嫉妬という感情は、身近にある、ごく人間的な感情でありながら、時に人間を非人間的なものへと陥れます。
ねたみ、そねみ、羨み(うらやみ)、憎む。男は男の嫉妬心があり、女は女の妬み(ねたみ)があります。
心の奥深く、持続する心の暗闇。燃えるような、激しい憎しみのまなざし…。
キリスト教の七つの原罪と言われるもの。「憤怒」、「嫉妬」、「貧欲」、「大食」、「怠惰」、「淫欲」、「傲慢(虚栄)」。これらのなかで、ぼくにとって、嫉妬ほど苦手なものはありません。
そこからもっとも遠ざかりたいと思う一つです。自分にないわけではないのに…不思議ですが。
大企業、官公庁の上級職、大きな組織の技術専門職など、サラリーマン生活での「嫉妬」はお馴染みかもしれません。
他の6つの欲望もあるでしょうが、それは露骨に出すことはできません。他の人から叩かれてしまいます。
政治家や自営・起業家であれば、その点の「表現の自由」はあるかもしれませんけど…。
上手に6つの欲望はしまいこみ、「嫉妬」だけは使い込む。それが「大人」なのでしょう。
ぼくが、福祉の分野に関心が向かい、精神障害関係であたふた活動してきた理由の一つ。
それは「嫉妬からの逃避」だったかもしれません。
「嫉妬」がしっかり成り立って、それが複雑に発展する世界から逃げたいと思い、「嫉妬」がほんとうに少ない場所にたどり着いたと思っていました。
統合失調症の人たちの花見、みんなで歌いあった「上を向いて歩こう」やアコーディオン。
夜中まで、三々五々静かに語り合っているアルコール依存症者の集いの雰囲気。
これほどまでに競わないゲームがあろうかと思いつつ、笑いに包まれた青空の下のソフトボール。
また会おうねと、握手して、駅で見送る悲しさ。
ぼくを励ましてきたのは、「嫉妬」からもっとも遠く離れた感情や風景、人間の関係だったと思います。
嫉妬とはなんでしょうか。
15世紀のネーデルランドの画家、ヒエロニムス・ボスが描いた『七つの大罪と四終』。
この絵には、七つの大罪(原罪)が描かれています。そして、嫉妬は犬が骨を争う姿として表現されています。日本語的「嫉妬」の語感から、「骨を争う二匹の犬」は浮かんでこないのですが…。
ネーデルランド、いまのオランダには古い次の諺があるそうです。
「1つの家の二人の主人、1匹のネズミを求める二匹の猫、1つの骨をつかんだ二匹の犬は、めったに意見の一致を見ることはない」
嫉妬とは、一つのものを奪い合う野心、他を蹴落とそうとする攻撃心だというのです。
それが原因なのでしょう。奪いあってはならないものを、奪い合う。
嫉妬を生み出す所有欲、他人のものを奪い取りたいという欲望。
それがエッセンスになって、嫉妬心が形作られる…。
負けまいとする心。自分を傷つけられた時に感じる気持ち。自分を叱咤する姿勢。
そういった気持ちは「嫉妬」の真髄ではないのです。
これらは物語の素材としては面白いのですが…。
ぼくが逃げたかったのは、嫉妬の真髄、「所有欲」と「攻撃心」でした。
1997年、東京の病気の人たちとの交流。酒に酔ってきたSさんが大きな声でこういいました。
「競争社会のなかで病気になった俺たちだ。社会復帰などと、もう一度、競争しろといわれたくないよ!」
その言葉はさわやかに聞こえました。そこにはひがみも、反発心も含まれていませんでした。
嫉妬心を超え、仲間を大切にしたいというSさんの思いが、ぼくには感じられたのです。
病気からの回復の道筋に、「所有欲」と「攻撃心」はありえないと思います。
仮に、嫉妬をテコに、病気からの回復の道筋を見つけようとする人がいたら、そこには大きな誤りがひそんでいるのです。
Sさんとの出会いから2年後、ぼくは奥さんとごくわずかの仲間たちとでサンネットを始めました。
参考)ヒエロニムス・ボス/七つの大罪と四終
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/03/Hieronymus_Bosch-_The_Seven_Deadly_Sins_and_the_Four_Last_Things.JPG