2009年11月26日
取りつくシマ
1988年だったと思うが、おきつる会館で黒色テントの『プロレタリア哀愁劇場』を上演したことがある。前の年、黒色テントの演劇ワークショップに参加して、仲良くなった勢いで、企画したものだ。当時、ぼくは精神障害者の作業所を立ち上げていて、関係者だけの作業所ではなく、もう少しひろがりをもった支援関係が生まれないかと思っていた。この企画はそんなことも期待したものだった。
『プロレタリア哀愁劇場』は揚野浩・原作、山元清・脚色。
舞台は博多港。昭和40年代の港湾労務者(劇内の表現)と庶民の暮らし。寺中君は港湾労務者として肩で風を切って生きている。寺中君はこんな風に自分を描いていた。
「私は濃いスネ毛をナギ倒して三日月印の地下袋(ママ)をはき、白地に乱菊模様のステテコ、同じ模様の七部袖を着てさっそうとこの港に出陣してきたのだが、考えてみると、体全体に迷彩をほどこしたかにみえる私の人相、風態(ママ)、どこからみても尋常ではなかった。」
そんな寺中君の前にいろいろな人が登場する。暴力手配師の清右衛門。米兵あがりのカークランド。そして身体障害がある富良吉。この富良吉が不思議な人物だ。他者と話せば、まるで知的障害者のようであり、歩く姿は脳性マヒ者のようだが、付き合うとどこか神様のようにも思えてくる。
寺中 今度は歩くたびに肩をがっくんがっくんと上下させている富良吉に話しかけてみるのだが、お前は今日までどんな仕事をやって生き延びてきたんだ。
富良吉 イヤア。最初は配管屋の請け掘りをずいぶんとやったなあ。請け掘りというのはめいめいスコップで地面を掘ってみて、各人が掘った長さと深さによって帰りの賃金が違うのでげす。だから請け掘りというのでげす。
寺中 次は?
富良吉 イヤア。あたしは小倉工廠時代に右足を患ってしまってあそこをクビになっちまったからなあ。
寺中 ふーん。なんだか取りつくシマのない思いがする。
当時、この「取りつくシマのない思いがする」という台詞が好きだった。富良吉との会話はどこかずれる。けど、そのズレを富良吉の側、能力や態度などの問題として押し付けない。寺中のかかわり方としてとらえているけど、自分を責めるわけでもない。淡々と語るその口調に魅力を感じたものだ。(なお、小倉工廠とは戦前の軍需工場のこと。だから戦前から穴掘りをして生き抜いてきた富良吉なのであろう。)
こんな酒場の場面もあった。
清右衛門 富良吉の飲み方は酒の味を知っているものの飲み方だった。
富良吉 (舌づつみを打つ。)
寺中 見ていると彼は焼酎と対話しているみたいだ。
カークランド 彼のコップの中の酒はその実、焼酎ではなく、一口飲むたびに刻一刻と微妙な味に変化して、飲む人を恍惚とさせる魔法の酒みたいだ。
清右衛門 富良吉、明日もお前は旗振りをやるか?
富良吉 イヤア。神戸でやった請け堀の仕事は土が硬くて、三つ掘るのがやっとでした。それに比べたら旗振りの仕事は楽勝でげす。
寺中 彼はこの世間をどんな目で眺めているのだろう。
清右衛門 富良吉は現代人を人間なんて思っていやしないかもしれない。
社会の底辺での暮らし。そこに現れる、まるで神々の談笑のような場面。一人ひとりが妖怪や神様のようであるが、その全体を一つの糸で結ぶような役割の富良吉だった。
…あれから20年。市場原理、成果主義は「ためのない貧困」を生み出したのだが、「貧しい世界を生き抜く力、その世界にいる人びとを支えるものの見方、人のかかわり」も奪ったのかもしれないと思う。
寺中さん役をしていたオイちゃんは、いまも、奥さんとお子さんと年に何回か劇を行う。ぼくは青森で暮らしている。お互い、いろいろな経過があったが、それなりにこだわり続けている。それをぼくは、内心、面白いと思っている。