なんとなくサンネット日記

2009年10月31日

わたしたちは小さな管?

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:34 PM
葉っぱの集会

葉っぱの集会

素敵な文章を聞きました。ミッシェル・フーコーの『私は花火師です』を読んでくれたのです。1975年のインタビュー記録です(中山元訳、ちくま学芸文庫、2008年、45頁)。

 

「――権力のない社会というのは可能なのでしょうか。これは意味ある問いでしょうか、それとも無意味な問いでしょうか。

これについては「権力は必要なのか、それとも不要なのか」と問うべきではないと思います。権力は非常に遠いところまで及ぶものであり、きわめて深い場所まではいりこむものです。権力は毛細管のようなごく細い管で構成されたきわめて密なネットワークで運ばれるものなので、権力のない場所などあるのだろうかと問いたくなるものです。19世紀の後半になって、搾取のメカニズムが発見されたのですが、おそらく20世紀後半の課題は、権力のメカニズムを発見することでしょう。わたしたちは誰もが、権力のターゲットであるだけでなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです。

わたしたちがみずからのうちに発見する必要があるのは、疎外されたものでも、無意識的なものでもありません。わたしたちは、権力が通過する小さな弁であり、小さな結節点(リレー)であり、微細な歯車であり、顕微鏡的なシナプスなのです。これは権力そのものによって維持されているのです。」

 

「――そうしますと、もはや権力を逃れるものはどこにも残されていないのでしょうか。

権力から逃れるもの、それは反・権力ですが、これもまた権力と同じゲームのうちに捉えられているのです。」

 

1975年頃、権力の問題は、多くの人々の政治的関心にぴったり重なり合って、存在していました。でも、フーコーが言いたいのは、政治的・党派的な権力問題のことだけではありません。いまで言えば、監視システム社会、少数者にたいする排除社会、攻撃的に孤立する人間関係という現象につながる問題意識があります。だからこそ、彼の指摘はびっくりするほど、現代的なのです。

権力、つまり監視や排除、関係の分断の源は、どこか「外」からやってくるものではなく、わたしたち自身がそのメカニズムに捉えられていて、一部になっているという考え方を提起していたのです。

だとすれば、身近な関係のなかで連帯し、価値を創造することに意味があるということになります。

 

「わたしが大きな関心を抱くのは、(権力がその目的に反して、逆説的な結果を作ってしまう)その不規則的な要素、偶然的な要素、予測不可能な要素なのです」(フーコー)

人との関係の中で、不規則で、偶然的で、予測不可能なことがらに心を寄せること。わたしには、その視点に「愛」を感じます。そして、わたしの心はうきうきしてくるのです。

2009年10月24日

ワナビー

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:03 PM
秋の日

秋の日

 最近、鎌田遵の『ネィティブ・アメリカン―先住民社会の現在』(岩波新書)を読みました。

 「5章つくられる先住民像」で、先住民にたいする白人社会の両義的な態度、野蛮であり英雄と見なす態度を指摘していました。映画で考えれば、野蛮は、かつてのジョン・フォードの西部劇。英雄は、たとえばケビン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブス』の精悍な先住民だそうです。文化的に劣っていると見なし、一方で、美化し空想化する態度を白人社会は抱え込んでいるのです。差別であり、聖別です。どちらの態度も、共通しているのは、歴史・社会との現実的なつながりを無視した抽象化ということです。

 このような話の文脈なか、先住民でもないのに、あたかも先住民であるかのように振舞う人についてふれていました。ワナビ-というそうです(“I wanna be=偽者”)。「単一民族幻想」がありがちな日本社会では、気づきにくいのですが、形を変えて、似たことはありそうです。アメリカ先住民の問題ばかりでない、一般的な問題につながりそうです。

 ある人間について、「現実的なつながり」を消し去り、都合の良い方向に抽象化したとき、ワナビ-は生まれる。抽象化したイメージ、そのイメージに自分を置き換えようとするワナビ-。それは一つのコインの表と裏側の関係なのかもしれません。

2009年10月17日

Sさんへの手紙 №1

Filed under: つぶやき — toshio @ 11:05 AM
小さな森の友だち

小さな森の友だち

「いま、精神障害者といわれる人々の『当事者性』を考える」。

Sさん、貴兄とこのような話題について考えあいたいと思います。貴兄はこんなことを言っていますね。

 

――福祉・医療関係者が「当事者」を語るとき、その言葉には既にイメージができていて、そのイメージに障害をもつ人たちをあてはめると思うのです。

あるイベントの実行委員会があったとして、当事者がその委員会に参加していなければ、「今度の実行委員会には、誰か当事者も参加したらいいですね」などという意見が出るご時世になりました。ところがそこで語られる「当事者」とはいったい何なのでしょうか。それは、現実的な○○さんではなく、△△君でもない「当事者」です。具体的な課題について、話し合うために必要な、誰それというわけでもない「当事者」。「当事者参加は進歩的」といったイメージの裏に、実は、具体的な人間関係や課題を脇において、ともかく「当事者参加」を進めようとする奇妙さが存在していると思います。

べてる(浦河べてるの家)の実践活動にたいしての、一部の関係者の態度にも、おかしなところがあるなと思うことがあります。

べてるの妄想幻覚大会や当事者研究という実践は、私たちが見てきた、教えられてきた、「精神障害者」は「私たち自身が作ったもの」であって、それも「妄想に過ぎない」――ということを表現していると思っています。だとすると、べてるの実践は「私たち自身」が照らされるような実践です。そして「ああそうか!いままで私の考えは何と浅かったのか」「病気のマイナス面ばかり見ていたのは私の思い込みだったのだ」という気づきや新たな視点にいたるかもしれません。私はそうであって欲しいと思うのです。

ところがそうではなく、関係者の「常識」の一部としてべてるが語られてしまうことがあります。「関係者ならべてるの妄想幻覚大会くらい知っていてほしいね」。感動を伴わない、そんな知識の枠に収めたいと思う人たちは決して少なくありません。

ミッシェル・フーコーは「狂気の歴史」の中で、精神科治療は「囲い込みの歴史である」ということを述べていますが、「当事者」という言葉が新たな囲い込みになっていないかと思うのです。現実の人間関係、解決に向かうべき社会的課題、病気や障害に対する見方…このような「こちら側」の世界に働きかけるものでなく、「向こう側」、イメージと知識の世界に、「当事者」という言葉が橋渡しし、向こう側へと囲い込んでいっている――そのように思うのです。

 

貴兄のおっしゃるとおりだと思います。

人の知性は、人間そのものを把握することに適していないのかもしれません。そのこととも関係あるかもしれません。外側にあるごく小さな物質、遠大な天文でさえ、知性は扱えるのに、存在している自分自身の問題になると、とたんに扱いにくくなります。理論物理学者は、世界のありようを描きますが、描いた方程式のとおりに自分の日常をとらえているわけではありません。別の問題として扱います。

人間の深い問題――精神と自然、精神病と生老病死、科学と共生――こういった問題になると、それは人間、自分自身に関係しているという感覚を失い、外側にころがっている課題のように扱い始めます。

ですから、「囲い込み」は「排除」という側面ともうひとつ、人間にとって扱いにくい問題としてあり続けていることから生じる側面もあるのではないでしょうか。どうしても問題を「外側」においてしまうという、人間の「クセ」があると思うのです。

そこから起きてくるいろいろな問題。それについても考えたいと思います。

2009年10月15日

仕事と作業

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:40 PM
自然農法・収穫の秋

自然農法・収穫の秋

■仕事と作業の違い?

aoiさんは今年7月からサンネットで働いている。50代の多芸、多才、多彩な経歴の男性。aoiさんという名は掲示板上のハンドルネーム。ここでは蒼井さんとしておきましょう。

蒼井さんは、二人の30代男性とチームを組み、宅配や弁当配達など、主に車の運転をしています。まちづくりと障害者の社会貢献ルートをつくるというのが、このチームの任務です。チームができて4ヵ月目、最近、いろいろ問題が現れてきました。誰かがやるだろうと思って誰もやらなかったというミス、後回しにしてしまったミス…。

そんなおり、週に一度のミーティングで、蒼井さんは二人の相棒に向かってこう呼びかけました。「今度のミーティングまで、仕事と作業の違いについてそれぞれで考えておきましょう」。

彼は、仕事に対する若い人たちのナイーブな思いが、行動を起すときの枷になっているのではないかと考えているようです。それで、目の前の向こう、見えない問題を語り合おうと呼びかけたのでした。いい提案だと思いましたが、どうなりますか。楽しみです。

 

■私の苦しんだ日々

確かに、私自身を振り返ると、若い頃は仕事と作業の区別がつきませんでした。それは恥ずかしいくらいひどい状態でした。24歳から生活保護ケースワーカーとして働きましたが、福祉への自分なりの熱い思い(=仕事の目標)がありながら、さっぱり事務「作業」ができない。熱ければ熱いほどに、作業がすすまない。すすまないどころか、仕事はたまりにたまる。そんな悩み悩みの数年間でした。

新聞の片隅に出る町の小さな「事件」。期末試験を受けたくなくて職員室に放火した中学生。年賀状を配達できなくて何百通も捨ててしまったアルバイト。調書を作成できず何十件もの届けを机にしまいこんだままの警察官。…そんな人たちの気持ちがよくわかりました。

私自身の頭がそれなりにすっきりしてきたのは、7年目あたりからです。やがて、「思い」を事務作業に込められるようになりました。事務作業をして、「思い」をひどく損なわれる感じは少なくなりました。仕事と作業の区別が、身体でつき始めたのです。

しかし、今から考えると古き良き70年代です。ぼんやりした、仕事のできない職員なのに、7年も同じ職場にいられるなんて…。今では考えられません。

私が30代になった1981年、その年の秋、当時の厚生省が、「生活保護の適正実施の推進について」という123号通知を出しました。この通知がその後、長く続く、生活保護の引き締め行政の、開始ベルになりました。

 

■ある仕事の思い出

官僚システムというものの怖さを知ったのは、123号通知からの数年の変化でした。「生活保護の適正実施」とは、法や通達の厳格な適用ばかりでなく、強引な打ち切りや暴力的な権利侵害も含んでいました。国・県・市それぞれのレベルで、頻繁に行われる会議、監査。人事異動。機関誌の内容の変更。取り上げられる実践事例の変更…。

具体的には職場が変わりました。生活保護を受けている人に対して厳しい態度の職員が大きな顔をするようになります。

職場が大きく変わっていった1984年ごろだったと思うのですが、生活保護を受けている若い女性の財布が盗まれました。生活保護のお金が入ったその日、帰りに買物をしようと、赤ん坊の長男を抱いてスーパーに入ったのですが、自転車のカゴに財布を入れた袋が置きっぱなし。思い出して、あわてて入り口の自転車置き場に戻ったのですが、もう袋はありませんでした。

彼女はもう死ぬしかないと血相を変えて、私のところに来ました。「二つほどの方法があるから落ち着いて」となだめました。

彼女は長男がお腹にいるときに自殺未遂をしました。相手の男性と夢のような恋愛をし、それが破れたとき、彼女には生きていく意味を見出せませんでした。救急入院をし、長男を産み、何の支えもない土地でアパートを借りて1年。ようやくわが子と母子家庭として生きていこうと思えるようになった頃でした。

彼女にとりあえず生活できるお金を貸しました。前貸しができるお金が事務所で用意されていたのです。それともう一つ、再支給ができるか検討することにしました。

 

■本庁の仲間=ライバル

生活保護費の再支給とは、災害や事故・盗難などによって、生活がたいへんになった場合、一度支給した保護費を再度支給する方法です。

私がいた自治体では、再支給の決定は出先の事務所だけで判断せず、本庁と協議をしていました。以前は、ずいぶんずぼらな決定がありましたが、適正化のなかでたいへん厳しくなりました。

盗難の事例であれば、盗難の事実が証明される場合に限定するようになったのです。つまり、警察が捜査をし、自宅に侵入した形跡があるとか、ひったくりの現場を目撃した第三者がいるなどという場合です。

もちろん盗難届けは出したのですが、目撃者はいません。基準には当てはまらないのですが、彼女が虚偽の申し立てをする必然性はないことを一生懸命主張することにしました。この1年少しずつ家具をそろえるなど計画的に暮らしてきたこと、現場の様子と被害直前まで話していた友人の証言などから虚偽の申し立てだとしたら不自然であることを書類にまとめました。彼女のこれからの思いや決意について、彼女にも書いてもらいました。それは、かなり大量の「作業」でした。

当時、本庁と出先は、強い上下関係です。提出すると、本庁の担当者は、「これは、基準に入らないのではないですか…」と不支給の見込が強いことを匂わせました。担当者の彼とは特に何があったわけではないが、互いに気に入らないタイプでした。私は、彼の慇懃なもの言いに、内心で、「偉そうに」とつぶやきました。

お金をなくした彼女には、再支給は難しいことを伝えていましたが、一方で、世の中から捨てられる経験ばかりしてきたような彼女に、救いが与えられてもいいのではないかと考えていました。

数日後、本庁の担当者の彼から電話が入りました。

「再支給を認めることになりました。この事例まで不支給にするとあまりにも狭くなりますからね」。淡々と語る彼。「本人はきっと大喜びしますよ」と私は答えた。それで、仕事は終わり。あとくされのない大人の会話。それ以来このことについて話したことはありません。

でも、思うのですが、担当の彼は再支給を認められるようにかなり努力をしたに違いないのです。彼は母子家庭で育ったのですが、彼なりの思いを本庁ではたしただろうと思います。そして、私が作った詳細な資料は、彼の努力を支えたことでしょう。

「作業」がこんなふうに人をつなぎ、「仕事」を実感することもあるのです。こういうことを若い人に伝えたいと思うのです。どうでしょう、蒼井さん!

 

2009年10月6日

隠さない生き方

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:54 PM
青い森公園にも紅葉が

青い森公園にも紅葉が

岩手県遠野市に菊池恭二さんという社寺大工の方がいます。

去年、『宮大工の人育て』(菊池恭二。祥伝社新書。2008年)という本の題名にひかれて、読みました。職人さんの話には、たいてい人生訓、世界の見方、智恵ある話があるものです。菊池さんの本もそうでした。

 

読んだあと、ぼくはサンネットの掲示板にこんなことを書きました。

遠野市に菊池さんという社寺大工の方がいます。若い頃に、大工から社寺を作りたくて、京都の西岡棟梁に弟子入りします。そのとき、「菊池さん、宮大工は食えんぞ(金や名誉には縁がない)、それでも(仕事を)覚えたいんか」と言われたそうです。いま棟梁になって人を使うようになった菊池さんは、希望してくる若い人に西岡さんと同じことを言っているそうです。(2008/08/11)

 

「○○は食えんぞ、それでも覚えたいんか」

覚えるという言葉には、知識だけではない、体験・経験・生きた智恵・姿勢…などが含まれていると思えます。「仕事を身体で覚える」という言い方もありました。考えてみると「仕事を覚える」という言葉は死語になりつつあるのかもしれません。いまは、たいてい、仕事の段取りはマニュアル化されていて、覚えるのは「マニュアル」になっています。覚えるのに目と頭は使うけど、身体の動かし方や経験のつみ方はマニュアルの文字の中にあるというわけです。

 

「食えんぞ」という言い方もいいですね。

金や名誉には縁がないけど、それに値する仕事の世界があるぞ、と言っているみたいです。自分が従事している仕事への誇りを感じます。金や名誉ではない、誇りです。いまはこの仕事の誇りという“やつ”が、社会の世界からほんとうに失われています。

実は、誇りというものは、近所の人に尊敬され、職場には仕事の仲間がいて、町の子どもたちもその仕事を知っている等々、生活に密着した関係の中で生まれます。地域社会に占める位置ともいえます。暮らしあう人間関係がほんとうに希薄になった現在、誇りもまた存在しにくくなりました。

金や名誉を求める欲望はいよいよ強まっていますが、それらに替わる価値が低まったからかもしれません。

 

菊池恭二さんは「人を育てる」ということについて、次のように言っています。

――リスクを承知で、やらせてみる、経験させてみる。そうしていかないことには、人は育たないのです。そこで大事になるのは、先ほども述べたように、自ら失敗と向き合うことです。それには大前提として「ミスを隠さない心」が必要です。

私は弟子を棟梁に就けるとき、必ずこう言います。

「ミスはいつか必ず露見する。隠し通せるものじゃない。そんなことをして後でバレたら、取り返しのつかないことになる。せっかく建てた建物をぶっ壊してまた新しく造るようなことになったらとんでもないことになる。柱の一本、二本間違えたくらいならどうってことはないんだから、間違いがわかったらすぐに報告しろ。みんなの力を借りれば、すぐに手当てができる。だから、絶対に隠すな」――

 

ミスを隠さない。ミスは隠したいものですし、実際、隠してもわからないことがたくさんあります。ところが、隠したはずのミスが時間を置いて、出てくることもたくさんあります。それは経験してみないとわからないことかもしれません。

「偽」が「今年の漢字」になったのは一昨年。隠して、隠れて、偽りを図るのがいまのご時勢。

そんな時代だから、逆に、隠さない生き方を求める人が増えている気もします。隠さないこと、それは「人を育てる」という私たちの「未来」にかかわっていることですから、かならず、隠さない生き方を歩む人は生まれるはずです。

2009年10月5日

2016年のオリンピック

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:15 PM
ブラジル移民1935

ブラジル移民1935

■リオに決定

コペンハーゲンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会は、日本時間の10月3日未明、リオデジャネイロを2016年の夏季五輪開催都市に決めた――。

東京落選す!の報道がされると、残念だ、どうして、ぼうぜん、夢砕かれる…の文字があふれました。2度目の東京オリンピック開催に向け、世論が大きく盛り上がっていたとは思えなかったので、そのときはちょっと大げさな印象を受けました。前評判では低い評価だったブラジルのリオデジャネイロが開催地に決定され、南米大陸初のオリンピック開催となったのですから、それはそれで喜ばしいと思いました。

 外国で災害や事故があると、その国の多くの人が傷ついているのに、「邦人の無事を確認した」といった報道がされることがあります。日本国内で心配している家族のためにという意図はわかるのですが、その国の人が聞いたら、自分だけよければいい「身勝手な」報道と思うのではないか、そう考えてしまうようなケースがあります。

オリンピック報道は、災害報道と反対のケースでした。「東京落選」に偏らずに、「リオデジャネイロ決定」もきちんと報道しなければ、「身内びいき」でしかありません。あるいは、事実を冷静に伝えるという使命を忘れ、感情を煽り立てるだけのセンセーショナリズムになってしまいます。しかし、オリンピックそれ自体も、80年代頃から、商業主義との批判が高まり、マスコミやセンセーショナリズムを利用しましたから…そこは複雑です。

…と、ここまで10月3日に書きました。二日たって、報道の最初の熱気(落胆?)が収まると、IOCの背景やブラジルの様子が伝わり、それなりにバランスが取れてきた感じがします。

■移民の両親

もうひとつ、まったく別のことですが、ぼくにはブラジルに想いを寄せる理由があります。両親と兄姉が、かつて18年間暮らした国なのです。行ったこともないブラジルですが、それでも、ブラジルを身近に感じるぼくにとっては、リオデジャネイロに決まったことがうれしいのです。

 写真は、昭和10年(1935年)頃の写真です。父哲雄25歳、母キミエ20歳、抱かれているのは兄君雄。横に立っているのは叔母。前年、父、母、叔母の3人で海を渡りました。兄に続いて二人の姉も生まれ、日本に帰ったのは、大戦後の昭和26年(1951年)でした。ぼくは帰国の年に生まれています。

 1935年の当時、移民には1年の労働が義務づけられていました。ブラジルに着くと、サンパウロ州のどこかのコーヒー園で働きました。本人たちに職種や働く場所の選択権はありません。農園で支給されるものは豆(フェジョン)、米、小麦粉、油、塩など7品目。地の果てまで続くようなコーヒー園。大鎌を使って草刈をしても、照りつける日差しのなか、刈ったあとから雑草が生えてくるようだったと話していました。

同じ年、同じ入植地に日本人7家族が入りましたが、無事に1年を過ごしたのは、3家族だったそうです。アメーバ赤痢、栄養不良、マラリア。4家族は離村しました。地主が雇っている男たちがいて、馬に乗り、銃をもち、見回りしていました。私設警官です。村を逃げ出そうとする農民が、途中で見つかれば、殺されただろうと父は言っていました。逃げ出した4家族のその後の安否はわからなかったそうです。

■世界の切れ目

1年間の強制労働から解放され、サンパウロ市に出てきました。まだまだ生活のめどは立たず、不安な日々を過ごしていた時期の写真です。

チャップリンに『移民』という映画があります。ヨーロッパ大陸からアメリカへの移民たち。大西洋を渡る長旅もいよいよ終わり。貧しげな人々が、船の甲板から新天地アメリカを不安げに、そしてある種の決意をこめながら見つめるシーンがあります。表情のリアルさにぼくは胸を締めつけられます。それは、写真の2年目の両親たちの表情にも通じる気がするのです。

 http://fblg.jp/cinema634/imageroom/list?article_id=6871003&tag_number=4

 異国、異郷で暮らすことは、独特です。

言葉も習慣も違い、後ろ盾になる人はなく、自分の感覚と力だけでその社会につながろうとするのですから。

社会の主流の人たちが「自分たちの社会はこうだ」と思っているように、社会は移民にたいしては振舞ってくれません。移民は、まったく別の姿を見ることになります。逆さま、果て、エッジ、切れ目…のように見えるかもしれません。安定し、固定し、連続した社会ではなく、泡立ち、揺れ動き、生成消滅する世界です。

 世界の周辺で見えること、感じること、考えること。そこには大きな価値があると思います。力のない者が力のないまま社会や世界に関与するとき、そこに現れるものをどう呼べばいいのでしょうか。

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