
自然農法・収穫の秋
■仕事と作業の違い?
aoiさんは今年7月からサンネットで働いている。50代の多芸、多才、多彩な経歴の男性。aoiさんという名は掲示板上のハンドルネーム。ここでは蒼井さんとしておきましょう。
蒼井さんは、二人の30代男性とチームを組み、宅配や弁当配達など、主に車の運転をしています。まちづくりと障害者の社会貢献ルートをつくるというのが、このチームの任務です。チームができて4ヵ月目、最近、いろいろ問題が現れてきました。誰かがやるだろうと思って誰もやらなかったというミス、後回しにしてしまったミス…。
そんなおり、週に一度のミーティングで、蒼井さんは二人の相棒に向かってこう呼びかけました。「今度のミーティングまで、仕事と作業の違いについてそれぞれで考えておきましょう」。
彼は、仕事に対する若い人たちのナイーブな思いが、行動を起すときの枷になっているのではないかと考えているようです。それで、目の前の向こう、見えない問題を語り合おうと呼びかけたのでした。いい提案だと思いましたが、どうなりますか。楽しみです。
■私の苦しんだ日々
確かに、私自身を振り返ると、若い頃は仕事と作業の区別がつきませんでした。それは恥ずかしいくらいひどい状態でした。24歳から生活保護ケースワーカーとして働きましたが、福祉への自分なりの熱い思い(=仕事の目標)がありながら、さっぱり事務「作業」ができない。熱ければ熱いほどに、作業がすすまない。すすまないどころか、仕事はたまりにたまる。そんな悩み悩みの数年間でした。
新聞の片隅に出る町の小さな「事件」。期末試験を受けたくなくて職員室に放火した中学生。年賀状を配達できなくて何百通も捨ててしまったアルバイト。調書を作成できず何十件もの届けを机にしまいこんだままの警察官。…そんな人たちの気持ちがよくわかりました。
私自身の頭がそれなりにすっきりしてきたのは、7年目あたりからです。やがて、「思い」を事務作業に込められるようになりました。事務作業をして、「思い」をひどく損なわれる感じは少なくなりました。仕事と作業の区別が、身体でつき始めたのです。
しかし、今から考えると古き良き70年代です。ぼんやりした、仕事のできない職員なのに、7年も同じ職場にいられるなんて…。今では考えられません。
私が30代になった1981年、その年の秋、当時の厚生省が、「生活保護の適正実施の推進について」という123号通知を出しました。この通知がその後、長く続く、生活保護の引き締め行政の、開始ベルになりました。
■ある仕事の思い出
官僚システムというものの怖さを知ったのは、123号通知からの数年の変化でした。「生活保護の適正実施」とは、法や通達の厳格な適用ばかりでなく、強引な打ち切りや暴力的な権利侵害も含んでいました。国・県・市それぞれのレベルで、頻繁に行われる会議、監査。人事異動。機関誌の内容の変更。取り上げられる実践事例の変更…。
具体的には職場が変わりました。生活保護を受けている人に対して厳しい態度の職員が大きな顔をするようになります。
職場が大きく変わっていった1984年ごろだったと思うのですが、生活保護を受けている若い女性の財布が盗まれました。生活保護のお金が入ったその日、帰りに買物をしようと、赤ん坊の長男を抱いてスーパーに入ったのですが、自転車のカゴに財布を入れた袋が置きっぱなし。思い出して、あわてて入り口の自転車置き場に戻ったのですが、もう袋はありませんでした。
彼女はもう死ぬしかないと血相を変えて、私のところに来ました。「二つほどの方法があるから落ち着いて」となだめました。
彼女は長男がお腹にいるときに自殺未遂をしました。相手の男性と夢のような恋愛をし、それが破れたとき、彼女には生きていく意味を見出せませんでした。救急入院をし、長男を産み、何の支えもない土地でアパートを借りて1年。ようやくわが子と母子家庭として生きていこうと思えるようになった頃でした。
彼女にとりあえず生活できるお金を貸しました。前貸しができるお金が事務所で用意されていたのです。それともう一つ、再支給ができるか検討することにしました。
■本庁の仲間=ライバル
生活保護費の再支給とは、災害や事故・盗難などによって、生活がたいへんになった場合、一度支給した保護費を再度支給する方法です。
私がいた自治体では、再支給の決定は出先の事務所だけで判断せず、本庁と協議をしていました。以前は、ずいぶんずぼらな決定がありましたが、適正化のなかでたいへん厳しくなりました。
盗難の事例であれば、盗難の事実が証明される場合に限定するようになったのです。つまり、警察が捜査をし、自宅に侵入した形跡があるとか、ひったくりの現場を目撃した第三者がいるなどという場合です。
もちろん盗難届けは出したのですが、目撃者はいません。基準には当てはまらないのですが、彼女が虚偽の申し立てをする必然性はないことを一生懸命主張することにしました。この1年少しずつ家具をそろえるなど計画的に暮らしてきたこと、現場の様子と被害直前まで話していた友人の証言などから虚偽の申し立てだとしたら不自然であることを書類にまとめました。彼女のこれからの思いや決意について、彼女にも書いてもらいました。それは、かなり大量の「作業」でした。
当時、本庁と出先は、強い上下関係です。提出すると、本庁の担当者は、「これは、基準に入らないのではないですか…」と不支給の見込が強いことを匂わせました。担当者の彼とは特に何があったわけではないが、互いに気に入らないタイプでした。私は、彼の慇懃なもの言いに、内心で、「偉そうに」とつぶやきました。
お金をなくした彼女には、再支給は難しいことを伝えていましたが、一方で、世の中から捨てられる経験ばかりしてきたような彼女に、救いが与えられてもいいのではないかと考えていました。
数日後、本庁の担当者の彼から電話が入りました。
「再支給を認めることになりました。この事例まで不支給にするとあまりにも狭くなりますからね」。淡々と語る彼。「本人はきっと大喜びしますよ」と私は答えた。それで、仕事は終わり。あとくされのない大人の会話。それ以来このことについて話したことはありません。
でも、思うのですが、担当の彼は再支給を認められるようにかなり努力をしたに違いないのです。彼は母子家庭で育ったのですが、彼なりの思いを本庁ではたしただろうと思います。そして、私が作った詳細な資料は、彼の努力を支えたことでしょう。
「作業」がこんなふうに人をつなぎ、「仕事」を実感することもあるのです。こういうことを若い人に伝えたいと思うのです。どうでしょう、蒼井さん!