願い」でした。社会的公平さへの希求が、私の原動力でした。この時代、この種の活動は手弁当が当たり前。稼ぎや儲けなど望むべくもなく、だからこそ、かかわる人たちが熱い思いだけで活動するのが「普通」でした。
かかわる人たちは、政治的背景のある人、宗教的な動機のある人、既存の医療職にあきたらない人…個々に自分の立場をかかえていました。立場の違いによって衝突もありましたが、病者も、かかわる人も、その他の人も含んだ「われわれ」の未来、公正な社会の実現を夢見ていたのです。
だから、集会の終わりに、参加者が肩を組んで、革命歌「インターナショナル」を歌うのは珍しくありませんでした。クリスチャンの参加者が「この歌は何ですか? 賛美歌のようですね」と言ったりしていたのです。
大きな声はあげなくとも、地域の病者とともに活動の拠点を地道に運営する人たちがいました。かかわる健常者も参加する病者も、ともに貧しさを分かち合っていました。
■80年代半ばから施策の展開
地域精神保健福祉の施策が展開されるようになると、現実的な対応が求められるようになりました。それぞれのグループ・個人はそれぞれの立場・態度をはっきりさせなければならなくなりなした。また、施策の展開を機に、新しい活動グループがどんどん生まれました。70年代からの活動グループの全体に占める割合はほんとうに少なくなりました。
実現したい社会の共通イメージは、「インターナショナル」ではなくなりました。実際的な地域ネットワーク、新しい拠点としての作業所作り、行政職員もまじえた研究会、市民向けの集会…具体的な課題が目の前に広がったのです。病院や社会福祉法人は社会復帰施設を立ち上げ始めました。
活動は多様になり、それぞれの活動が実践を重ねると、自分たちの持ち味を特化しました。専門家の専門性を強調するグループ、当事者の社会活動を展開するグループ、支援技術を研究するグループ…。さらに、障害者プランからの10年ほど、地域によってはある種のバブルのような状況にもなりました。
画餅のようになり、お題目になっていたかもしれませんが、それでも、社会に公平さを望む実践でありたいというのはある程度共有されていたと思います。
■公正=個人の欲望か
自立支援法は2006年に施行されました。地域活動は、契約・個人が受けるサービス・選択といった考え方に、分解され、還元されました。「お客様は神様です」という考え方もまことしやかに語られるようになります。社会に公平さを求める姿勢は一変したのです。
施行された頃、市場原理・競争・成果主義が謳われていましたから、個々人の満足度が競争的に高まっていけば、「おのずと公正な社会に向かうだろう」ということだったのかもしれません。しかし、これでは「公正な社会」は個人の欲望の中に存在しているということになります。
サンネットは、長年、オープンスペースを運営してきましたが、2007年に自立支援法の事業所を立ち上げました。「それでは、サンネットは公平さを希求しなくなり、サービス提供に専念するように転換したのか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。
事業所を立ち上げて2年。むしろ、素朴に公平さを求める雰囲気が、以前より生まれている気がします。ここにはサンネットの特殊事情があります。オープンスペースであったため、利己的個人主義が時代に先駆けて立ちあらわれたが、事業所になり、逆に、個々の思いを互いに受けとめるようになったという事情があるのです。
■もう一度、出発に戻って
精神病のかなり多くの人にとって、公平で、率直で、明るい日常的な人間関係というものは、水や空気のように必要だと思います。そのためには、特別な「お客様=神様」を生みだす努力ではなく、「公正さ」「公平さ」を感じあう、身近な関係を生み出す互いの努力が、活動の基礎にしっかり位置づかねばならないでしょう。
公平さをなぜ求めるか。その行動の始まりは、公平を求める欲求にあるのではなく、不公平に対する嫌悪にあるといいます。そうであるなら、個人的な欲望によって公平さが獲得されるというイメージはかなり間違っているといっていいでしょう。他者との関係のなかで引き起こされる不公平を回避したいという欲求によって、その結果、公平さが実現するというイメージが現実的なようです。これは私の今までの経験とも合致する気がします。(http://www.tamagawa.ac.jp/brain/news/091224.html)
不公平に対する嫌悪が、公正で公平なコミュニティを実現する原動力であるということは、身近なところで起きる不公平な事象とそれに対する個人感覚が、ことの出発だということです。それはたいへん興味深いことです。さらに、獲得したいという欲望なら、対話を回避し、秘密裏に獲物に接近することもありますが、関係上の不公平を回避したいこの種の欲求は、その性質上、他者との対話は欠かせないという点もおもしろいところです。
市場原理的・利己的個人主義な自立支援法のもと、だからこそ、そこに抗し、個々の事業所で、地域で、不公正や不公平を回避し、公正さを実現しようという営みが求められているように思えてきます。自立支援法システムを超えるためのキーワード、それは、身近な関係、不公平の回避、対話による関係、になるのでしょうか?
Sさんのメールへのきちんとした返信にはなっていないかもしれません。でも、これからも、共に考え、刺激しあえる関係でありたいと思います。そのような願いを込めながら、新しい年を迎えたいと思います。よい年でありますように。