なんとなくサンネット日記

2009年8月31日

目を離すことなく

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:29 PM
猫は野辺地の常夜灯を知らない

猫は野辺地の常夜灯を知らない

萱野茂さんの話を初めて聞いたのは、参議院議員に繰り上げ当選した1994年だったと思います。

当時、ぼくは岡山県に住んでいて、部落解放同盟岡山県連の主催で、萱野茂さんの講演会があることを知りました。そして講演会に出かけました。

 

萱野さんは参議院議員になったことを、アイヌ初の国会議員として喜んでいるようでしたが、講演を聞くうちに、個人的欲望で喜んでいるのではないことは、すぐ、わかりました。まるで友人に話すような、彼のやさしい語り口は、ぼくの気持ちはなごやかにしました。彼の願いは、アイヌや少数者の未来の幸せに向けられていました。そのときの話のいくつかは、ずっと後までぼくの記憶に残ったものです。

 

最近読んだ『アイヌ歳時記 二風谷のくらしと心』(萱野茂.平凡社新書.2000年)で、その時の話の幾つかがぼくの中によみがえりました。そのほんの一つ。

 

恋や恋愛のことをアイヌの言葉では「ウウォシッコテ」となります。その意味は、ウ=お互い、ウォ=それ、シッ=目、コテ=つなぐ、が合わさり、「愛し合っている者同士はお互いから目を離すことなく」ということだそうです。「結ばれ合うまなざし」とでも意訳できるかもしれません。日本語の「恋」は中身も形式もしっかり名詞ですが、アイヌの言葉の「恋」は動詞的です。なんと素敵な表現でしょう。

 

恋は、人と人の関係でもっとも激しく、濃密な関係です。

「見る」と「見せる」が互いに関係し合い、二つのまなざしがつながり、一つになる。やがて二人は、同じものを見る…。

でも、恋ばかりでなく、それは、人間関係の、本質の一つなのかもしれません。

 

萱野茂さんは2006年5月に他界されましたが、彼の故郷には「萱野茂二風谷アイヌ資料館」があり、訪れる人を待ってくれています。「入場料は何百円。ここまで来るのに何万円。ぜひ、入場料を支払って中に入ってください」という意味の看板は、まだ立っていることでしょう。

 

(昨日の衆議院選挙の結果、政権交代となりました)

2009年8月24日

なぜ彼は酋長だとわかったか

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:52 PM
しんまちふれあい広場の雲

しんまちふれあい広場の雲

社会がよくないから、社会が一人ひとりをバラバラにするから、多くの人は身近な人への信頼がもてないし、連帯感が生まれない。このように言われることがあります。確かに、そういう面があると思います。

家庭や学校でひどい目にあったので、人への信頼感を取り戻せないと訴える人がいます。私も、そうだろうと思うのです。

 

ところが、「だから、復讐するんだ!」という人がいれば、それはやめたほうがいいと言うでしょう。

「個人の信頼の回復ではなく、まずは社会変革なんだ」「やられたら、やり返せ」「個々人のレベルでも反撃するんだ」という意見に、私は簡単に同意できないでしょう。

「ちょっと、ちょっと。待ってよ。それではひどい目をあわせたと、あなたが思っている社会や学校や家と同じことを、あなたがしようとしているんじゃない」と話すでしょう。妥当で正当なレジスタンス(抵抗)か、それとも、自己防衛の名前を借りた単なる攻撃的欲望、あるいは独善的な認識の結果か。私は区別すると思います。

 

なぜ、現代のわれわれは、多くの情報と豊かな物質に向き合っているにもかかわらず、この世界に生きている価値を軽んじるのでしょう。社会をよりよくしたいという未来に向けたまなざしが、いま暮らしている生活や世界の価値を、低く思わせるからでしょうか。

 

1911年8月29日、カリフォルニア州オロヴィル(オーロビル)に現れたインディアン「イシ」がもたらしたメッセージは、98年の年月で古びるどことろか、むしろ新鮮さを増しています。

――過酷な状況の中で、なぜ彼は人間らしく生きられたのか。誇りをもち、礼儀正しく、忍耐強い人間として生きた彼。その彼の信念を支えた「文化」は彼が大人になる前に滅んでいたのに――。

イシは1860年頃に出生しました。彼はヤヒ族でした。彼が生まれる10年前、部族は白人の迫害にほとんど遭遇しておらず、青森市の数倍にあたる5千㎢の区域に、2千人から3千人で生活していました。

1850年代から、白人の殺略、迫害、強制移住、感染症が彼らを襲いました。イシが10歳になる頃には、部族は300人から400人に激減し、さらに、集団虐殺によってほとんど壊滅しました。

残された者は白人から身を隠し、潜伏生活になります。イシは潜伏のなかで成人するのですが、そのときはすでに一握りの人数でした。

10歳からの40年間のほとんどは、3人の老人(母、叔父)と妹とで過ごしたのです。なんという悲劇でしょう。

 

イシは最後まで詳しく話そうとしなかったのですが、5人の仲間は事故や病気で亡くなり、1908年頃、たった一人になりました。移動できる範囲はいよいよ狭まり、衰弱した状態のイシが、白人の畜殺場で発見されました。白人文明に染まらずに生きた最後のインディアンだったのです。

イシは、肺結核で急逝する1916年までの5年間、サンフランシスコの人類博物館で暮らしました。博物館の館長のアルフレッド・クローバーは、イシを友人として歓待していました。イシが亡くなった後に、アルフレッドは結婚し、その奥さんのシオードラ・クローバーが1961年に著したのが『イシ――北米最後の野生インディアン』(岩波現代文庫)です。

この本のおかげで、私たちはイシのことを知ることができます。

 

イシは、残酷なホロコーストを生き延びたのですが、彼が亡くなることは部族の消滅でした。自分の文化の消滅にも立ち会わなければならなかった人です。

地球が消滅するとき、人類は「世界が消滅する」と感じます。たとえ地球が滅んでも、他の恒星があるから世界の終焉ではないと思う人はほとんどいないでしょう。

 

イシは、この世の果て、世界の終焉に立ち会っていたにもかかわらず、誇り高く、忍耐があり、控え目でした。

 

――(イシの主治医であり友人の)ホープとイシは彼らが気に入っていた「バッファロービルの開拓期の西部展覧会」に出かけた。このショーには何人かの平原インディアンが出演していた。その中の一人、身体をペンキで塗り、羽の戦闘用ボネットをかぶった背の高い、威厳のある男がホープとイシのそばに近寄ってきた。二人のインディアンはしばらくの間、互いに無言で顔を見合わせた。それから(平原インディアンの)スウ族の男は完璧な英語で、「この男はどこの種族のインディアンか?」と訊ねた。ポープが「北カリフォルニアのヤナ族だ」と答えた。それからスウ族はイシの髪の一部を静かにつまみ、指の間でこすり、イシの顔を調べるようによく見て、「彼は高級なインディアンだ」と言った。この男が行ってしまってから、ポープはイシにあのスウ族をどのように思うかと聞いてみた。「大酋長だ」というのがイシの感嘆をこめた答えであった。――(P355-356)

 

このエピソードは、私たち人間が世界や他者を把握するのに、それほど多くの情報を必要としないのではないか、ということを示唆していると思うのです。

イシは、子供の頃に部族が虐殺されるのを見て、40年にわたる逃亡を続けました。ごくわずかな道具、小屋、5人の仲間。その「情報」によって彼は「高級な」人間であり続けられたのですから。

 

「あなたは居なさい、ぼくは行く」

これがイシの別れの言葉だったそうです。

2009年8月19日

助け合う

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:02 PM
青森港

青森港

「私たちの言葉には“働く”という言葉がないわ。

 “助け合う”という言葉が、「働く」にもっとも近いわね。」

 

(NHK(BSスペシャル)『地球を救う女性たち 第4回 アメリカ 母なる大地を守るショショーニの人々からのメッセージ』1995年6月1日放送。マリー&キャリー・ダン姉妹の言葉。)

 

「働く」という言葉の周りに、いくつもの観念が浮遊する。太陽の周りを惑星・準惑星・小天体が巡るように。

社会で一人前になる。技能や技術を獲得する。それなりの人物と認められる…。これらに共通するのは、「働く=私」という観念だ。

働く後姿を見て育つ。働くは傍(はた)を楽にする。いい仕事してますねぇ…。これは、社会の仕組みに関与する業としての「働く」。「働く=社会関係」という観念。

ダン姉妹のいう通り、個人の「働く」は、共同する「助け合う」から生まれてきたのだろうと思う。個人も共同体から生まれてきたのだから。その逆ではないし、逆にはならない。地上に光が届いて、生物に眼ができたように。

2009年8月17日

ロストジェネレーション

Filed under: つぶやき — toshio @ 11:35 AM
お盆の水

お盆の水

1970年代から1984年生まれの世代を、「ロストジェネレーション(失われた世代)」と表現することを知りました。現在、おおむね30代半ばから20代半ばあたりの世代を指すようです。彼らが成人期になったとき、バブルの崩壊不況の「失われた10年」でした。同時に、グローバリゼーション・市場原理が謳われる時代です。そして、労働市場の構造が大きく変化し、非正規雇用やフリーターを強いられた「世代」なのです。

 

昨年、戦前の作家・小林多喜二の『蟹工船』ブームが、突然起きました。このブームのきっかけは、2008年1月9日、毎日新聞に載った作家の雨宮処凛と高橋源一郎の対談でした。対談で、現在のフリーターの状況は、『蟹工船』で描かれた様子に似ているという話題になりました。上野の書店が、その新聞記事のコピーを使って、『蟹工船』を紹介しました。すると『蟹工船』が売れ始め、他の書店にも紹介し、それをマスコミが取り上げる、という連鎖からブームが巻き起きたのでした。

 

対談の企画をした、毎日新聞の鈴木英生記者が書いた『新左翼とロスジェネ』(集英社新書.2009年)を読みました。鈴木記者は1975年生まれのロストジェネレーション。略してロスジェネなのだそうです。

『蟹工船』ブームが起きて、その秋にはリーマンショックでした。そして、いわゆる派遣切りが始まります。昨年の暮れから正月の日比谷公園の「年越し派遣村」は、厚生労働省を動かしました。

ちょっと前まで、非正規雇用やフリーターを「負け組」と嘲笑的な一括で済ませていました。いまや問題は深刻になりました。背景としての社会的問題が前面に出てきました。

いまや「市場原理のたそがれ」とまで言われていますが、マスコミの変わり身の早さも怖い気がするほどです。

 

このような状況のもと、鈴木は『新左翼とロスジェネ』で、戦後の新左翼運動が内包していた価値と、現在の若者の状況との接点を探ろうとしました。野心的な試みです。

本のなかで、「年越し派遣村」の村長であった湯浅誠の言葉に、鈴木の思索を重ね合わせ、次のように表現します。

 

――湯浅(誠)の指摘する、自分の訴えが「世の中の誰かにきちんと受け止めてもらえるという信頼感」は、私が述べた「自分の少しの『自己否定』的行動で世界が少しだけ変わるかもしれないということに、積極的な意味を持たせ」られる状態に近いと思う。逆に「積極的な意味を持たせ」られない状態とは、“溜め”がないことと同じであり、つまり『貧困』の一要素だともいえる(P192―193)。

 

湯浅によれば、金がない状態は貧乏だが、貧困は“溜め”がない状態といいます。頼れる家族・友人をもつのは人間関係の“溜め”、自分に自身がある、何かが出来ると思うことは精神的な“溜め”。人間をかたちづくるいろいろな関係を“溜め”という言葉で表現しています。

鈴木の「自己否定」とは、既成の共同性に変わる新しい共同性を求めるための新左翼的思考回路のことです。

二人とも共通しているのは、個人の価値(信頼感、世界への積極的関与)と、社会関係(“溜め”、少し変化する世界)との相関を強調する点です。「いかに世界から収奪するか」という市場原理的な思考を脇に置き、世界の変化と自分の変化をつなぐ思考を求めているようです。湯浅、鈴木が求める「連帯」「共同性」は、自己の問題であり、同時に、世界の問題でもあるのです。

 

鈴木英生記者は2002年から2003年にかけて、サンネットとお付き合いがあった方です。著作を通じて、再会したのですが、お元気そうだと思いました。とてもうれしいものです。

2009年8月7日

豆腐を投げる――生活の重み

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:54 PM
ねぶたが来た

ねぶたが来た

泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん

 

――加えたにがりがきかなかったのか豆腐が固まらない。泥のようなできそこないの豆腐を腹を立てて庭に投げ捨てる。宝石のように星のきらめく冬空。夜はまだ明けてはいない。

作者、松下竜一は九州のある小都市で豆腐屋をいとなむ青年である。いつのころからかの、朝日新聞西部版の歌壇の投稿者のひとりである。西部版の作品には炭鉱労働者の出詠が多く、すぐれた彼らの生活歌が異彩を見せていた。炭鉱不況がはじまり、彼らがストの怒り、転業の悲しみを訴え、やがて歌壇からひとりひとり名を消していったころ、豆腐作りの歌だけ作る、素朴な、まるで指を折って数えながらつづるようなこの青年の作品が私の記憶にとまるようになった。稚拙といえばこれほど稚拙な歌はなかろう。だがここには歌わなければならない彼ひとりの生活がある。

 

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長く、朝日歌壇の選者であった近藤芳美(1913―2006年)が、松下竜一(1937―2004年)の歌を評した文章です。

松下竜一は幼い頃から病弱でした。10代で結核を病み、高校を4年かけて卒業。大学を志したが、実母が急逝。四人の弟の生活を守るため、進学は断念。家業の豆腐屋を手伝い始めました。昭和37年、25歳で短歌を作り始めたのですが、はじめて作ったのが冒頭の歌でした。

近藤の言う「歌わなければならない彼ひとりの生活」の「生活」。それを、松下は日記にこう記します。

 

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十一月十八日(昭和三十七年)

零時十五分に起床。仕事にかかる。風邪がひどく、しきりに咳が出る。少し熱もあるようだ。こんなあわれな身体で、懸命に働くのだから、どうか神様、けさはいい豆腐にしてくださいねとひとり声に出してまで願ったのに。またしても、さんざんのできそこないだった。煮釜に穴があいていて、そこから豆乳が洩れるのだ。布袋をしているのだが、たちまち焼けて役に立たぬ。

釜ひとつ、たやすく買えぬ貧しさがくやしくてならぬ。やけになって、ぼろ豆腐を投げ捨てていたら、父が心配して起きてきた。「おい、夜中そんな音を立てると近所が覚めるぞ」という。

畜生! みんな覚めてしまえ。しあわせに、ぬくぬくと眠っている奴ら、みんな覚めてしまえ。おれのこの泥のようにみじめな生活をたたきつけてやりたい!

 

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たたきつけてやりたい、みじめな生活。それは、歌わなければならないものでもありました。相反するような生活、それはどのような意味をもっているのでしょう。

みじめな生活はみじめなままで終わらせてはならならい。生活のなかにひそむかすかな尊さをすくい上げ、かたちを与えなければならない。そのような意味なのでしょうか? それもあるかもしれません。泥の中からハスの花が生まれるように、「たたきつけてやりたい、みじめな生活」は、歌い上げたとき、青春の孤独、ひたむきさという香を放つ、花が咲くのです。

近藤芳美は、炭鉱労働者の歌の時代が終わり、入れ替わるように豆腐作りの歌が気に留まるようになったといいます。夜明けにたったひとり、豆腐を作るいとなみ。それと、炭鉱住宅で暮らし、トロッコで切羽に向かう炭鉱労働者たちを重ね合わせます。不況、スト、転業と、社会の波に翻弄されていった炭鉱労働者たちと時代が違いつつ、どこか暗渠でつながると示唆します。

庶民が社会に向き合うとき、かならずあらわれる素朴さ、稚拙さがその地下通路なのかもしれません。飾らず、聞きにくい言葉は使わず、他者をあざむかず、社会の矛盾をじっと自身の暮らしの中で見つめようとする庶民。みじめさに耐えようとする怒り、無情な社会、貧しい暮らし、今日も夜中に起床し、また歌をつくる。このすべてが「生活」と呼ばれるものです。

 

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豆腐いたく出来そこないておろおろと迎うる夜明けを雪降りしきる

 

宮柊二(1912―86年)評(昭和三十九年三月)――第一作、出来そこなった豆腐、新しく作るにはもう時間がない。「おろおろ」としつつ迎えた夜明け。それまでが四句。五句の「雪降りしきる」は、この四句までの内容と何の因果関係もない内容なのだが、しかしこの五句ゆえに一首が生動している。つまり生活の中にあらわれるものは因果のみをもって現れるものではない。ただ実際をいっているために、詩の上で清新な飛躍になっているのである。四句が「夜明けを」で、「夜明けに」でないのもよい。

 

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宮柊二も朝日歌壇の選者でした。宮のいうとおり、生活は機械的な因果関係で成り立っているものではなく、むしろ自己を超越する多くの偶然で満たされているものです。しかしその偶然にどのように向き合い、対峙するかでその人の生活は異なってきます。

おろおろし、焦りのなかで外は白々と夜が明け始めた。豆腐屋の電球の灯りのなかから、外の雪降る夜明けを見る。雪はどの家や建物にも、路や橋にも、降りしきっている…。

「夜明けを」と表現することで、「おろおろする私」と「雪降る風景」を対立させることなく、両方が混合し、歌の世界は大きく広がりました。「清新な飛躍」と表現しているものです。生活にはこのような創造性もあるのです。

 

松下竜一は、昭和42年(1967年)から43年(1968年)にかけ、短歌と日記を綴り、それを『豆腐屋の四季―ある青春の記録』として自費出版しました。翌年、昭和44年に講談社から単行本として出版され、その後、講談社文庫になります。

当時、テレビドラマ化され、有名になったこともあったからでしょうか、やがて、東京拘置所に収監されている政治活動家たちが、こぞって『豆腐屋の四季』を読むようになりました。

革命や変革を夢見て闘い続けた人々が、獄中で、貧しい豆腐屋の青年の本に心を動かされた、という落差に私は関心をもちました。変革、革命という大義と比べたら、あまりにもささやかな貧しい暮らしなのに。でも、だからこそ、彼らが理解していた闘いのスローガンにひそむ空虚さを気づかせてくれたのだと思うのです。

 

昭和43年(1968年)11月、31歳の松下竜一は1年間の日記を大分県中津市の自宅で書き終えたのですが、同じ月、19歳の永山則夫は名古屋で第四の殺人事件を犯していました。そのような時代でした。

 

1980年代、コンビニエンスストアーやファミリーレストランが現れました。1990年代にはPCと携帯電話。2000年代のサブプライムローンとニート。

60年代の『豆腐屋の四季』から、あまりにも遠くまで離れました。この間に、私たちは、「生活」がもっていた豊かさと力、そして、生活を価値あるものと見なすまなざしを、次々と手放してきました。

私たちは、いま、それぞれの場所で、どうのように「生活」を再びつくり、豊かなものに育てるのか、それが大きな課題になっています。個々の情報に分解されない、怒りと慈しみと身体性をもった私の「生活」。その大切さの再発見こそが、奪い返すべき一歩なのでしょう。

2009年8月3日

権利が生まれるところ

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:14 PM
ねぶたを待つ

ねぶたを待つ

義務の観念は権利の観念に優先する。権利の観念は義務の観念に従属しており、それに相関・依存する。一つの権利はそれ自体として有効なのではなく、その権利と対応する義務によってのみ有効となる。一つの権利が現実に行使されるにいたるのは、その権利を所有する人間によってではなく、その人間に対してなんらからの義務を負っていることを認めた他の人間たちによってである。(シモーヌ・ヴェーユ)

 

10年前にサンネットを始めたとき、サンネットの設立趣意書に、このシモーヌ・ヴェーユの文を引用しました。金も人もモノもないなかでの会の設立だったためか、力んで作成したものです。

しかし、趣意書が長文になり、引用文を省いた短めのバージョンをつくりました。すると、もっぱら短文バージョンを使うことになり、もともとの長文バージョンのことを忘れてしまいました。最近、もともとの設立趣意書を見つけ、シモーヌ・ヴェーユの引用文も思い出しました。

 

当時、私たちは、関係者や専門家が精神障害者に対して「二級市民」のように扱うことが多いと感じていました。それが不満で、とても悲しいことでした。

彼ら、障害者の生活にかかわる大きな決め事であるけど、決める場に彼らを参加させない。彼らが当然知っていいことなのに、あえて知らせようとしない。そのような事態を目の当たりにしていました。たいていは「病気が悪くなるから」といった保護的な姿勢が事態を引き起こしていました。関係者は意識的に人権を抑圧していたわけではありません。ただ、障害者の権利を発展させる自分たちの義務について、十分受け止めていなかったのです。このような時代を背景に、私たちはこの引用文を関係者や専門家に投げかけました。

 

それから10年。今度は別の文脈において、この文を再確認しなければならないようです。障害者の側から、次のような考えが生まれてきています。

…精神障害者は医療や福祉サービスにおいてお客様であり、お客様=神様であるから、医療者・福祉関係者は精神障害者の奴隷である…。奇妙な三段論法ですが、これも教育や医療現場で問題になっている、過度な消費者意識の風潮とつながっているのでしょう。

今度は、関係者や専門家は「二級市民」になりさがり、義務を強制される対象になりました。関係が逆さまになりましたが、他者を「二級市民」とみなすことは同じです。

 

10年前も、現在も、対等な人間として向き合い、他者に内発的な義務を感じあう、そのような関係が不十分なまま、大きな課題として私たちの前に横たわっているのです。

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