なんとなくサンネット日記(個人ブログ) としおのつぶやき

2020年2月21日

赤々と

Filed under: お知らせ,つぶやき — toshio @ 12:43 PM

一人になって考える

1977年春、狭山差別裁判が最高裁に上告されていて、棄却を阻止しなければならないという支援者の全国集会が、東京でありました。前の年あたりから、友人から部落差別のことを教わり、集会に出るようになっていたのですが、全国集会は初めてでした。その時のことです。

明治公園だったのでしょうか、何万人もの参加者で立錐の余地もなく、しかたがなく舞台の上、発言者の背後のスペースに座りました。背後のスペースの反対側をふと見ると、見たことのある人が座っていました。何やら旗をもっています。

その人からチラシをもらい、精神障害者ゆえに差別裁判を闘っている人がいることを知りました。赤堀政夫さんです。そのチラシが、私が障害者との社会活動にかかわっていくきっかけ、扉を開ける鍵となったのです。

それから43年。精神障害者の運動も変わりました。

時代とともに変わっていっていいでしょう。でも、それは人々の心からの解放、弱い人々への情愛、友情と団結に満ちたものでなければならないと思います。

京都の前進友の会の江端さんのHPを紹介します。彼は患者会運動をずっと続けています。2018年11月7日の記事にも書きましたが、私は折々に彼と接近していました。2018年からはほんとうに心から打ち解けて、交流しています。いまになって、つくづく彼の思いの広さ、長年積み重ねてきた考えに驚嘆しています。以下、紹介します。

えばっちのタンブラー

https://kisanebacci.tumblr.com/

えばっちのはてなブログ

https://ebacciblog.hatenablog.com/

えばっちのホームページ 乾坤一擲

http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html

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追記

2018年6月3日、2018年12月26日、2019年8月10日の三つの記事を削除しました。

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追記2

狭山差別裁判を糾弾する解放歌というのが、私の70年代から80年代のマイ・テーマソングでした。

歌詞にある「解放」は個人の解放ではなくて、仲間の、多くの人々の「解放」だったのです。いまもそうであるべきでしょう。

母は闘わん

赤々と 燃える中で/あげたこぶしに 誓い合い

差別迫害 なくすため/母は解放のため 闘わん

結んだ ハチマキで/吹雪の中で 叫ぶのも

二度と許さぬ 差別のため/母は解放のため 闘わん

どんな 差別にも/闘う子どもを つくるため

兄弟姉妹と 手をつなぎ/母は解放のため 闘わん

2020年2月3日

津久井やまゆり園事件の公判が始まる

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:58 PM

りんご園を見守る

(福祉における契約という関係を考える№1)

■これはヘイトクライムか
年明けの1月8日、相模原障害者殺傷事件の公判が始まった。2016年7月の事件から3年半もたった。植松被告が「確信」をもって行った犯罪とはいったい何だったのか、何がこのような事件を引き起こしたのか、事件を超えるためにはどのような営みを創るべきか。公判を通じてこのような問いかけや議論が行われるよう願うが、植松被告の証言が伝えられるほどに、彼の奇行として扱われてしまいそうだ。マスコミの取り上げ方もコメントの少ないベタ報道が多く、風化を感じる。

一方で、この事件を「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)と表現する向きもある。植松個人ではない、その背景に障害者差別、少数者に対するヘイトがあるという視点だ。そういう面もあるだろうと思いつつも、それでは、重い障害者を死ぬべき存在=「心失者」と呼んだ植松被告に、「犯罪者」「差別者」と言い返しているだけではないか。単純な断罪になってしまうのではないか。

仮にヘイトクライムであるなら、彼のように衆議院議長に予告したり、事件後の速やかな警察出頭を行うものだろうか。植松被告に差別意識は確かにある。しかしヘイトクライムならば自分が多数派であることを誇示し、多数派の中に紛れ込み匿名化するはずだ。私はそう考える。

表立っては言われないけれど、この世の奥にある隠されている本音を、一人引き受けて、現実化するために実行したという、使命感のような「確信」が植松被告にある。その「確信」が出頭させた、と思う。仲間が集合して確認するヘイトの「確信」と、彼の場合は違うと思う。(朝日新聞の取材班は事件を『妄信』という言葉で表現した。信じやすいという意味の妄信ではなく、妄想と確信が混ぜ合わさったという意味である。『妄信 相模原障害者殺傷事件』朝日新聞出版、2017年)

植松被告の「確信」にはどのような背景があり、どのような経過で、いつ確立したのか。そこはつかみ難い。しかし彼自身が施設職員であったのだから、福祉施設のあり方、福祉制度、職員という問題を背景において、考えるのは当然だ。なぜ福祉は「確信」を防げなかったのか、あるいはなぜ職場は「確信」を育ててしまったのかという意味において。

■植松はやまゆり園のある地域で育った
福祉の仕事をしている私は、やまゆり園事件から、いろいろな課題が突きつけられた。これからも向きあっていかなければならないと思っている。事件が起きた直後は落ちつかない日々が続いた。上京したおりに押し出されるようにやまゆり園に向かい、植松被告の家の周辺も歩いた。

事件報道以降、やまゆり園周辺は「山あいの土地」とか「ひなびたところ」といわれた。市街地から離れていて、スーパーやコンビニなどあまり目にしないから、そのような言い方が間違いというわけではないが、東京圏に隣接している地域だから、単純な田舎扱いには違和感がある。八王子まで車でわずか30分ほどの距離である。

ここは相模川の浸食でできた河川段丘の土地であり、同様な地形は多摩地区や秩父方面にもある、武蔵台地が山地と接するところの風景だ。東京の都市部で生活している人間が、たまの休みには、緑多いところで楽しみたいと思って、向かえば、出迎えてくれる風景である。私にも馴染み深い。

丘陵の腹に沿った道路は、右に左に曲がりくねり、山梨県に通じている。小高い方の片側には、石積みがあり、その上に家々がぽつぽつある。低い方の側の一段低いところには畑があり、道に並行した畑の脇に家屋が点々と続く。市街地にはなくなった、人と畑が寄りそう暮らしがある。人工湖に近づくと水かさは増し、水面は青々として見えるが、遠ざかれば川面はずっと下がり、竹やぶや雑木林の木々に隠される。

やまゆり園はバス道から低い側にある。百数十人が入所していた施設は道路から何段か下がりながら、奥に向かい、扇状に広がっているので、道からは玄関の管理棟が見えるだけだった。(事件後、2018年5月、改築工事が始まり、玄関の前にはフェンスが立った。居住棟は取り壊され、新たな棟が建つという)

植松被告の家は、やまゆり園から歩いて10分ほどのところにある。やまゆり園から彼の家まで、「キッチンたかはし」という小さな食堂が一軒あるくらいで、目立つ店はない。バス道からそれ、膝くらいの高さの石積みの道を、ゆっくりと降りる。畑と竹やぶに挟まれた幅の狭い場所が見え、それ以上降りると川に落ち込んでしまうようなところの間に、10数軒の個人宅が固まっている。東京的な密集がここだけにある。彼が1歳の頃、東京都の教員である父がこの家を購入して、引っ越してきたそうだ。

この土地を実際に歩いてみると、事件について疑問が浮かんでくる。
30年近く前、植松の両親はなぜこの土地、この家を選んだのだろう。その疑問が一つ。勤務している東京から離れ、畑と共存している土地柄に背を向けるような東京的戸建てで暮らすのは、親たちにとってはいいかもしれない。大人なら部屋の中の自分の世界だけで暮らしていける。しかし子どもはそうはいかない。友だち、近所の人、学校やお店に見守られて育たなければならない。両親は彼をどのように育てようとしたのか、そして実際、植松少年はどのように遊び、育ったのか。

ここの土地は川に向かった階段状の斜面である。道路に並行した上下の段に、家と畑が点在する。生活空間は横に広がらず、車道に沿って直線的に伸びていく。主だったものが直線状に並んでいて、迂回は難しい。かつての植松少年が小学校・中学校に通うためには、やまゆり園の前を通らなければならなかった。彼はやまゆり園職員になるずっと前から、日々やまゆり園を眺めて大きくなった。

当時は学校のイベントにやまゆり園利用者も参加することがあったようだ。園の外を散歩する利用者・職員を目にすることもあったろう。土地の人がやまゆり園の職員になることも多いであろうから、この地域では大きな規模のやまゆり園がつくる人間関係がゆったりと広がっていたはずだ。彼は大学卒業後職員になったのだから、なおさら、地域とのつながりは広がったに違いない。

施設職員が施設入所者を殺傷しただけでなく、地域住民が地域の施設入所者を殺傷した。このようなことがなぜ可能になったのか、これが二つ目の疑問である。自分殺しのようだから。

植松被告が地域の中でどのように育ったか、報道はほとんど伝えていない。しかし、歩いてみると地理的な人間関係の濃さが見えてくる。その逆に、彼自身の行動や発言は人間関係の薄さを感じさせてきた。濃淡がミックスしている。とにもかくにも、このような土地で赤子の頃から育った彼が、地域の人間関係の真っただ中で、ヘイトクライムに走ったとは考えにくい。建設されて50年たったやまゆり園である。重度の障害者が収容されている閉鎖的な施設といえども地域の人間関係の中にしっかり根を下ろしているこの地に、対立を扇動しなければならない政治性を見出すことはできない。ヘイトクライムとは別の要素が彼を突き動かしたのだろうと思う。

■施設におかしさを感じた
月刊『創』編集長の篠田博之氏は、植松被告と面会を続けながら、この事件を考えている一人である。
植松被告は一時面会が禁止され、再び許可されるようになった2017年10月から、篠田氏は面会した。植松被告に、障害者施設で働きながらどうして障害者を殺すという考えに取りつかれたのか、どういう体験が彼を追い込んだのかと質問し、応答した植松被告の言葉を、篠田氏は次のように伝えた。

Q 障害者施設の職員の仕事は大変だと思うのだけど(やまゆり園に就職するとき)それは理解していたわけ?
植松:大変と捉えるかどうかは人によって違うと思いますが、私はそう思ったことはありません。むしろ楽な仕事だと思っています。(…)
Q じゃ君は仕事自体に疑問を感じたというのではないわけね。
植松:はい、そういうことは全くありません。ただ彼らを見ているうちに、生きている意味があるのかと思うようになったのです。それは現実を見ていればわかることだと思います
(『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』、創出版、2018年、PP45-46、太字根本)

植松被告は、2012年から2016年までの3年余、やまゆり園で働いたのであるが、はっきりと意識できない部分で心の変化が生まれたのだろう。入所している彼等の「生」とどのようにかかわっていいのかわからなくなる。植松被告の側にもっと引き寄せれば、「かかわる意味」がわからなくなった、ということだ。そのことについてふれる彼の手紙文が紹介されている。

(注:亡くなった利用者仲間がいるのに「おやつは?」と言っている利用者に疑問を感じるようになった植松被告は)そんな想いの最中、やまゆり園で勤務しているときに、ニュースでISISの活動と、トランプ大統領候補の演説が放送されていました。(注: 2016年のことであるが、インターネットで見たISISの殺人の動画を連想しつつ)トランプ大統領は事実を勇敢に話しており、これからは真実を伝える時代が来ると直感し致しました。漠然と時代の変化を感じる中で職員と相談している時に、深い考えもなく「この人たちを殺したらいいんじゃないですかね?」と声にしました。何気なく出た言葉でしたが、心失者の実態を考えれば彼らを肯定することはできませんでしたし、考えを深める程、全ての不幸の源と分かりました…。(『開けられたパンドラの箱』P49、太字根本)

この彼の文章から、「真実」とは隠されているものであって勇気をもって「真実」を語らねばならない、という彼の想念が読み取れる。「真実」を伝えるためにはISのように殺人も肯定されるという短絡もあったのだろう。障害者にかかわる意味はわからないが、どうすればいいかが「分かった」のである。
彼は、施設での現実に対処しても、現実の意味を深く理解することはできなかったのだろう。現実にそれなりに対応できるし、悩むようなこともなかったが、しかし彼は不可解さをずっと感じていた。その漠然とした疑問を、短絡的な直感によって表面化したとき、エゴイスティックで、グロテスクな形になった。このように私は読み取る。

彼がかかえていた「不可解さ」とは、重度の障害者と彼=職員の関係、「重度の障害者と職員」と「社会」の関係があやふやなところから生まれる不全感だったのではないか。
植松被告はその不全を埋めることができず、彼流のゆがんだ考え方に至ってしまう。「植松=隠れた真実(を知る人)」として全能感を身にまとい、欺瞞や不幸に満ちたこの「世界」を安定させることをめざす。その結果、重度障害者を排除することに…。

障害者総合支援法では、「重度の障害者」と「事業所」は対等で自由な人間であり、自由に契約を結んでいるという「観念」がある。

支援法のこのそらぞらしい観念は、植松被告が施設現状を理解するための助けにはならなかった。助けにならないどころか、逆に、不自由な人間関係を美辞麗句で糊塗しているには、何か深いわけがあるに違いないと、思考を横滑りさせるスターターピストルになったのではないか。植松被告が大島衆議院議長にあてた手紙(2016年2月)にはこのようにある。

「障害者は、人間としてではなく動物として生活を過ごしております」…「保護者の疲れ切った表情、施設で働いている職員の生気のない瞳」…「重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない所だと考えました」(2016/7/27毎日新聞報道)

植松被告には、思考を練り上げようとすると思考がどこかにスピンしてしまう「障害」か「病気」があるのかもしれない。それにしても、障害者総合支援法の世界観は、彼を納得させることができなかったのだ。

このように考えると、もしかすると、かつての措置制度であれば彼は納得したかもしれない。措置制度は、「重度の障害者も生存権があるから、自治体が責任もって施設入所を措置する」というものだ。「疲れ切った表情や生気のない瞳」があったにせよ、それは自治体が行うべき手立ての不十分性である。ところが障害者総合支援法のもとでは、「疲れ切った瞳」は「対等で自由な人間どうし」という契約関係の“嘘っぱちとして映る。

最近になり、やまゆり園のかつての園内処遇での問題が表面化している。施設の居室での面会を避けていたのは環境整備に問題があって、見せたくなかったのではないかと考える家族。身体拘束があったこと。外泊時の家族の暴力にきちんと対応したか不明な事例など。このような指摘は重箱の隅をつつくような揚げ足取り的なもので終わってほしくない。それらのいくつかは、障害者総合支援法の契約に基づく福祉という虚構に根差していると思うからだ。

このような問題がおきると、よく言われるのは次のようなことだ。利用者本人の自己決定ができるように職員は不断の努力をしなければならない。虐待防止・権利擁護の徹底。職員研修でのスキルアップ。職員集団で支援計画を作成し、共有し、モニタリングを行う…。しかしこれらはやればやるほど、職員は自分が「対等で自由な」人間とは思えなくなるものだ。

このような改善技術のもろもろの奥に、言い知れぬ「何か」が、洞穴の奥に住む魔物のようにじっとひそんでいる。魔物の体液がしたたり落ち、洞窟の外にしみだしてくる。種々の技法や計画の隙間から、べとべとするものがせっかく立てた技法や対策を少しずつ濡らし、ずらし、気がつくととんでもないことになっている。これではまずいとさらに計画や研修を重ねると、不思議なことによりおかしく、意図からもずれて、どんどん複雑に、奇妙な形になっていく…。そのような魔物がいるのである。

 

西角純志氏は、2001年から2005年までやまゆり園で働き、いまは専修大学の教師である。彼は事件について発言し、被害者家族や元職員との面談を続けている。彼がやまゆり園で働いた時代、やまゆり園は県立の施設であり、彼は非常勤の県職員であった。彼の問題意識は、障害者総合支援法への移行は、民営化(という下請化)、効率化(という非人間化)、労働の合理化(という労働条件の劣化)と捉える。

 

(やまゆり園が2005年民営化し、変わったことといえば)安い業者の方に下請けしてしまって、地元の業者、商店を使わなくなったという点が大きいんですね。例えば、食材や配給などです。地元に「キッチンたかはし」という食堂があって、僕がいた時には、利用者を連れてデザートを食べに行ったり、そんなことがあったわけですが、民営化以降それはなくなりました。
(社会臨床雑誌第25巻第2号、2017年、P27)

このような変化は些細なことだ。障害者総合支援法が要求する計画、研修、虐待防止、スキルアップといったことと関係はほとんどない。しかし実際に働いてみれば、このようなことが「できなくなる」変化はとても大きなことである。地元の業者や近所のお店の人とのふれあいがなくなり、会話がなくなる。地域に開いたものにしていこうとしていたそれまでの職員の行動目標のベクトルが反転する。そして、ベクトルが施設の中に向くとき、職員と障害者の関係も閉じる。その閉じた中心に、「重度の障害者と職員は対等で自由な人間で、自由な契約で結ばれている」というタテマエがハタハタとたなびく。

植松被告は知っているのだろうか? と誰か、このように問いかけたかもしれない。「植松、君が働くわずか7年前、西角氏は週30時間の非常勤職員で30万円近い給料をもらっていたんだよ。職員もそれだけ大事にされていたということだ。地域との交流もだいじな活動で、入所者と『キッチンたかはし』でデザートを食べ、君の通った小学校の運動会にも参加していた。園の組合の機関紙に西角さんは収容施設の問題を仲間といっしょに考えようと書いたりしたんだ。もちろんやる気のない職員もいて、面会に来ない家族もいた。でも、君が言う『生気のない瞳』の原因は本当に障害者のせいだろうか? 君は知り始めるやまゆり園のたった7年前、君の知るやまゆり園と似ているけど、ちょっと別の世界があったんだ。それを君は知っているのか?」(「創」、2016年10月号pp48-51、西角純志氏が書いたかつてのやまゆり園)

公立公営の施設運営を知っている人は、障害者総合支援法への移行を民営化=福祉の切り下げとしてとらえる。しかし問題の大きなところは、それだけではない、「民営化=福祉の切り下げ」と捉えられる現実が、「対等で自由な人間どうしの契約」という観念と同居しているということ。そしてその同居を理解せよと迫られること。そこに問題の黒々としたよどみと深みがある。

契約という「虚構」によって多くの福祉労働者が疲れていると思う。そして重い障害者ほどつらい思いをしている。このことについて考えていきたいと思う。

 

2019年7月25日

タナハシ・コーツの語りを聞いて

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:45 AM

 

スカイツリーが無かった頃

『ニューヨーク公共図書館』はフレデリック・ワイズマン監督のドキュメント映画。2015年の秋、12週間の撮影の後、2017年に公開された作品である。ようやく当地でも上映されることになったので、いそいそと映画館に足を運んだ。

ニューヨーク公共図書館は、本館・分館92ヵ所の大きな施設で、役割と機能はたいへん広い。映画を見て知ったのだが、日本でいえば、大規模な公立図書館に、コミュニティセンターや教育センターや児童センターの地域文化施設、それからいくつかの文化研究センターを足したようなものだ。職員数は3000名というから、それなりの大きさの自治体なみの規模ということになる。

映画は、ナレーションのない、ニューヨーク公共図書館の日々の一コマ一コマが映し出さていく。荘厳な本館。閲覧室。会議風景。いろいろなイベントの様子。ニューヨークの街角…3時間半の上映時間。途中に休憩があるのだが、「えっ、もう半分も見たの!」という気分だった。見終わって、考えてみれば、図書館にかかわるいろいろな人たちの語りが醸し出す魅力が、飽きさせなかったと思う。見ている最中は、何が面白いのか自分でもわからないけど、そのなかに引き込まれていた。

 

スピーチイベントの風景もあった。「利己的な遺伝子」で有名なイギリスの生物学者リチャード・ドーキンス。「パンクの女王」と称されるアメリカのシンガーパティ・スミス。ピューリツアー賞を受けたアメリカの詩人ユーセフ・コマンヤーカなど、著名な人びとが顔を出す。
いずれも短いシーンだが、みな印象的な語り口だ。

私にとっては、そのなかでも、アメリカの作家タナハシ・コーツという人がひときわ魅力的だった。アフリカン・アメリカンの彼が、米国で黒人として生きるとはどういうことかを息子に語りかけている著作、『世界とぼくの間』について語る。40代くらいの、エネルギッシュで真面目そうな人である。

黒人コミュニティーでの暴力事件の多さから、危険な黒人というイメージでみられるが、社会全体の黒人への差別、抑圧が反映したものが暴力であるというのが彼の主張らしい。暴力は必ず身近なところであらわになる。だから黒人コミュニティーなかで暴力が多いということをもって、黒人だけの問題にすることはできない。問題にすべきなのは、薬物と銃に溢れて、一瞬にして奈落に落ちるアメリカ社会の容赦ない現実を、力強く生き抜いているということだ。

 

…大丈夫だとお前に言ってやらなかったのは、大丈夫だなんぞと本心から思ったことが一度もなかったからだよ。お前に伝えたのは、お前のおじいちゃん、おばあちゃんが僕に伝えようとしたことだった。これがお前の国なんだよ。これがお前の世界なんだよ。これがお前の肉体なんだよ。だからお前は、その状況のなかで生きていく方法を見つけなければならない、ってね…

 

白人のようになるという「ドリーム」、安全な郊外に住むという「アメリカン・ドリーム」、黒人が平和に暮らせる未来社会を描く「ドリーム」。そのいずれのドリームも夢見ず、目の前の現実を生き抜く道を見つめるタナハシ・コーツ。

タナハシ・コーツの話を聞いた私の頭は、私がかかわっている精神障害の問題へとワープした。
事件報道でいえば、凶悪事件と精神障害をむすびつけられることが多かった。そういう偏見は根強くある。家庭内暴力、自死といったできごとだってある。
アメリカの黒人と暴力。日本の精神障害者と暴力。まったく異なる文脈だが、「ドリーム」に逃げ込まず、現実を生きるという道を考えなければならないというのは同じではないだろうか、というインスピレーションが私のなかにわいてきた。

 

『ニューヨーク公共図書館』のフレデリック・ワイズマン監督はこんなことを言っている。

 

アメリカ合衆国が非常にダーウィン的(弱肉強食的)政府を選んだこの時代に、(図書館ライフで)他人を助けるために情熱を注ぐ(あらゆる人種、民族、社会階級に属する)人たちの姿を見せることが、役立つんじゃないかとぼくは感じたんだ。

 

昨日はSさんの命日だった。11年が過ぎた。

2019年7月1日

20年、たちました

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:42 PM

今年も咲きました

1999年7月1日にサンネットを開所して、今日でちょうど20年。長いような、短いような感じがします。そこには忘れてはならないできごとやいつか伝えなければならない課題が、長い時間の中で静かに眠っています。

遠く去った人がいて、もう出会うことのない人がいるのですが、それでも、記憶と夢のなかで彼らと出会うのです。

節目の日。その夜。いろいろなあれこれを、ちょっと思い出してみましょう。

2018年11月7日

23年前の問いかけ

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:18 PM

仲間じゃないか

写真は、先日、京都から来訪した江端一起さんとの記念写真である。初めて来られた来訪者と心から楽しい時間がもてたというのは久しぶりだ。

精神病患者であり先鋭的活動家である江端さんとひざを交え、親しく語り合ったりすることはないだろうと、ずっと思っていた。というか、なるべく近づかないようにしようと、いつか心に決めていたはずである。

 

23年前、日本社会臨床学会の京都総会があった。1995年4月、ぼくの記憶では、そこで初めて江端さんを見かけたと思っている。

その頃、ぼくは岡山県で生活していた。1月に淡路阪神大震災があった年である。寒い時期の被災は、何もできないぼくを切ない気分にさせた。春になってホッとしたものの、多くの人は対応に追われていた。岡山駅から支援者を神戸に運ぶバスが連日出ていたし、ラジオやテレビでは被災者を受け入れる情報、たとえば「女子学生可、1名、倉敷市」みたいな報道が流れた。地元紙の山陽新聞になると何面もわたって毎日載った、と思う。

そんな春、ぼくは社臨の京都総会に新幹線で京都に向かう。倒れたり壊れたりの新幹線の高架は、神戸あたりに来ると復興しておらず、バスの代行輸送になった。どこかの駅のプラットホームに降り立ったぼくには、シートがかけられた建物がつくる断続的なブルーの列の町並みが見える。列から横にわずかにずれただけで、とたんに建物の被害は軽微になる。断層が走っている確かな証がこのブルーの列だ。人間の幸と不幸も、見えない地殻の上に建っていたのだと思うと、畏怖の感情がフツフツとわいてくる。

なのに、プラットホームにいる幾人かのガードマンたちは実に楽しそうに警備をしている。不釣り合いの制服の彼らの所作はにわか仕込みで、ふざけているように見える。風景と彼らの落差は、嫌な感じがしない。そのような振る舞いと比べるにはあまりにも自然は大きすぎるし、大きな自然に向う人間とはそういうものなのかと思った。

 

京都総会の開催場所は花園大学であった。スケジュールの合間、会場のホールを出て、エントランスに足を入れると、江端さんが小さなハンドマイクをもって叫んでいた。

“学会に出てみたけどおもろうない。学会よりだちんこ(友だち)になろう”。そんなことを言っていた(と思う)。ぼくは40代前半、江端さんは30代前半だったろう。「ああ、こんな若い病者の活動家、こんな活動スタイルが生れてきたんだ」と頼もしく思い、でも“あと3~4年たったら福祉から足を洗うんだ”と思っていたぼくは、あまり近づかないようにしようと思った。

その時、なぜ、ハンドマイクのその人が「江端さん」とわかったのだろう。ゼッケンかハンドマイクに「前進友の会」とか書いてあったのか、あるいは誰かが教えてくれたのだろうか、それは覚えていない。ともかく「彼」だと思ったのだ。

 

さらにその5年前にさかのぼる。1990年10月、日本臨床心理学会も京都での総会だった。その事前打ち合わせのため、8月にぼくは京都に行き、実行委員長だった亀口公一さんと精神障害者の作業所「やすらぎの里」を訪ねた。なぜ、亀口さんが「やすらぎの里」を選んだのかは知らなかった。女性スタッフがいて、作業をしていたが、ぼくらの訪問をあまり歓迎していない様子だった(と記憶している)。総会イベントに「やすらぎの里」がかかわることはなかった。でも、ぼくはその時、作業所の「やすらぎの里」は患者会「前進友の会」と両輪の関係であることを知った。

たぶん、その遠い記憶ともどこかで結びついて、5年後にチラッとみた江端さんに対して強い思いが起きたのだろう。

 

その「やすらぎの里」に向った日、亀口さんと京都を走る車の中で、車内のラジオからイラクがクウェートに侵攻したニュースが流れてきた。「そんなバカな!」とぼくは思った。

それから、学会のほうは京都総会を機に激論となり、国家資格をめぐって翌年に分裂。その間、「そんなバカな!」と、これまた何度も思うことがあった。そんなこんなでやがて1993年の日本社会臨床学会の設立にいたる。ぼくの所属する学会は変わり、5年後に再び京都に降り立って、江端さんと出会ったのである。イラクのこと、震災のこと、学会のこと。激動の時期のこれらと、江端さんの思い出が重なり、ぼくのなかの江端さんは「嵐を呼ぶ男」となっている。

精神医療を批判的に問うという領域で、ぼくと江端さんは別々の土地で、別々の視点の道を歩んできた。それがいま、顔と顔を合わせて話し合い、知りあっている。遠い遠いところを飛んでいたブーメランが、とんでもないところから返ってきたようだ。不思議なものである。

23年前の「だちんこになろう」という彼の叫びを思い出しつつ、いまこそ、彼の問いかけにできる限り応えたいと思う。

 

2018年7月24日

2008年という年

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:01 PM

 

雨が降る

■19:44のメッセージ

Sさん。あなたが亡くなって、ちょうど10年になります。月日がたったのですね。長いような、短いような時間でした。

半年入院しているあいだ面会できないままでした。亡くなったと、ある日、突然聞いたのですよ。

どのような病状だったのでしょう。何通かあるとされている遺書はいつ書かれたもので、何が書かれているのでしょう。線香すらあげられず、どこの墓地で眠っているのでしょう。私は何も知りません。

あなたとの関係は、あの冬の入院と同時にはさみで切るようにプツリと途絶えてしまいました。だから残された私(たち)が「真実」にむかってたどろうとすると、目の前には霧につつまれて見通せない回廊しかなく、しかもそれはエッシャーの描くだまし絵のように宙ぶらりんなっているのです。

私はいまでも同じ町に住んでいますから、街角や店を通りかると、ふとあなたを思い出します。まぶたに浮かぶあなたは、いつも別れた時と同じ。冬の町を背景に、長めのコートを着ています。

 

先日、ある集いがありました。私は分科会や講演会を担当しました。その一つに、「あれから10年、ぼくらはしぶとく暮らしています」という題をつけました。どこかであなたを意識していたのです。

にぎやかに過ごしたのですが、あなたを知らない参加者がタイトルを言い間違って、「あれから10年、ぼくらはしぶとく生きています」といいました。私は、ドキッとしました。そして「Sさん、あなたは生きてはいないんだよね」と胸の中でつぶやくのです。意識していたはずのあなたとの境を、あらためて思い知らされました。

 

7年ほど前、Sさんが亡くなって3年たったある日、利用者が使う4台のPCの1台にあったあるファイルが気になり、開きました。ネットに関した3つの短いデータを並べたテキストファイルです。作成された日時からすぐにあなたの作成とわかりました。2008年2月7日19:44。そんな時間に入力できるのは、あなたしかいませんでしたから。

3つのうち一つはサンネットに関するデータ。あとの二つは、“某グループ”に関するデータでした。それを眺め、あなたは某グループとサンネットの間に挟まれていたんだなあ、悩んでいたのだろうなとつくづく思ったものです。

 

もし“某グループ”の現状を、あなたがどこかで見ているなら、驚いていることでしょう。

あなたはお母さん大切にしたいと思っていました。それにつながりながら “某グループ”の「お母さん」もだいじにしたいと思っていたでしょう。それは知っています。だから「挟まれた」のですよね。しかし彼らは「親子のつながり」など何も求めていなかったのです。それはいまならわかるでしょう。

だから、あなたは挟まれる必要も、悩む必要もなかった…私はそう思っています。

 

あの出来事、表面的にはセルフヘルプ活動をめぐった出来事。

あれ以来、私は、福祉に関して別の可能性をいつも考えるようになりました。9・11以来、飛んでいる飛行機がビルに突き刺さるのではないかと想像する人が多くなったように、私は福祉に関して、本来の使い方ではない可能性について、考えるようになりました。

例えば、車イスにのった脳性まひ者の医師、熊谷晋一朗氏は、何にも依存しないで生きられるような人間はいないのだから、「多様な依存先を選択できる状態が自立」なのだと言ったりします(「ちくま」2018年8月号pp16)。すると、私は、ひとりで突っ込みを入れるのです。「この場合の『依存』とは、生命や暮らしにとっての必要性ですよね、他者を支配したいといった欲望のことではないよね。『選択』とは、提供者と受益者が相互に理解したり、理解し合えたりする種類の選択だよね」などと訳の分からぬ但し書きみたいなことを、誰かに向かってつぶやきます。

つまり、〈相手が知らないうちにほしい情報を取得し、あるいは相手が誤解するような行動をし、その結果、多様な情報がまとまった段階で、人に知られずある選択をする〉、それは自立ではないよね、と強迫的に念を押したくなるのです。

考える前提が変わりました。あれは、新しい時代の始まりだったのでしょうか? それとも古い時代の終わりの始まりだったのでしょうか? それを考えるとき、あなたの死はどのような意味を持つのでしょうか。それらは宛先不明の問いとして、霧の回廊のなかを漂い続けているのです。

 

■加藤智大(TK)による秋葉原事件

あなたが入院して亡くなるまでのあいだの2008年6月8日、あの秋葉原無差別殺傷事件がおきました。犯人が青森市出身だということで衝撃が走りました。

社会学者の見田宗介は、40年前の1968年の、やはり青森出身であるNN(永山則夫)が起こした全国連続射殺魔事件と比較して、次のように書いています。

 

40年前の事件については、かつてこれを「まなざしの地獄」として詳細に考察したことがある(が…)2008年の事件についてこれとの対比で見るならば、それは「まなざしの不在の地獄」であった。

アキハバラの犯罪の出発点となったのは、犯人TKが仕事に出てみると、自分用のつなぎ(作業服)がなかったことである。TKはいったん自分の部屋に帰って、自分は結局「だれからも必要とされていなかった人間」であると感じる。(「成熟した人間は、必要とされることを必要とする」エリクソン)(『現代社会はどこに向かうのか―高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018、pp.104-105)

 

見田は、アキハバラのTKもリストカッターも、生きる意味を見失った孤独の衝動的噴出とみています。TKが内向して自分に向かったのがリストカッターの少女であり、リストカットが外に向かって爆発したのがTKであると。

その全体を俯瞰するように、現代人はなぜこのように生きる意味を失ってしまったのだろうと、社会や文明のあり方を老社会学者が問いかけました。それがこの本のテーマなのですが、ごく簡単にダイジェストします。

 

——現代文明に直接つながる2500年前から人間は世界のとらえ方を変えた。2500年前、世界規模で生まれた交易、都市、貨幣というシステムは、人びとの生と思考を共同体という閉域から解き放った。しかしそこには「無限性」という真実(畏怖、苦悩、戦慄)の前に人間が立つことになる。この「無限性」に立ち向かうために、人間は「生と思考」を再構築するのだが、〈未来のための現在〉=〈目的のための手段化〉という思考もそのひとつだった。そのような思考方法が人々の心の奥に植え付けられてきた。

その結果、(現在を否定するのだから)人々は生活や社会のために日々苦闘することになるが、その努力が、未来の豊かな生活、満たされた社会となってわれわれの前に現前するにちがいないという“仮説”に希望を託し、仮説の世界を生きることになった。

ところが1970年代からの欧米や日本、1990年代からのより広範な先進国では“仮説”の虚構性があらわになる。環境問題や貨幣システムの限界といったできごとによって、「無限性」のなかから「有限性」が急に立ち上がったからだ。
現在を否定して未来を求めてきたのに、その未来もないのなら、私は世界に独りぼっちで残されるのだ…。実は、生れてきた意味も、生きる意味もなかったのだろう、と――。

 

見田はこんなふうにもいっているのです。

「加速に加速を重ねてきた(人類の歴史という)走行の果てに、突然(豊かな社会の実現という)目的地に到達して(仮説を失い)急停車する高速バスの乗客のように、現代人は宙を舞う。」(『現代社会はどこに向かうのか』pp.111)

TKも宙を舞ったひとりかもしれません。

中島岳志著『秋葉原事件―加藤智弘の軌跡』(2011、朝日新聞出版)という本があります。表紙は当時TKが派遣労働者として暮らしていた静岡県裾野市の風景写真。国道246号線をトラックや乗用車が走っていて、その向うに工場が見えます。TKは、事件の前年の秋から、トヨタ自動車の関連会社、関東自動車工業で働いていました。

本の帯には、「なぜ友達がいるのに、孤独だったのか?」と書かれています。「加速に加速を重ねてきた」近代の象徴のような工場、自動車専用道路、疾走する車両が映った表紙。表紙から離れた「宙を舞う」帯には「孤独」が書かれるのです。実に象徴的ではありませんか!

 

TKが働いていた関東自動車工業(現トヨタ東日本自動車)は、2020年12月末までに裾野市の工場の閉鎖を決定したと、先日報道されていました。彼が「必要とされていない」と感じたロッカーのある工場全体が、必要とされなくなったのです。自動車産業は全車電気自動車時代に向かって再編合理化を疾走しています。それは投資と消費の再開拓ですが、工場労働者や家族・下請け孫請け・派遣アルバイトは、時代の流れに必死でしがみつかねばなりません。ところが「疾走する流れ」にとってはしがみつかれる必要などなかったりするのです。

 

■2008.9.15リーマンショック

2007年アメリカの住宅価格は下落。サブプライム・ローンが不良債権化し始めました。日本にも影響は押し寄せ、雇い止めが表面化しました。雇用状況が悪化していたことがTKを心理的に追い詰めたのかと問う者もいたのですが、それは関係ないとTKはいいました。しかし、さらに事件後3ヵ月の9月15日、リーマンショックが世界的規模の金融危機を引き起こすと、日本の派遣労働者も絶望的な状況に直面することになりました。

リーマンショックをただの金融危機ではなく、そこに人間が生み出した「無限性」の破綻を読み取ろうとする見田は、「無限性」の由来から語り始めます。

 

球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても際限はないが、それでもひとつの「閉域」である。
グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。これもまた比喩でなく現実の論理である。21世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追及することをとおして立証してしまった有限性である。それが最終的であるのは、共同体にも国家にも域外があるが、地球に域外はないからである。
2008年「GM危機」は、直接にはサブプライム・ローン問題に端を発したグローバル・システムの崩壊の一環として現実化した。サブプライム・ローン問題とはアメリカの都市の貧しい地域の住宅価格が上昇し続けるはずであるということ、地域の貧しい人びとがその住宅担保ローンの元利を支払い続けることができるはずであるということ、この仮定(とそれから発展した虚構のシステムが…)一挙に崩壊したものである。(『現代社会はどこに向かうのか』pp.13-14)

 

経済的に困窮している貧困層に貸し付けた(非人間的とも思える)サブプライム・ローンに数学・工学的処理をほどこし、分割化・細分化をへて、ローリスク・ハイリターンであるかのように再パッケージしては、商品化されていました。

ここに見られる、金融化、グローバル化、数学化による「無限性」は、平らな「無限性」ではありません。奈落に落ちていくような、あるいは恒星の光が届かない宇宙のはてに永遠に浮かんだままの、そういった種類の「無限性」です。

2500年にわたって広がり、成長してきた「無限性」の破綻が始まる。そして、人間的な「有限性」が大きな歴史物語として立ち現れるのではないか、見田はこのように予感するのです。

 

■ゲーテッド・コミュニティ

今年、カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを、是枝裕和監督の『万引き家族』が受賞して話題になりました。昨年、同賞を受賞したのは『ザ・スクエア 思いやりの聖域』という映画でした。(リューベン・オストルンド監督、スウェーデン・ドイツ・フランス・デンマーク合作、2017年)。

ザ・スクエアが面白かった”という知人の声に誘われて、映画を見ました。するとここにも2008年が顔を出しています。『ザ・スクエア』のパンフレットにまだ40代の若い監督の次のようなメッセージが載っていました。

 

2008年、スウェーデンにはじめてのゲーテッド・コミュニティがオープンしました。門がついていて、認定を受けたオーナーのみがアクセスを許されるその居住区は、特権階級の人々がどのように自分たちを周囲から隔離するかの極端な例となりました。これは、政府債務増加と社会的利益の減少、ここ30年での貧富の格差拡大と共に、ヨーロッパ社会がますます個人主義になっていることの象徴でもあります。…一体、これが私たちの望む社会の発展なのでしょうか?(リューベン・オストルンド 2017年5月)

 

ゲーテッド・コミュニティとは、門と塀で囲われた地域に住むことで、外部者の流入を制限し、防犯性を高めようとする建築物です。スウェーデンにはじめて建てられたのが2008年なのですね。貨幣システムが伸びきった最先端であらわれたのです。

監督は、「格差、隔離、特権階級」がはっきり見えた2008年を意識しつつ、それを越境するものとして『ザ・スクエア』を撮りました。映画は、移民問題やSNS、格差社会の問題をかかえたスウェーデン社会を背景に、現代美術館のキュレータである主人公が、些細なことから窮地に陥り、不恰好でこっけいな行動を起こしながら、しだいに人間的決断をせまられる姿を描きます。

 

…(自らの主義にもとづいて行動しようとして、躊躇せざるをえない場面に遭遇することがあります。理想と現実の矛盾に直面するのです)本作で、我々は人間の弱さに直面します。正しいことをしようとするときに最も大変なことは、共通の価値観に同意することではなく、実際にそれに従って行動することです…     ( 同 )

 

いろいろな意味が読み取れる映画ですが、私には「関係性がもつ多様性」とでも表現したくなるものが感じられました。「多様性の関係」ではなく、関係性そのものに豊かな世界――論理を超えるもの、非条理の出来事、異質の文化――があって、その多様な世界を不恰好に生き抜くことが、ゲーテッド・コミュニティを超えること、そんなメッセージを読み取ったのです。それは見田の主張とどこか重なるのではないだろうかとも感じています。それはまた別の話ですが…。

 

2008年に思いを馳せてみましたが、さて、Sさん。

私は思うのです。あなたは、2008年2月7日19:44ファイルを記入して、そのあとどのような思いでドアを閉めたのでしょうか。事務所の電気を消し、エレベーターで下り、家路につくときどのような気分だったのでしょうか。

あなたはそのとき病気だったと思います。でも、闇に光るディスプレイに彼らの二つのデータを見ていたあなたは、表面上のデータと病気の症状を超えて、何かを知ろうとしていました。するとデータの奥底から何かが現れたはずです。人間の欲望の深淵をのぞきこむと、谷底から吹き上げるなまあたたかいものにつつまれます。切り立った崖に立って谷底をのぞくと、足の先から引き込まれていくような錯覚に陥るものです。同じような感覚があなたを襲ったのではないですか。

 

…文明的孤独をリストカッターとTKが体現しているとしても、その人々の群れをターゲットにしてしまう人間がいないと言い切れるだろうか。絶望的な孤独に近づき、そこを住処にするもう一つの「サブプライムローン」がないと断言できるだろうか。秘密の手法を門塀でしっかり閉ざし、内側に暴力と憎悪を収めこむ建造物をつくり続ける。それは現代版のバベルの塔ではないか…

 

その時、あなたが見たものは理想と現実の矛盾や躊躇ではなく、あなたの価値観や信頼感、心のよりどころ、深いところの記憶と感情を射抜き、破壊してしまうようなディスプレイからの逆照射だったのではないですか。

2008年。もし、近代の終わりが始まった年だとしたら、彼らの欲望の深淵はその近代の最果てかもしれません。それもふくめて終わりの始まりだったかも知れませんが、2008年、それはまだ不透明でした。

 

あなたが終了させた生は、人間性と関係性にねざした新しい世界の始まりの始まりだった。そう思いたい私がいます。終わりの始まりは生き残り、始まりの始まりが命を絶つ。ポロリとこぼれるような矛盾。

2008年がどのような年だったのか。それはこれからもっと明かになっていくでしょう。その一方、あなたの生と死は歴史の堆積のなかに静かに埋もれるのです。風にそよぐレースのカーテンように、人びとの歴史という風があなたをなぜては過ぎ去ります。何千万回、何億兆回と繰り返しては過ぎていきます。元々が何だったのか、生れていたか死んでいるのか、それすら忘れてしまうかもしれませんね。でも、それはそれでいいのではないかと思います。

私のなかでは、Sさん、あなたはずっとあなたのままです。

だからまたいつか会いましょう。会ってくださいね。

 

2017年7月24日

虚構の「苦情」

Filed under: つぶやき — toshio @ 11:48 AM

 

パステルアートが始まりました

パステルアートが始まりました

「苦情がいいサービスをつくる、本当にそう思っていたんだ」

 

60歳近い、たたき上げといった雰囲気の彼は、人懐っこそうな表情を見せて語った。もし、彼が魚屋か寿司屋の店主であったら、威勢のいい、客に好かれる店ができただろうと私は頭の中で考えた。庶民派という雰囲気を肌で感じる。

彼は障害者施設の職員。その施設は、利用者にとってより良い施設でありたいと、この地域で先駆けた活動してきた。開かれた施設づくり、職員の相互研修、関係機関を巻き込んだ苦情処理、地域の横のつながり…こういったことについて、彼は頭と口を動かすよりも、先頭に立って手と足を動かしてきたのだろうと思う。

「なんていうか、クレーマーなんだな。長い時間、話して、ようやく納得してもらえたと思ったら、その日に、県に訴えている。次から次へと苦情の種が変わるし、わけがわからない…」

彼の語りは愚痴っぽさがない。まるで他人事のように語る。居住系の施設に入所している利用者の母親が執拗に苦情を繰り返しているらしい。

 

「苦情は、どんどん話してください。県でも、なんでも話して、みんなで話していけばいい。そう思っていたから、それはいいんだけど…。利用者の母親なんだけど、前に担当していた職員が辞めたのは、そのせいだったんだ。自分が担当してわかったけど。いい職員だったんだ。俺も休みたくなったよ。充電が必要だけど、施設長が休ませてくれないしなあ…」

 

現在進行形の話らしく、具体的なことは何も言わない。しかし彼の思いは私の胸にずんずん響く。

苦情に対して百戦錬磨の経験が、役に立たなくなっている。誰でも言いたいことは言っていい。行政だろうが、同業者だろうが、巻き込んでみんなで考えていく。なるべく公開していけばいい。そういう中で、苦情は前向きなものに変わり、福祉サービスのこれから在り方にむかい、利用者も家族も職員もふたたびある種の調和に再帰する…そういうセオリー、やり方だったが、それが通用しない。

いったい何が起こっているのか。彼はとんでもない落とし穴にはまってしまったらしい。

母親の言っていることはわかる。少なくとも表面上は。言葉上は誰が聞いても無理難題である。無理難題の奥に調和を求める気持ちがあると彼は思っていたが、実は、ない。母親は自分の言い分に確信を持っていて、自分の心に穴があいているとはつゆとも思わない。30分も40分もの彼女のわめきを聞いていると、彼の心のほうに穴があいてくる。

母親と自分の関係に穴があいているから、どちらかが引き受けなければならない。するとこちらの心が折れていく…。

 

「母親の言い分を聞いていたら、『そっちに座っていれば聞こえないでしょ。こっちに来なさい』と自分の横に座らせようとする。そして30分も一人でしゃべりっぱなし…」

手招きをして、彼を呼び寄せたのだという。

度重なる苦情だから、当然、面談室か応接室で話したに違いない。職員側は一人か二人。ふつうは向かい合い、対面の位置に座る。それがセオリーというものだが、彼女はそれを崩した。

崩れたのは手招きにそってしまった彼のプライドか。あるいは、母親と彼とで作ってきた「セオリー=虚構」であったのか。彼は、このエピソードを繰り返し話した。

 

さて、福祉サービスのかなりの部分は、虚構の人間関係をつくることで成り立っている。たとえば入所施設、グループホーム、ショートスティ(ホームヘルプサービスのある部分も)、それらは社員寮や独身寮など、日常的な暮らしや家庭の代替である。

生活訓練、就労支援は、学校や会社の代替である。代替物は本物ではないが、会社や家庭などをモデルにしている。福祉サービスはスタッフという人間を通じて行われるため、支援関係の「場」や「空間」を、意識的無意識的に既存のモデルをあてはめ、似させていくのである。

 

下の表は、居住系サービスを念頭に置いているが、(A)領域が既存のサービスである。そのサービスは家庭に代わるモノと言いつつ、そこにある人間観、関係をつくるシステムが空間を閉鎖的、抑圧的にしてきた。

利用している当事者もそこで働く職員も、代替という虚構性を重々承知し、それを改善しよう、脱却しようとしてきたのが、1970年代以降の営みであったと思う。自立運動に代表される脱施設化の運動は、横軸に位置づける。それは(C)への移行を推し進めた。利用者の自治会づくり、当事者中心の施設運営、開かれた施設づくりなどは縦軸に置こう。それは(B)への移行を推し進めた。両方の軸と発展的になる領域(D)には一部の自立運動、薬物からの回復者の営み、一部の精神障害者の地域活動、共生共学の運動などが含まれ、代替という枠を超えたあらたな人間関係のありようを生み出してきた。

 

y軸 ↑ 人間的生命観

ビオス的生命観(居心地、平等、共同)

(B)人間味ある暮らし

(制度内改革、インフォーマルな関係を内包)

(D)生き生きした自立運動

(相互的、地域への広がり)

ゾーエ的生命観(不平等、操作的関係)

(A)閉鎖的・抑圧的空間

(既存の制度)

(C)権力闘争的自立運動

(支援関係の固定化)

 

現在のモデルの追認

モデルからの脱却

(地域、インフォーマル)

 

開かれた制度 → X軸

 

 

いまどき「施設は家庭の代わり、職員を親と思ってください」とあからさまに言明する事業所はないが、「利用者様の人権を尊重し」「ご家族のニーズに沿ったサービスを」提供しているという言い方で、家庭の代替をしていると匂わせる。

そこに反発し、「それは嘘だ!」「もっと違う何かを」と、先駆的な活動や地道な活動が展開されたわけだが、いずれにしても福祉サービスがもつ虚構性をふまえている。

 

そのうえで、先ほどのクレーマーに戻りたいのだが、彼女は、人間関係の虚構性を、虚構性の側へとさらに反転させたといえよう。(彼の施設は(A)ではなく、(B)の領域だと思うが、書きの表は単純化して描いている)

 

↑ 人間的生命観

(A)閉鎖的・抑圧的空間

(既存の制度)

← より閉じる

開かれた制度 →

(X)

職員も非人間化される「疑似的家族」

より非人間的 ↓

 

彼女は、ベテラン職員を子ども扱いする。手招きして、自分の傍らに座らせ、言い聞かそうとした。それは息子(利用者)の面倒を十分みようとしない兄(職員)に説教する母のようではないか。母は施設の外にいて、施設の中は「面倒を見る兄や姉」という職員と息子の空間である。(A)では、母は「わたしの家庭でできない息子の面倒を、代わりにお願い」していたが、(X)になると、母は、疑似兄にしっかり教え込む「母」の役割のまま、むしろビッグマザー化している。

 

(X)には「苦情がいいサービスをつくる」という可能性はない。サービス改善に向う可能性は、職員と利用者と家族が、共同して正反対に向かおうとするときに生れるのであって、そうではない「苦情」に向きあい続けるのはベテラン職員の彼であっても根をあげるのはやむを得ない。

息子の環境をもっと良くしたいのに、よくならないので困っているというのが「苦情」の意味だ。もっと自分の思う通りにしたいと思っている母親が、語り続けるのは「苦情」ではなく「生きがい」なのかもしれない。

 

職員の彼の心が折れそうになるのは、「苦情」に向き合っているわけではないのに、「苦情」に対処しなければならないと信じているからだ。周囲の人々もそう考えていて、「苦情解決担当者」を降りるわけにはいかないからだ。

このように、いくつもの場面で、断片化した人間関係の虚構が生じるのは、福祉の基盤にもともと「虚構」があるからだが、もう一つ、理由があって、現代社会を生きる人間にとって「虚構でない、リアルな関係」をしっかりつかまえられなくなったということによる。これは意外と大きな問題だと思う。

2017年3月28日

卒業するあなたに

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:16 PM

青森で見る、なごり雪

青森で見る、なごり雪

 

先日の夕方、黒い雲が残りつつ、西の空に透きとおるような青空が小さく顔を出していました。まるで、空の神様が「青森にも春が近づいていますよ」と挨拶しているようでした。

今頃、あなたは青森から東京に。南にと向っていることでしょう。新しい生活が始まろうとしているのですね。人生には大きな区切りがありますが、卒業・就職の区切りも大きな出来事です。
そんな時期に同封した『プシコ  ナウティカ』(世界思想社、2014年、松嶋健)をプレゼントさせてください。

仕事と人生にはいろいろなことが起きます。不安なとき、達成感あふれるとき、悲しさにつつまれるとき、どこを見ても元気が見つけられないときも…。喜怒哀楽が織り成される。それが仕事、人生というものです。誰もがそれを経験します。

きっとあなたにもそんないろいろなことがあって、いつかふとこの本を思い出しては、パラパラとめくるかもしれませんね。3ヵ月か、3年後か…もっともっと後かもしれませんが。でも、この本は、いつもあなたを応援してくれるだろうと僕は信じて、贈るのです。

 

この本にある小さなエピソード(p194)。

イタリアの司法精神病院に入院していた20代の男性、ヤコポは施設の生活に適応していた。しかし自分で自分のことを決定しなければならない地域生活を始めようとすると、誰かが自分を見張っているという妄想に襲われて、調子が悪くなる…。僕の想像ですが、ヤコポは知的障害がありそうです。彼は、パンを丸ごと出されれば、そのまま切らずに一口で食べてしまう、そんな人だったそうです。

いつまでも司法精神病院にいられるものではありません。退院して、薬を箱詰めにする仕事場に通うことになります。ところが仕事場に通うバスに乗ると、ずっと左側を向いている彼の癖のため、左側に座ったときは降りるべきバス停がわかるのですが、右側に座ってしまうと外が見えず、終点まで行ってしまうのです。

最初は看護婦が付き添っていたのですが、そのうち、バスの運転手やその時間にいつも乗り合わせる乗客が、ヤコポをいつも左側の座席に乗せるようになったのでした。

これだけの、どこにもありそうなエピソードです。

ヤコポは左側のバス停を見たい、けれども右側と左側のどちらの座席に座れば左側のバス停が見られるか、それが彼にはわからない。そこで彼が見たい位置になるように同乗した人々が応援したのではないでしょうか。つまり、彼がキチンと仕事場に行けるように看護したのではなく、見たい風景が見られるように応援した。そう思いたいものです。

最初付き添った看護婦は、バスに同乗した人々が彼にそのように振舞うようにモデルを提供したともいえます。

 

この本はイタリアが舞台というところがいいです。旅行している気分になりますから。イタリア精神医療の歴史もかなり詳細に書いています。社会思想の知識が必要な部分もあります。精神医療とどう関係あるのかわからないというところもあるかもしれません。でも、ヤコポのようなエピソードがところどころに挿入され、旅人のような著者の視点から語られます。専門家なら見逃してしまうようなエピソードですが、こういったエピソードは僕らの仕事が社会に開いているという当たり前の事実を気づかしてくれるのです。

 

10年前、私はある事件を目撃しました。なんかのちょっとしたすれ違いかと思っていましたが、実は、その根っこには、ある人々の隠された欲望があって、長い期間それに悩まされました。

いま、その事件を後押ししていたものは「市場原理」であり「能力主義」であると確信しています。

福祉も医療ももちろん市場経済の枠組みの中にあるのですが、それでも市場経済にはない「人間的な何か」があると、当時は思っていましたが、いまや福祉や医療も、それらの原理が全面を覆っています。

ヤコポの事例であれば、いまでは、介助を行う体制や送迎を充実すべきだという意見が多いでしょう。「人間的な何か」はシステムの背後に隠れてしまいました。バスの乗客や運転手に彼の介助を頼むのは無責任だと考える人が多くなりました。「市場原理」に支えられたシステムしか目に入らなくなったのです。

 

僕らの仕事は、時に、無意味と思うことがあります。壁に突き当たり、トラブルに打ちひしがれる。悲しみは人生を豊かにしてくれますが、つらいことです。そんな時、思い出したら、この本を開いてください。見えにくくなった「人間的な何か」を気づかせてくれると思うのです。

あるいは、休日にこの本を枕にして昼寝をするとストレス回復になるかもしれませんよ。

それでは、身体をだいじにして、お元気にお過ごしください。いってらっしゃい。

 

2016年10月8日

トマトソース

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:27 PM

勝ち組・家族の肖像

勝ち組・家族の肖像

■写真

この写真の右には「大東亜戦捷(せんしょう=戦勝)記念祝賀會(会)」という幕が垂れている。前では幼い女の子が日の丸を広げている。

一番後ろの列、左から2番目に立っているのは私の父だ。母や兄姉はなぜか写っていない。しかし、皆、正装しているから、公的な集まりであることがわかる。頭にリボンをつけている女の子がいる。これは、学校や行事などで必ず装うこの地の習慣である。場所はブラジル・サンパウロ、1945年から何年もたっていない頃だと思う。

日本が米英と戦った太平洋戦争、大東亜戦争の勝利を「祝う」集まりの記念写真である。父も母も、生前にこのことについては何も語らなかった。

壁に囲まれた場所で撮った写真、まるで人目を避けているようだ。参加者の表情から「祝賀」という喜びは伝わらない。じっと見ていると、「日本が勝った」というこれらの人たちは、実は「日本は勝っていない」ことを知っているのではないか、そう思えてくる。

彼らは、世界大戦後、日本が勝ったと主張した「勝ち組」である。ブラジルの日系社会の勝ち組は有名だが、南米各地にあったという。ブラジルの「勝ち組」は「負け組」より多く、日系では多数派だ。

現代からこの「勝ち組」のできごとを振り返れば、情報不足、集団妄信などの過去の遺物だと思うに違いない。正確に事実を把握できなかった、未開の時代のできごとと受け止めるだろう。

だが、「勝ち組」の末裔であるぼくには、勝った負けたの「事実」だけをめぐって彼らが活動したのではないだろうと思う。客観的な事実問題ではなく、それぞれの胸のうちに、わが身を「勝ち組」活動にと押し出す何かがあったのではないか。そう思う「根拠」が、この写真の緊迫した表情の面々とそれをしっかり取り囲む壁である。

ただの集団的妄信なら、正装した老若男女が静かに集まり、このような写真が撮れただろうか。彼らの胸の中には「故郷の人たちが無事であってほしい、あの山あの川がそのままであってほしい」という願いが広がっていたに違いない、とぼくは思う。

写真を見ていると、ずっとあとになって兄が集めていたいくつもの瓶詰めトマトソースが想起される。「勝ち組」にも、トマトソースにも、ぼくが思うのは、人には、客観的な事実に優先させる「心の現実」、何らかの体験や記憶に裏打ちされたその人固有の「現実」というものがあるのではないかということである。

 

■トマトソース

「勝ち組」の我が家族は、1951年に大型客船で大西洋を周り、ケープタウン、シンガポールに寄港し、日本に帰国した。神戸港にたどり着いたとき日本が負けたことを初めて思い知らされた。船上から見えた神戸の町には、空襲で焼かれた建造物が残っていて、たくさんの浮浪者がいたのだった。

帰国したとき兄は16歳だった。ナイーブな年齢で異なる環境にやって来た彼にとっての日本は、苦労の対象でしかなかった。ずっと生きづらいまま、日本を生き抜いたと思う。

1970年代後半、ぼくは就職した。忙しくなり実家にほとんど足を運ばなくなった。

40歳代になった独者の兄は、両親と暮らしていた。口下手な兄は頑固者の父を避ける。ふらふらと作業着で家に帰ってくると、立って飯をかきこみ、また出かけていく。夜勤なのか、飲みに行くのかはわからない。ダンボール工場で働く父は宿直もし続けていたからあまり家に帰らなかった。母はパート仕事をやめて、自動車部品の内職をしていた。

そんな静かな実家に、ぼくもたまには帰る。あるとき冷蔵庫を開けると、トマトケチャップやトマトソースがいく種類もやけに並んでいるのに気づいた。別の棚にはふたを開けていない瓶もたくさんある。母に聞くと、兄がいろいろ買ってくるという。そうか、トマトソースが好きなのか…。ぼくはそう思い、そのときはそれで終わる。オチのないできごとは記憶の奥に埋もれていった。

何十年も時が過ぎ、両親も兄も鬼籍に入っている。

いまになって気がつくのだが、兄は、ブラジルで食べたトマトソースの料理を懐かしんでいたのではないだろうか。

中高年になると妙に子どもの頃のことが懐かしくなる。食べたもの、見たこと、聞いたこと。もう一度味わいたいと思うようになる。ただ兄の場合問題だったのは、2万㎞も離れた異国を懐かしんだことだった。

兄は子ども時代に味わったあの味を捜し求めてトマトソースを買い求め、思い出と違うことを確認させられて、また探した。おそらく、彼が求めているものは日本には決してないことはわかっているのだが、探さないわけにはいかなかった…。

その結果、いくつものトマトソースの瓶詰めが並んでしまった。兄の心に残っているトマトソースの味。それは日本のトマトソースとはいつも少しばかり違っていたのだろう。

 

■少数者

大戦直後のブラジルの日系人も、日本を生きた兄も、少数者として生きざるをえなかった。そして少数者は多数者に理解できないものを切望することがある。

多数者が望むものは、自身が所属する社会のなかで容易に手に入れることができる。情報、願い、食材、友人、職業…。振り返ればそこにある。いまは手に入らなくとも、我慢すればいずれは手に入れる。少なくても可能性は高い。その世界にあるモノの中で生きてきたのであるし、アクセスできる力がある。

少数者には、望むものが手に入らない。手に入れる力が弱い。あるいは、その世界にないものを望んでいる。

多数者は馴染んだたくさんのモノたちに囲まれて生きる。しかし、世界のはてにも淵があって、そこから球面になる。少数者は球面の内側から外側に押し出されて、球の表面を歩まねばならない。世界に接触しているのだが、内部からはみ出ているともいえる。球の表面を、望むものを手に入れようと歩き続けるが同じところに再び戻る。ぐるぐると回っても、手に入らない。

かつての「勝ち組」も、兄も、手に入らないものを捜し求めていたのだが、どうしてこのようなことが起きてしまうのか。ここには「心の現実」を必要とする深い原理のようなものが働いているに違いないと思う。手に入らないものを切実に求め続ける人間がいるからこそ、社会は成り立つのではないか。社会からはみ出しかかった人によって、社会は原動力を得ているのではないだろうか。そのようなことを考える。

社会の中心部には満たされる人間がいる。周辺部には決して満たされない人間がいる。そのために中心と周辺との間には、求心力と斥力が働く。その力によって、社会全体は安定と不安定の鼓動を打ち始める。

少数者は願いを、いつも社会の外側に向って投げかける。そのことによってその社会は閉じることができず、開かれた存在になる。周辺の少数者が、多数者によって平坦になりかねない世界を救うのである。このようなイメージが浮かんでくる。

「勝ち組」がそうであるように、こういった関係は、多数者との衝突・緊張を含み、狂気に近く、非日常的、破壊的ですらある。多数者からはネガティブに扱われやすいこのエネルギーだが、それは少数者の一人ひとりの切実さという「心の現実」にしっかり根を張っている。さらに、このエネルギーの束は、少数者個々人を貫き、世界の最深部につながり、世界全体の作用にかかわっているに違いないのだ。

 

PS:この写真に写っていない母のことだが、彼女は大戦中、日系社会から離れるように暮らし、近所には(枢軸国側ではない)中国人といっていたという。だから、戦後の勝ち組活動にも乗り気ではなかったかもしれない。父のようなまじめな勝ち組もいれば、母のような少数者もいて、複雑に絡み合いながら社会の周辺を生き延び、社会を豊かにしていったのだろう。

2016年8月16日

戸籍謄本

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:26 PM

ふりそそぐ夏の日

ふりそそぐ夏の日

独り者だった私の兄が亡くなって4年になる。享年77歳だった。兄と同居していた姉が自宅で看取った。晩年は病気がちだった兄、その彼を介護した姉。二人とも十分頑張って最期をむかえることができたのだと思う。

葬式を済ませ、兄名義になっている自宅を、看取った姉に譲り渡す変更をすることになった。その面倒な手続きを、もう一人の姉の姪が買って出てくれた。

父方と母方の戸籍(除籍)謄本を何通も取り寄せ、親族関係を調べたり、相続放棄をしてもらったりといろいろ手間がかかった。遠く離れて何もできない私は、ありがたいことだとつくづく思うしかなかった。

一方で、自分の親族関係をよく知らないまま年齢を重ねてきた私は、戸籍謄本に興味が起きた。親族関係はどういうことになっていたのだろう。だいたい祖父母の名前すら知らないし…。目を通してみたくなった私は、姪に頼んでコピーを送ってもらうことにした。

送り届いた古い書類をながめると、女の人たちの何人かの名が変体仮名で書かれているので読めない。ネットで調べ、古い辞書の付録の変体仮名一覧を見つめる。親族の関係を調べてみよう! という熱気はだんだん冷めて、せっかく送ってもらったコピーは机の書類の山のどこかに埋もれてしまった。

 

今年の夏、4年ぶりにその戸籍謄本のコピーを引っ張り出し、再び、親族関係図作成に取り組んだ。読めない変体仮名を、そのまま画像にしてファイルに添付することを思いつき、二日がかりでようやく、7通の戸籍謄本と60人余の関係図を仕上げた。65%の縮小をかけて印刷しても、A4用紙4枚になる系図を、夏休みの宿題を一つやり終えたような快感をもちながらしげしげ眺める。

どのような人に、何が起こり、どんな人生を送ったのか、ほとんどわからないことばかりだが、間違いなくそれは一人一人の人生の記録の一部である。ある人生が、親子兄弟関係・年月日・事由・役場の職名によって記述され、他の人生と結びつき織りあわされている。このような人々の群れの中に自分も存在しているということを、視覚で理解すると、ある種の感慨がこみ上げてくる。

 

一覧にして眺めながら気づいたことがいくつかある。その一つは、結婚や出産の「届出」の感覚が、かつては現代とずいぶん違っていたらしいということである。

いま、結婚式(事実)→入籍届(届)→出産(事実)→出生届(届)という速やかな届出が当たり前というの「常識」がある、と思う。出産したが、役所に出生届を怠っている親がいれば、その人は子を虐待しているとみなす。子どもが生まれれば、出生届をして扶養家族に入れ、健康保険が使えるようにして、病院受診と医療費の支払いが可能なようにする。子ども手当、保育所入所なども住民票が必要だ。戸籍への出生届を怠ることは、医療・福祉・保健・教育・税制度へのかかわりを拒むことになり、空気や水を与えないことと同じだと思う感覚がほぼ一般的だろう。

ところが、その「感覚」は、かつてはずいぶん違っていたようだ。作った系図をながめると届出は起こった事実に対して速やかに行われているわけではないことがわかる。現実世界の「結婚→出産」のできごとと、戸籍に届ける「入籍届→出生届」の書類の表現世界とが、ずいぶん乖離していたことを読み取ることができるのだ。

 

父方の祖父道之助は安政三年の生れである。三代前にさかのぼっただけで幕末になってしまう。父哲雄は、祖父道之助が54歳の時の子どもである。私は父が41歳の時に生れている。そして私は64歳になった。それを足せば157年になるから、そういうことになるのだが、祖父が12歳で明治維新をむかえているという事実を納得することはむずかしい。

父は後妻の子どもである。祖父道之助はずいぶん若くして子どもをつくっていて、父にしてみるとずいぶん年の離れた異母兄がいた。名を廣といった。

その長男・廣が生まれたのは、明治11年である。その頃は、戸籍制度ができて間もなかい時期である。妻こまとの結婚を届け出たのは明治15年で、廣は4歳になっていた。祖父道之助は埼玉県東部の村に住み、豊かな家であったというから、届が遅れたのは制度がまだ未成熟であったからかもしれない。

廣は30歳になると、ある女性との間に男の子をもうけた。しかし、その子が6歳になるまで籍を入れるどころか、認知もしなかった。7歳になってようやく認知し、同時に結婚届も出している。その後、廣とその妻の間に五男三女をえて、多くの子どもに恵まれることになった。

長男の認知と入籍が遅れたのは事情があったのかもしれない。その長男は博といい、父廣と同じ音である。母は、祝言をすることも難しい事情を案じ、わが子に父と同じ名をつけたのではないだろうかと思えてくる。

その博が23歳の時、昭和5年2月7日に長女を得るが、妻ソヨとの結婚届と一緒に2月15日に出生届をしている。昭和の初めごろは届出について、まだまだのんびりした感覚があったのだろう。

父方の祖父から始まる親子三代は、明治、大正、昭和にわたり、戸籍の記載と現実がずれている。男女関係、子どもの出生、家と個人などの現実は、もともと世間体が求めるつじつまとうまく合うわけではない。まして戸籍の記載などにはどうしても矛盾が入り込む。

戦前の戸籍制度が求めているのは、戸主権力という単位であって、個々人の情報管理ではなかったということもあるのかもしれない。

 

母方を見てみても似たことがある。岩手の県南の村で暮らしていた曾祖父秀之進が長男岩儀を得たのは明治27年だが、結婚し入籍したのは翌年である。1年遅れているのだ。岩儀は22歳になると結婚する。大正3年であり、その翌年母キミエが生まれている。

ところが、母は生前、「本当は」大正3年生まれだとよく話していた。その頃、赤ん坊のうちに亡くなることが多く、最初の子どもであり、大きく育つまで出生届を遅らせていたのかもしれないと思う。母の話から、実際は、結婚(祝言)→妊娠→結婚届→出産→1歳を過ぎて出産届ではなかったのだろうかと想像している。

決して貧しくなかった家だが、岩儀は商売で失敗すると、母が長じる頃には相当暮らしに困るようになる。そのこともあるのか、妹たちをたくさん病気で失っている。すぐ下の妹は生後2週間ほどで亡くし、五番目の妹は死産だったようだ。四番目の妹は16歳の時に結核で亡くなった。家は多くの死を送る場でもあったと思う。

今や結婚届、出生届を行うことは当たり前だ。しかし、その届けるという行為とセットになって医療や福祉に結びつくということがある。

医療や福祉に結びつくことは、「生」や「死」を医療にゆだね、「子育て」「介護」を福の支援で行うことである。それに「生産」をするために会社に行き、「消費」をするために町をぶらつく。個々人の家の役割は小さくなり、しかしとてもきれいになった。家に残されたのは「性」と「金」の問題だけかもしれない。

 

系図を見ては、この150年、おそろしいほど人々の生活と暮らしは変わったものだと思う。

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