なんとなくサンネット日記

2017年3月28日

卒業するあなたに

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:16 PM
青森で見る、なごり雪

青森で見る、なごり雪

 

先日の夕方、黒い雲が残りつつ、西の空に透きとおるような青空が小さく顔を出していました。まるで、空の神様が「青森にも春が近づいていますよ」と挨拶しているようでした。

今頃、あなたは青森から東京に。南にと向っていることでしょう。新しい生活が始まろうとしているのですね。人生には大きな区切りがありますが、卒業・就職の区切りも大きな出来事です。
そんな時期に同封した『プシコ  ナウティカ』(世界思想社、2014年、松嶋健)をプレゼントさせてください。

仕事と人生にはいろいろなことが起きます。不安なとき、達成感あふれるとき、悲しさにつつまれるとき、どこを見ても元気が見つけられないときも…。喜怒哀楽が織り成される。それが仕事、人生というものです。誰もがそれを経験します。

きっとあなたにもそんないろいろなことがあって、いつかふとこの本を思い出しては、パラパラとめくるかもしれませんね。3ヵ月か、3年後か…もっともっと後かもしれませんが。でも、この本は、いつもあなたを応援してくれるだろうと僕は信じて、贈るのです。

 

この本にある小さなエピソード(p194)。

イタリアの司法精神病院に入院していた20代の男性、ヤコポは施設の生活に適応していた。しかし自分で自分のことを決定しなければならない地域生活を始めようとすると、誰かが自分を見張っているという妄想に襲われて、調子が悪くなる…。僕の想像ですが、ヤコポは知的障害がありそうです。彼は、パンを丸ごと出されれば、そのまま切らずに一口で食べてしまう、そんな人だったそうです。

いつまでも司法精神病院にいられるものではありません。退院して、薬を箱詰めにする仕事場に通うことになります。ところが仕事場に通うバスに乗ると、ずっと左側を向いている彼の癖のため、左側に座ったときは降りるべきバス停がわかるのですが、右側に座ってしまうと外が見えず、終点まで行ってしまうのです。

最初は看護婦が付き添っていたのですが、そのうち、バスの運転手やその時間にいつも乗り合わせる乗客が、ヤコポをいつも左側の座席に乗せるようになったのでした。

これだけの、どこにもありそうなエピソードです。

ヤコポは左側のバス停を見たい、けれども右側と左側のどちらの座席に座れば左側のバス停が見られるか、それが彼にはわからない。そこで彼が見たい位置になるように同乗した人々が応援したのではないでしょうか。つまり、彼がキチンと仕事場に行けるように看護したのではなく、見たい風景が見られるように応援した。そう思いたいものです。

最初付き添った看護婦は、バスに同乗した人々が彼にそのように振舞うようにモデルを提供したともいえます。

 

この本はイタリアが舞台というところがいいです。旅行している気分になりますから。イタリア精神医療の歴史もかなり詳細に書いています。社会思想の知識が必要な部分もあります。精神医療とどう関係あるのかわからないというところもあるかもしれません。でも、ヤコポのようなエピソードがところどころに挿入され、旅人のような著者の視点から語られます。専門家なら見逃してしまうようなエピソードですが、こういったエピソードは僕らの仕事が社会に開いているという当たり前の事実を気づかしてくれるのです。

 

10年前、私はある事件を目撃しました。なんかのちょっとしたすれ違いかと思っていましたが、実は、その根っこには、ある人々の隠された欲望があって、長い期間それに悩まされました。

いま、その事件を後押ししていたものは「市場原理」であり「能力主義」であると確信しています。

福祉も医療ももちろん市場経済の枠組みの中にあるのですが、それでも市場経済にはない「人間的な何か」があると、当時は思っていましたが、いまや福祉や医療も、それらの原理が全面を覆っています。

ヤコポの事例であれば、いまでは、介助を行う体制や送迎を充実すべきだという意見が多いでしょう。「人間的な何か」はシステムの背後に隠れてしまいました。バスの乗客や運転手に彼の介助を頼むのは無責任だと考える人が多くなりました。「市場原理」に支えられたシステムしか目に入らなくなったのです。

 

僕らの仕事は、時に、無意味と思うことがあります。壁に突き当たり、トラブルに打ちひしがれる。悲しみは人生を豊かにしてくれますが、つらいことです。そんな時、思い出したら、この本を開いてください。見えにくくなった「人間的な何か」を気づかせてくれると思うのです。

あるいは、休日にこの本を枕にして昼寝をするとストレス回復になるかもしれませんよ。

それでは、身体をだいじにして、お元気にお過ごしください。いってらっしゃい。

 

2016年10月8日

トマトソース

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:27 PM
勝ち組・家族の肖像

勝ち組・家族の肖像

■写真

この写真の右には「大東亜戦捷(せんしょう=戦勝)記念祝賀會(会)」という幕が垂れている。前では幼い女の子が日の丸を広げている。

一番後ろの列、左から2番目に立っているのは私の父だ。母や兄姉はなぜか写っていない。しかし、皆、正装しているから、公的な集まりであることがわかる。頭にリボンをつけている女の子がいる。これは、学校や行事などで必ず装うこの地の習慣である。場所はブラジル・サンパウロ、1945年から何年もたっていない頃だと思う。

日本が米英と戦った太平洋戦争、大東亜戦争の勝利を「祝う」集まりの記念写真である。父も母も、生前にこのことについては何も語らなかった。

壁に囲まれた場所で撮った写真、まるで人目を避けているようだ。参加者の表情から「祝賀」という喜びは伝わらない。じっと見ていると、「日本が勝った」というこれらの人たちは、実は「日本は勝っていない」ことを知っているのではないか、そう思えてくる。

彼らは、世界大戦後、日本が勝ったと主張した「勝ち組」である。ブラジルの日系社会の勝ち組は有名だが、南米各地にあったという。ブラジルの「勝ち組」は「負け組」より多く、日系では多数派だ。

現代からこの「勝ち組」のできごとを振り返れば、情報不足、集団妄信などの過去の遺物だと思うに違いない。正確に事実を把握できなかった、未開の時代のできごとと受け止めるだろう。

だが、「勝ち組」の末裔であるぼくには、勝った負けたの「事実」だけをめぐって彼らが活動したのではないだろうと思う。客観的な事実問題ではなく、それぞれの胸のうちに、わが身を「勝ち組」活動にと押し出す何かがあったのではないか。そう思う「根拠」が、この写真の緊迫した表情の面々とそれをしっかり取り囲む壁である。

ただの集団的妄信なら、正装した老若男女が静かに集まり、このような写真が撮れただろうか。彼らの胸の中には「故郷の人たちが無事であってほしい、あの山あの川がそのままであってほしい」という願いが広がっていたに違いない、とぼくは思う。

写真を見ていると、ずっとあとになって兄が集めていたいくつもの瓶詰めトマトソースが想起される。「勝ち組」にも、トマトソースにも、ぼくが思うのは、人には、客観的な事実に優先させる「心の現実」、何らかの体験や記憶に裏打ちされたその人固有の「現実」というものがあるのではないかということである。

 

■トマトソース

「勝ち組」の我が家族は、1951年に大型客船で大西洋を周り、ケープタウン、シンガポールに寄港し、日本に帰国した。神戸港にたどり着いたとき日本が負けたことを初めて思い知らされた。船上から見えた神戸の町には、空襲で焼かれた建造物が残っていて、たくさんの浮浪者がいたのだった。

帰国したとき兄は16歳だった。ナイーブな年齢で異なる環境にやって来た彼にとっての日本は、苦労の対象でしかなかった。ずっと生きづらいまま、日本を生き抜いたと思う。

1970年代後半、ぼくは就職した。忙しくなり実家にほとんど足を運ばなくなった。

40歳代になった独者の兄は、両親と暮らしていた。口下手な兄は頑固者の父を避ける。ふらふらと作業着で家に帰ってくると、立って飯をかきこみ、また出かけていく。夜勤なのか、飲みに行くのかはわからない。ダンボール工場で働く父は宿直もし続けていたからあまり家に帰らなかった。母はパート仕事をやめて、自動車部品の内職をしていた。

そんな静かな実家に、ぼくもたまには帰る。あるとき冷蔵庫を開けると、トマトケチャップやトマトソースがいく種類もやけに並んでいるのに気づいた。別の棚にはふたを開けていない瓶もたくさんある。母に聞くと、兄がいろいろ買ってくるという。そうか、トマトソースが好きなのか…。ぼくはそう思い、そのときはそれで終わる。オチのないできごとは記憶の奥に埋もれていった。

何十年も時が過ぎ、両親も兄も鬼籍に入っている。

いまになって気がつくのだが、兄は、ブラジルで食べたトマトソースの料理を懐かしんでいたのではないだろうか。

中高年になると妙に子どもの頃のことが懐かしくなる。食べたもの、見たこと、聞いたこと。もう一度味わいたいと思うようになる。ただ兄の場合問題だったのは、2万㎞も離れた異国を懐かしんだことだった。

兄は子ども時代に味わったあの味を捜し求めてトマトソースを買い求め、思い出と違うことを確認させられて、また探した。おそらく、彼が求めているものは日本には決してないことはわかっているのだが、探さないわけにはいかなかった…。

その結果、いくつものトマトソースの瓶詰めが並んでしまった。兄の心に残っているトマトソースの味。それは日本のトマトソースとはいつも少しばかり違っていたのだろう。

 

■少数者

大戦直後のブラジルの日系人も、日本を生きた兄も、少数者として生きざるをえなかった。そして少数者は多数者に理解できないものを切望することがある。

多数者が望むものは、自身が所属する社会のなかで容易に手に入れることができる。情報、願い、食材、友人、職業…。振り返ればそこにある。いまは手に入らなくとも、我慢すればいずれは手に入れる。少なくても可能性は高い。その世界にあるモノの中で生きてきたのであるし、アクセスできる力がある。

少数者には、望むものが手に入らない。手に入れる力が弱い。あるいは、その世界にないものを望んでいる。

多数者は馴染んだたくさんのモノたちに囲まれて生きる。しかし、世界のはてにも淵があって、そこから球面になる。少数者は球面の内側から外側に押し出されて、球の表面を歩まねばならない。世界に接触しているのだが、内部からはみ出ているともいえる。球の表面を、望むものを手に入れようと歩き続けるが同じところに再び戻る。ぐるぐると回っても、手に入らない。

かつての「勝ち組」も、兄も、手に入らないものを捜し求めていたのだが、どうしてこのようなことが起きてしまうのか。ここには「心の現実」を必要とする深い原理のようなものが働いているに違いないと思う。手に入らないものを切実に求め続ける人間がいるからこそ、社会は成り立つのではないか。社会からはみ出しかかった人によって、社会は原動力を得ているのではないだろうか。そのようなことを考える。

社会の中心部には満たされる人間がいる。周辺部には決して満たされない人間がいる。そのために中心と周辺との間には、求心力と斥力が働く。その力によって、社会全体は安定と不安定の鼓動を打ち始める。

少数者は願いを、いつも社会の外側に向って投げかける。そのことによってその社会は閉じることができず、開かれた存在になる。周辺の少数者が、多数者によって平坦になりかねない世界を救うのである。このようなイメージが浮かんでくる。

「勝ち組」がそうであるように、こういった関係は、多数者との衝突・緊張を含み、狂気に近く、非日常的、破壊的ですらある。多数者からはネガティブに扱われやすいこのエネルギーだが、それは少数者の一人ひとりの切実さという「心の現実」にしっかり根を張っている。さらに、このエネルギーの束は、少数者個々人を貫き、世界の最深部につながり、世界全体の作用にかかわっているに違いないのだ。

 

PS:この写真に写っていない母のことだが、彼女は大戦中、日系社会から離れるように暮らし、近所には(枢軸国側ではない)中国人といっていたという。だから、戦後の勝ち組活動にも乗り気ではなかったかもしれない。父のようなまじめな勝ち組もいれば、母のような少数者もいて、複雑に絡み合いながら社会の周辺を生き延び、社会を豊かにしていったのだろう。

2016年8月16日

戸籍謄本

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:26 PM
ふりそそぐ夏の日

ふりそそぐ夏の日

独り者だった私の兄が亡くなって4年になる。享年77歳だった。兄と同居していた姉が自宅で看取った。晩年は病気がちだった兄、その彼を介護した姉。二人とも十分頑張って最期をむかえることができたのだと思う。

葬式を済ませ、兄名義になっている自宅を、看取った姉に譲り渡す変更をすることになった。その面倒な手続きを、もう一人の姉の姪が買って出てくれた。

父方と母方の戸籍(除籍)謄本を何通も取り寄せ、親族関係を調べたり、相続放棄をしてもらったりといろいろ手間がかかった。遠く離れて何もできない私は、ありがたいことだとつくづく思うしかなかった。

一方で、自分の親族関係をよく知らないまま年齢を重ねてきた私は、戸籍謄本に興味が起きた。親族関係はどういうことになっていたのだろう。だいたい祖父母の名前すら知らないし…。目を通してみたくなった私は、姪に頼んでコピーを送ってもらうことにした。

送り届いた古い書類をながめると、女の人たちの何人かの名が変体仮名で書かれているので読めない。ネットで調べ、古い辞書の付録の変体仮名一覧を見つめる。親族の関係を調べてみよう! という熱気はだんだん冷めて、せっかく送ってもらったコピーは机の書類の山のどこかに埋もれてしまった。

 

今年の夏、4年ぶりにその戸籍謄本のコピーを引っ張り出し、再び、親族関係図作成に取り組んだ。読めない変体仮名を、そのまま画像にしてファイルに添付することを思いつき、二日がかりでようやく、7通の戸籍謄本と60人余の関係図を仕上げた。65%の縮小をかけて印刷しても、A4用紙4枚になる系図を、夏休みの宿題を一つやり終えたような快感をもちながらしげしげ眺める。

どのような人に、何が起こり、どんな人生を送ったのか、ほとんどわからないことばかりだが、間違いなくそれは一人一人の人生の記録の一部である。ある人生が、親子兄弟関係・年月日・事由・役場の職名によって記述され、他の人生と結びつき織りあわされている。このような人々の群れの中に自分も存在しているということを、視覚で理解すると、ある種の感慨がこみ上げてくる。

 

一覧にして眺めながら気づいたことがいくつかある。その一つは、結婚や出産の「届出」の感覚が、かつては現代とずいぶん違っていたらしいということである。

いま、結婚式(事実)→入籍届(届)→出産(事実)→出生届(届)という速やかな届出が当たり前というの「常識」がある、と思う。出産したが、役所に出生届を怠っている親がいれば、その人は子を虐待しているとみなす。子どもが生まれれば、出生届をして扶養家族に入れ、健康保険が使えるようにして、病院受診と医療費の支払いが可能なようにする。子ども手当、保育所入所なども住民票が必要だ。戸籍への出生届を怠ることは、医療・福祉・保健・教育・税制度へのかかわりを拒むことになり、空気や水を与えないことと同じだと思う感覚がほぼ一般的だろう。

ところが、その「感覚」は、かつてはずいぶん違っていたようだ。作った系図をながめると届出は起こった事実に対して速やかに行われているわけではないことがわかる。現実世界の「結婚→出産」のできごとと、戸籍に届ける「入籍届→出生届」の書類の表現世界とが、ずいぶん乖離していたことを読み取ることができるのだ。

 

父方の祖父道之助は安政三年の生れである。三代前にさかのぼっただけで幕末になってしまう。父哲雄は、祖父道之助が54歳の時の子どもである。私は父が41歳の時に生れている。そして私は64歳になった。それを足せば157年になるから、そういうことになるのだが、祖父が12歳で明治維新をむかえているという事実を納得することはむずかしい。

父は後妻の子どもである。祖父道之助はずいぶん若くして子どもをつくっていて、父にしてみるとずいぶん年の離れた異母兄がいた。名を廣といった。

その長男・廣が生まれたのは、明治11年である。その頃は、戸籍制度ができて間もなかい時期である。妻こまとの結婚を届け出たのは明治15年で、廣は4歳になっていた。祖父道之助は埼玉県東部の村に住み、豊かな家であったというから、届が遅れたのは制度がまだ未成熟であったからかもしれない。

廣は30歳になると、ある女性との間に男の子をもうけた。しかし、その子が6歳になるまで籍を入れるどころか、認知もしなかった。7歳になってようやく認知し、同時に結婚届も出している。その後、廣とその妻の間に五男三女をえて、多くの子どもに恵まれることになった。

長男の認知と入籍が遅れたのは事情があったのかもしれない。その長男は博といい、父廣と同じ音である。母は、祝言をすることも難しい事情を案じ、わが子に父と同じ名をつけたのではないだろうかと思えてくる。

その博が23歳の時、昭和5年2月7日に長女を得るが、妻ソヨとの結婚届と一緒に2月15日に出生届をしている。昭和の初めごろは届出について、まだまだのんびりした感覚があったのだろう。

父方の祖父から始まる親子三代は、明治、大正、昭和にわたり、戸籍の記載と現実がずれている。男女関係、子どもの出生、家と個人などの現実は、もともと世間体が求めるつじつまとうまく合うわけではない。まして戸籍の記載などにはどうしても矛盾が入り込む。

戦前の戸籍制度が求めているのは、戸主権力という単位であって、個々人の情報管理ではなかったということもあるのかもしれない。

 

母方を見てみても似たことがある。岩手の県南の村で暮らしていた曾祖父秀之進が長男岩儀を得たのは明治27年だが、結婚し入籍したのは翌年である。1年遅れているのだ。岩儀は22歳になると結婚する。大正3年であり、その翌年母キミエが生まれている。

ところが、母は生前、「本当は」大正3年生まれだとよく話していた。その頃、赤ん坊のうちに亡くなることが多く、最初の子どもであり、大きく育つまで出生届を遅らせていたのかもしれないと思う。母の話から、実際は、結婚(祝言)→妊娠→結婚届→出産→1歳を過ぎて出産届ではなかったのだろうかと想像している。

決して貧しくなかった家だが、岩儀は商売で失敗すると、母が長じる頃には相当暮らしに困るようになる。そのこともあるのか、妹たちをたくさん病気で失っている。すぐ下の妹は生後2週間ほどで亡くし、五番目の妹は死産だったようだ。四番目の妹は16歳の時に結核で亡くなった。家は多くの死を送る場でもあったと思う。

今や結婚届、出生届を行うことは当たり前だ。しかし、その届けるという行為とセットになって医療や福祉に結びつくということがある。

医療や福祉に結びつくことは、「生」や「死」を医療にゆだね、「子育て」「介護」を福の支援で行うことである。それに「生産」をするために会社に行き、「消費」をするために町をぶらつく。個々人の家の役割は小さくなり、しかしとてもきれいになった。家に残されたのは「性」と「金」の問題だけかもしれない。

 

系図を見ては、この150年、おそろしいほど人々の生活と暮らしは変わったものだと思う。

2016年7月30日

私が覚えているのは

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:39 PM
池のほとりの夏

池のほとりの夏

7月26日、神奈川県の津久井やまゆり園で起きた殺傷事件に衝撃を受ける。

怒りを通りこし、行き場のない悲しみにつつまれる。元職員・植松聖容疑者に関する情報が断片的に伝わるが、やるせなさばかりがつのる。

植松容疑者が語ったという、障害者が「幸せに見えない」から、職員になったが、同じ理屈で殺傷に至ったという言葉。

なぜ他人の幸せや不幸せが「見える」というのか。それは、感じたり、心を寄り添わせたりするものなのに。彼は他人の幸せや思いを感じられる「力」がなかったから、他人の幸せが「見えなかった」。そして自分の幸せも見えなかったのだろうと思う。

この悲しみを越えるにはたくさんの時間がかかる。

障害者も健常者も、老いも若きも、他者を「見よう」とするのではなく「感じる」ことを積み重ねていこう。感じようとする思いが、ブナの森の落葉のように堆積し、水を含み、虫や動物をはぐくむ。ゆっくりと土に帰っていくほどのながい時間が流れていく。そのはてに…。

ずいぶん前に聞いた話を思い出した。

サラ・ファブリの話。ハンガリーからアウシュビッツの強制収容所に移送されたその最初の夜のこと。当時、彼女は14歳。

私は暗闇の中で、他の女の子たちの中にぎゅうぎゅう詰めになってかがみこんだ。一部屋に300人か400人もいて暑くて臭かった。私はもうこれですべては終わりだと思い、必死になって何かにすがりつこうとした。でもだめだった。死にたいとは思わなかったけど、生きていたくなかった。その後も私の人生にはいろいろ悲しいことがいっぱいあったけれど、あの恐ろしい第一夜のような思いはしたことがない。

しばらくして誰かが私に話しかけているのに気づいた。暗闇の中で私の身体にまわした誰かの腕を感じた。誰かが話しかけた。「ここから出たいでしょう。また自由になりたいでしょう。それならしっかりしなくっちゃ!」と。彼女はそれを繰り返し、繰り返し、言い続けた。私が何と言ったか覚えていない。多分、家族のこと、独りぼっちだということだったと思う。なぜなら彼女は「あなたは独りぼっちじゃない。私たちはみんな家族ですもの」と言ったから。

彼女はそういうことを何度も何度も繰り返して言った。何度言ったかわからない。私の覚えているのはただあの暗い夜、あの声、そして私の肩にまわされたあの腕だけだ。

今日にいたっても、私の肩をかかえた腕の感触を思い出すことができる。どんな声だったかは思い出せないけど、耳元に繰り返しささやいてくれた言葉をはっきりと覚えている。

(戦争を生きぬいた女たち 38人の真実の記録 サリー・ハイトン=キューヴァ編著 加藤永都子訳 新宿書房 1989年 P219)

 

仮に、この世の中に2種類の腕があって、一つは少女を暗い部屋に閉じ込める「腕」、もう一つは、絶望に直面した彼女をかかえる「腕」の二つしかないとしたら、ぼくたちは(障害者も健常者も、老いも若きもという意味の「ぼくたち」なのだが)後者の「腕」になろうと日々生きているのではないだろうか。

夢想かもしれないがそのように思いたいのだ。

2016年7月11日

差別と解放

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:49 PM
ゴンドラの唄が聞こえてきそうな

ゴンドラの唄が聞こえてきそうな

『ふしぎな部落問題』(ちくま新書、2016年)という本が、最近、出版されました。本の著者、角岡伸彦氏は、1963年生まれのノンフィクションライター。裏表紙に兵庫県加古川市の被差別部落で生まれ、育ったと書いてあります。

部落問題についての本はずいぶん久しぶりでした。この本を読み、かつてのような「部落解放」「差別糾弾」というスローガン的運動ではどうしても越えられない課題について考えさせられました。

彼は、部落“差別”といかに闘うかという「差別を問う」というスタンスではありません。差別の内側にいて、部落をどう生き、そのうえで差別を超える社会をどのように見通すのかという、差別される側に立脚しつつ見えてくるものを語ろうとします。

生身の現実へのこだわりが彼の視点です。大学卒業後、神戸新聞で働いたという経歴があるそうですから、そういった経験が「現場」に関心を引き寄せるのかもしれません。しかし部落差別の本質に原因があるらしいのです。

 

 部落解放運動は、部落民としての解放を志向しながら、「どこ」と「だれ」を暴く差別に対して抗議運動を続けてきた。しかしそれは出自を隠蔽することにもつながる営為であった。部落民としての解放を目指しながら、部落民からの解放を歩まざるを得なかった。(p9)

「どこ」と「だれ」を暴こうとする差別に対し、抗する解放運動は暴こうとする差別意識を問題にします。暴くなと。

しかし、暴くなと差別者に向って言葉を投げかけるとき、その言葉は自分が「どこ」の「だれ」かを明らかにしない、隠蔽に傾斜せざるを得なかったというのが角岡氏の見立てです。

 

部落解放運動ばかりでなく、いろいろな差別や抑圧に対して人々は抵抗運動を組織してきました。

抵抗運動は自由を求め、自立をめざし、多くの人と連帯し、血と涙を流し、抵抗運動や解放運動は気高く、尊く、人間性にあふれていました。

同時に、なぜか運動には、その内側でいつも小さな抑圧が生まれました。あぶくのような抑圧は大きくなると権力的になり、差別する側に成り変わっていきました。そのようなことはたびたび起きました。

角岡氏の、差別問題と解放運動を同時に問題にしようとするこの提起は、私が関係している障害者問題ともつながるものを含んでいます。しかし角岡氏は安直な普遍化はせず、部落解放運動にこだわり、次のように続けます。

 

数あるマイノリティ、被差別者の中で、部落民だけが差別を媒介とした存在ではないだろうか。たとえば身体・知的・精神障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族などは、差別をされることはあるが、差別がなくても存在する。ひとり部落民だけが、身体や民族や文化的差異があるわけではなく、差別されてきた歴史によって存在するのである。

加えて反差別運動やその成果である同和対策事業が、部落民を残してもきた。近年ではインターネットの普及が、部落の存在を明確にしている。つまり部落民は、差別の歴史を土台にしながら、そのときどきの状況によって存続してきた。(p13)

多くの被差別者が「差別がなくても存在する」ということはどういうことなのでしょう。ここで挙げられた障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族などのマイノリティは、いろいろな差別に直面しています。しかし差別がまったくなくなったとしても、やはり彼らは、障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族として生きていきます。

周囲の人との差別的な関係(差別する-差別される関係)があるか、ないかにかかわらず、彼らの固有の肉体、言葉や生活を成りたたせる文化、遺伝子にもとづくアイデンティティが継続するだろうからです。このことを指しています。

ところが、部落差別がなくなった未来社会を想像してみると、その世界では、どこの地域が被差別部落だという意識も、その地域に暮らしている誰それが部落民だという意識もなくなります。差別がなくなると、部落民も消滅してしまうと角岡は主張しているのです。ここが他のマイノリティ問題と部落問題の違いだと言っています。

もしそうなら、部落差別はとても純化した差別の形だといえます。肉体、言葉や生活などの「モノの差」ではなく、歴史・社会・活動・情報などの人間の営みに根ざした「(差別)意識」だけによって差別が生れるのですから。

それだけに、差別を考えるときのいちばん深いものが部落差別にはあるのでしょう。

2016年6月25日

事後性

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:20 PM
花開く

花開く

■ジジェク

スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェク(1947年-)。彼の名前は、社会学者・大澤真幸の本を読んで知りました。なにやら気になる人だと思っていました。去年、『事件!』という本を買ったのですが、すごく博学な人だと思ったものの、30頁ほどでたちまち挫折しました。

ジジェクの30年以上前の初期の論文が日本で出版されることになった、という記事を目にしました。著作の全体が「事後性」というキー概念によって貫かれている、と紹介されていました。 事後性! なんと魅力的な言葉なんだろう! 私はそう思いました。

『もっとも崇高なヒステリー者 ラカンと読むヘーゲル』(みすず書房)という題名です。訳者は、名古屋大学医学部精神医学教室の有志が長く続けているジャック・ラカンの読書会の3人のメンバーです。ジャック・ラカン(1901- 1981)とはフランスの哲学者、精神分析家で、ジジェクはラカンの孫弟子にあたります。(…しかしこの本はぼくには歯が立たないだろうなあ)

目にした記事は、訳した3人の精神科医による鼎談です。(週刊読書人.2016.6.10号)

 

精神分析学でいうところの「事後性」とは、無意識に抑圧したできごとが、何年かあとのできごとが引き金になって、最初のできごとが症状となって表面化する、といったことをさします。最初のできごとは後になっていきるできごとによってしかわからない、ということです。

ジジェクのいう「事後性」は、患者個人の精神世界の枠を飛び出し、社会や人間の歴史すらこの「事後性」に貫かれていると主張しているらしいのです。個人の内的世界を描く「事後性」という言葉が、世界全体を見通す羅針盤の針になってしまったのです。イモムシからチョウになって、広い世界を羽ばたき始めたように思います。

訳者の一人である菅原誠一氏は、ジジェクの「事後性」について次のように述べていました。

――我々は普通、時間は一方向に進むという前提で話しますが、ジジェクの本に従うならば、事後的に振り返りながら繰り返すようなあり方のほうが、むしろ人間の本質であり、一方向に進んでいく発展的・進歩的な見方は倒錯的である。そう思えるぐらいの論の進め方になっています。

 この発言を受けた先輩格の鈴木國文氏はこのように応えます。

――(ヘーゲルの唱えた弁証法は、一般的に時間に沿って進んでいくと思われているが)弁証法とは前に進むものではなく、事後的なものだと読むことができる。これはラカンの理論を踏まえて初めて言えることだと思います。

  ヘーゲルの弁証法についてウィキペディアはこう記述しています。「ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つ」が、弁証法を構成する、と(弁証法(的)論理学の記述.2016.6.25)。

正・反・合と展開していく歴史観は、その後のマルクスによってさらに理論化されました。そして、一般的には過去から未来にと進化的に展開するという観念が強固になったのです。

個人のトラウマの解釈方法であった事後性という概念を、ジジェクは、哲学や思想の基礎部分に組み入れ、私たちの観念の前提をくつがえす地平に、彼は導こうとしているのです。

これは、どうもすごそうだ、一方向に進むのではなく、事後的に繰り返す時間…?? 私のなかで衝撃と疑問が渦巻きました。   思いをめぐらすうちに、「進化的な見方」と「事後性」の比較になるような小さなできごとを思い出しました。

 

■病気を忘れられるか

もう10何年か前、サンネットを始めたばかりの頃。少女の面影が残るような女性が訪ねてきました。

彼女は、当時、ようやくひどい状態から立ち直った時期で、以前と比べるとずいぶんよくなったのだそうです。主治医の先生も親も「元気になったのだから病気の時のことは忘れなさい。前に向かって進みなさい」と言うのだそうです。でも、と彼女はその言葉に考えてしまうといいます。それで自分の気持ちをわかってくれそうなところを探していたというのです。

彼女は「病気のことを忘れて、ないものにしてしまったら、私には青春がなかったことになってしまうでしょ」と話しました。青春はずっと病気と一緒にあったのだから、私の人生の大切な部分が空欄になってしまう、と悩んでいたのです。

話を聞いた私たちは、彼女の気持ちがよくわかりました。

過去は過ぎたもの、過去を踏み越えてこそ未来があると考える「進化的な見方」であれば、病気の時代にこだわることをやめて、前に進まねばなりません。

でも、「事後的に振り返りながら繰り返すようなあり方」が人間の本質であると考えるならば、彼女の悩みは当然です。彼女は病気の時代を振り返り、その時代と現在を含みこんで未来をめざすことが求められていることになります。

病気の時代を消してしまうか、そこを振り返るか。ジジェクによればそれは選択の問題ではなく、振り返えざるをえない人生の本質的なあり方の問題である、となるのでしょう。先生や親の言い方は、本質からはずれた「倒錯」と批判するかもしれません。

 

■過去も未来も私

べてるの家には有名なキャッチフレーズがたくさんあります。それまで一方的であった精神病の見方、治療観を一変させました。豊かな実践から練りだされたべてる流のフレーズは、病気を生き生きとしたもの、豊かなものに描きなおしました。

そのフレーズのなかでも、「勝手に治すな自分の病気」、「べてるに来れば病気が出る」、「べてる3年漬け」、「病気は宝」などは、「事後性」の問題と関係がありそうです。病気がよくなっていくとき、病気を忘れて前に進むのではなく、むしろ忘れていた過去の病気も出てくる。仲間と分かち合って越えていくもの、むしろ仲間とつながる「宝」なんだ、という考えです。ここでは、過去は捨て去るべきものではなく、今を理解するための「宝」ということになります。

このべてる流の考え方、べてる流の「世界」をふまえて、「進化的な見方」という問題に立ち戻ると、それはずいぶん狭い見方だったことに気づきます。

「過去」から遠く隔たったが、未来がまだ見えない「今」があって、目の前の選択肢を選択することが、自分のかかわれることがらである、と描くのが「進化的な見方」です。この世界で孤独に存在しなければならないかのようです。

弁証法的な論理が始まりだったかもしれませんが、現代は、「進化的な見方」がより単純化し、「選択だけが未来を決定する」という感覚が支配しています。PCやスマホの日常、流動化している労働や地域社会、クラウド情報とタックスヘブンマネー…。この流動的な世界の中で、個々人の選択は世界と強いきずなを結びつけるためのものではなく、嵐の中を進む船のように沈没を免れるために右に左にかろうじて舵を取るための選択のようです。

「事後性」という考え方のすごいところは、この「選択が未来を決定的に決める」という考え方に、「それだけがすべてではないよ、別のとらえ方もあるよ」と変更を迫るところなのではないでしょうか。それは、孤独な世界観からの脱却にもつながるのではないだろうかと思うのです。

「事後性」をしっかり使えるようになるには、時間がかかると思います。しかし、うっすらとおかしいなあと思い続けてきた「進化的な見方」を、問い直すことができる素材があるんだと知ったことは、私にとって喜びです。

2016年3月31日

青森 発見

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:11 PM
青森 発見

青森 発見

2016年2月27日

侘びる

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:20 PM
どことなく、春の匂い

どことなく、春の匂い

■トラブルについて

具体的には言えないけど、ぼくがある種のトラブルに遭うとする。

誰かが引き起こしたトラブルで、ぼくはその人を支援する立場にあるとする。トラブルというできごとを挟んで、その人とぼくは向き合う。そこまではよくある日常的なできごとだ。

普通は、相手はそのできごとを説明しようとし、ぼくはできる限り理解しようとし、互いに解決をめざす。その過程は格闘もあるけど、理解も深まっていく。無事解決し、時がたてば、よい思い出になる。やがては笑い話にもなる。ところが、そうではない種類のトラブルがあることを話したい。

その種のトラブルに出会ったぼくは、たいてい、不自然さを感じる。しっくりこない。こういったことは体験したことがないなあとか、どうしてここでこうならなきゃいけなかったのか、成り行きがわからないなあとか、首をかしげる。

それでも、ぼくはなんとか理解しようとする(これは職業病的なのだけど)。そしてこんなふうに思うようになる。「彼や彼女の経験不足なのだろうなあ。もしかしたら、自分の気持ちをうまく表現できないのかもしれない。それに勘違いがあるのかなあ…etc。」

もう一つ、その時は気に留められないささやかなこともある。彼や彼女は開き直っているわけではないが、冷めているというか、一生懸命説明しようとしない。何より〈詫びない〉ことである。

ところがどうしても職業病的な姿勢が先行して、感じた不自然さをはっきりさせないまま、ことは次の場面に移っていく。なんとなく、トラブルは解決する方向に向かっているのだろうと、自分で思い込もうとするのだが、やがてとんでもないことが起きる。

3ヵ月くらいすると(ここは体験的にどうしても3ヵ月なのだが)再び、同じようなトラブルが起きる。そして2度目はどうしようもなく深刻なトラブルになり、ドロドロの状態になって延々続いていく。

…何年かして気がつく。一度目のトラブルは、二度目のトラブルの予兆だったということを。

 

もし一度目のトラブルの時に感じた不自然さにもっとこだわっていたら、そしてそこを解明しようとしたら、より深い問題が見えてきて、その後の経過が変わっていたのではないか。そんなふうに思うのだ。しかし、一度目のあの場面で、ことの重大さに気づくのは簡単ではない。でも、目印はある。〈詫びない〉ことである。これがあるかないかが、何気なく出会っているトラブルが、次の重大なトラブルを引き起こす「予兆」か、無視してもよい、よくある「日常」かを見極めるリトマス試験紙なのだ。

 

■『モンスターマザー』を読んだ

先日、たまたま手にとって読んでしまった本である。『モンスターマザー 長野・丸子実業「いじめ事件」教師たちの闘い』(福田ますみ、新潮社、2016年)。読んでみて「〈詫びない〉トラブルは大きなトラブルの予兆」というぼくの持論の再確認になったような気がする。

その前に、この本について述べておく。

2005年12月、丸子実業高バレー部の1年生(高山裕太君)が自宅で自殺した。事件をめぐり、母親と学校・生徒側が激しく対立し、8年近くの訴訟合戦がおこなわれた。そのことについての本である。

書名のとおり、著者は、学校・生徒を擁護し、母親と支援者であった弁護士・ジャーナリストを批判している。

学校側と母親側の立場は大きく違っていた。

母親と支援者は、いじめの事実を隠す学校の閉鎖体質を暴こうとする。そして学校長を刑事告訴し、県・校長・生徒の親にたいする損害賠償請求闘争をおこなった。

一方、学校・生徒側は、調査をして、母親が主張するようないじめは存在しなかったという認識にいたる。学校・生徒から見ると、母親は「モンスターペアレント」で、訴訟は事実無根の濡れ衣であった。

バレー部生徒の親も、母親にたいして損害賠償請求の反訴。校長は、母親・代理人を名誉毀損で提訴。すべての訴訟が終了するまで事件から8年かかった。裁判闘争では、学校・生徒側の申し立てがほぼ認定されているという。

 

ここで、ぼくはどちらが正しいかを断定するつもりはない。この本について取り上げたいのは、裕太君の8か月の経過である。

小学校の頃からバレーチームに入っていた裕太君が、バレーの名門丸子実業に入学して、わずか8ヵ月余で自殺するのだが、高校に在学した期間を三つの時期に分けることができる。

5月30日に初めての家出をするまでの2か月。830日に2回目の家出をするまでの3ヵ月。そして、2回目の家出を契機に母親が激しく学校やバレー部に抗議、非難を続け、自殺に至るまでの3ヵ月、三つの時期である。

 

2005年4月 高山裕太君、県立丸子実業高校(当時:建築工学科)に入学。バレー部に入部。
5月30日 裕太君、1回目の家出をする。31日佐久市で見つかる。
8月30日 2回目の家出。(前日、担任の教師が、裕太君が夏休みの宿題(製図)の提出をしていないことを注意。「2学期の評定が1になってしまうけど、どうして間に合わなかったのかね。お母さん悲しむね」と話す。)
9月5日 東京で保護された裕太君を母が迎えに行き、帰宅。2回目の家出以降、母は学校の対応について強く抗議するようになる。
9月~11月 母は、学校、県の教育機関、バレー部関係者・生徒・家族、PTA役員などに、電話・ファックスなどで抗議。学校側も調査をし、保護者会を開催。母と学校の関係が悪化し、裕太君は不登校のまま。
12月3日(土曜日) 夜、母宅で話し合い。母と本人、教頭、担任、県職員2名、県会議員。裕太君が5日に登校することになった。
12月5日 裕太君、登校するはずが登校せず。
12月6日朝 裕太君自殺。母が発見。

 

5月の最初の家出が、何らかのサインだったとぼくは思う。というのはこのできごとに「〈詫びない〉トラブル」を見ることができるからだ。本では最初の家出についてこう書いている。

 

――5月30日、裕太君は何の連絡もなく学校を休んだ。夜7時過ぎ、立花(担任教師)はさおり(裕太の母)から「裕太が家出をした」という連絡を受ける。本人の制服や携帯電話があるのに自転車がないので家出だと判断し、捜索願を佐久警察署と丸子警察署に出したという。

「(家出の理由について)何か心当たりはありませんか」

立花が尋ねると、さおりはこう話した。

「昨日、弟(次男のこと)のために用意したお金がなくなっていたんで、裕太を疑って問い詰めたんですよ。でも、(お金を)取ったことを認めなかったので、家から出て行けと言ってしまったんですよ」…

(翌日31日の)午後1時半頃、(町を探し回っていた)さおりと立花は、佐久市内の書店にいる裕太君を発見する。さおりは裕太君に駆け寄り、抱きしめてこういった。

裕太、よいお医者さんに診てもらって、声はきっと治してやるからね

(ん? なぜ高山さんは、裕太君に「家を出て行け」と言ったことを侘びないのだろう)二人を見守っていた立花に、さおりの言葉はひどく突飛に聞こえた。…――(p17-19)

 

母は「声を治す」と言っているが、それは裕太君が中学2年生あたりから、声がしゃがれてしまい、突然、大きな声を出せなくなったことを指している。抱きしめ、再会を喜んでいるのに、なぜ声の問題が出てくるのか、担任は解せなかった。

ここで〈詫びない〉のは母→裕太である。「母→担任などの探しまわってたくれた協力者」「裕太→バレー部の仲間」という関係においても詫びなかったかは、よくわからない。記述はない。

しかし、母→裕太に限定しても〈詫びない〉トラブルであることがわかる。仮に、母が詫びて「裕太を責めてごめんね。もう家を出ていけなんて二度と言わないよ」といったら、母親は、しつけ方に問題があったことを認め、あらためたいと約束したことになる。自分と家庭の問題を、子どもと周囲の人間にオープンにしたということになる。ところが実際は違っている。

裕太に治療というご褒美をやると言って、自分の非や家族の問題は認めなかった。オープンにしようとはしなかった。〈詫びない〉ことによって、家族と自分の問題を隠したのだろう。

もし、ここに教師が着目したら、6月から8月にかけて、裕太がかかえている家庭の悩みにアプローチできたかもしれない。そして830日には「どうして間に合わなかったのかね。お母さん悲しむね」などと家族問題を刺激することはしなかったと思う。もちろん、隠されているものを発見するのはとてもむずかしいことだったのだが。

ぼくはこの本をこんなふうに読んだのだ。

 

■〈詫びない〉こと

ぼくもそうだし、丸子実業の教師もそうだろうが、支援者は自分なりの支援見取り図をもつ。こうなったらこうだろうとか、こう言ったらこうしてくれるだろうという、体験からつくられた支援マップだ。しかしこの地図にはいろいろな前提がある。もっとも大きな前提は、相手と自分の間には信頼関係があると思っていることだ。

しかし、支援者側が思い込んでいる信頼関係とは、はなはだ異なる場合だってある。時には、支援者のマップが地上の様子を描いたマップだとしたら、相手は下水道や地下道、共同溝など地下の様子を描いたマップをつくって、そのなかを動いているのかもしれない。

そして、ある種のトラブルとは、二つの地図の衝突であり、地上と地下を結ぶマンホールの蓋のようなところに両者がいるとすれば、蓋をオープンにして、開け放してしまうと、地下に続く道をたどられてしまう。だから〈詫びない〉。詫びられないのだろう。

そのようなことを考えるようになったぼくは、〈詫びない〉ことをある種の警戒警報としてとらえるようになった。詫びろと強要するつもりはさらさらないけど、その背後には大きな意味が横たわっていると思っている。

ただ「3ヵ月」という間隔はなんだろう。この3か月という時間のリアルさを、裕太君の場合もそうだが、ぼくもたびたび実感してきた。人間関係が再び入り組むのにかかる時間なのだろうか。それとも一人の人間が、心の中で緊張を持続できる時間の限界なのだろうか。よくわからないが、3か月すると何かが起きるのは確かだ。

だから、〈詫びない〉トラブルがあった場合、適切に対処可能な時間はあと3ヵ月しかないのである。

 

2016年1月30日

思い出すこと

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:56 PM
寒中のひと時

寒中のひと時

悪夢にうなされ、自分の声で驚いて、ハッと目を覚ましたら汗びっしょりだった。

悪夢は、夢の中で確かに現実だった。

昼間、友人にそのことを話す。「夕べひどい夢を見て…」と話す。ところが話をしている私は汗も出なければ、夢を見たときとは違っている。体験することと、想い出すことは違う…そんな知識をぼくたちは知らず知らずに蓄えている。

しかし、夢は他者と共有できるものではない。夢が未来を予測したり、真実を暴くものであれば別だが、ふつう人間社会で価値を生み出さない。なので、夢で体験した現実はプログラムでいえばバグ(何かの誤り)のようなものとして考えるようなる。

人間に付きまとうヒューマンエラー、錯覚といった「ブラックボックス」のなかに放り込んで、まぜこぜにしてそれ以上は考えない。それが大人になることだと信じるようになり、やがて忘れる。

しかし、いつかは、夢、幻視といったことの「現実体験」と、錯覚、思い違い、意識の低下との区別をつけなければならない。

 

 

視覚が衰えた高齢者の15%が人や動物などの複雑な幻覚を見るという。

聴覚に障害がある人が幻聴を聞くこともよく知られているそうだ。

独房に入れられた囚人は「囚人の映画」といわれる幻視を体験する。

水夫、トラック運転手、パイロットなど視覚的に単調な仕事に従事していると幻覚を体験する。(水夫の「セイレーン(海の怪物)」、トラック運転手の「トンネルの幽霊」、パイロットにとっての「UFO」も、その一部は幻視かもしれない)。

聴覚、視覚、触覚の感覚を遮断し、幻覚や幻聴を体験するという実験が行われた。

そういった感覚遮断のドイツの実験である。ある研究者グループが、女性芸術家に22日間目隠しして幻視を体験してもらった。目隠しをしたままMRIに入り、幻視が始まるときと終わるときを合図する。研究者はMRIで彼女の変化をスキャンする。すると、彼女は幻視を見ているとき、視覚野が活性化していた。つまり幻視とは「実際に見ている」のである。

次に、目隠しをとって、彼女に自分が見た幻視をイラストで描いてもらう。そして像を思い出してもらうという作業をする。ところが、そこでは視覚野が活性化しなかった。つまり、イラストを描く、思い出すことは、「実際に見ているのではない」。

これは、先の「悪夢の体験」と合致している。幻視を見ていることと、それを思い出すこととは違うのだ。しかも「体験」はただの錯覚ではなかった。脳のスキャンと一致していた。(「意識と無意識の間」マイケル・コーバリス、鍛原多恵子訳、2015年、講談社新書、p167-168)

 

 

これはいくつものヒントを与える。

幻視や幻聴は、いろいろな原因から生じ、本人にとっての体験は実際に見たり、聴いたりすることとかわりがない。(ということは、幻聴・幻視=統合失調症という図式は成り立たないだろうとぼくは思う)。

脳自体のある種の必要性、例えば感覚遮断という「退屈」などから、幻聴・幻視が生みだされるのかもしれない。

そして、脳は、幻聴・幻視を働かせる分野と、想像や記憶の再現に関する分野に、信号を分類して、それぞれ異なる領域に送り出すのかもしれない。

PTSDのフラッシュバックは、「記憶の再現」であるはずが、「幻視」へと間違って送られることかもしれない。既視感が心を妙に不安にさせるのは、現実に働いている視覚が、「記憶の再現」機能とクロスするためだろうか。

メンタルヘルスに課題をかかえていて、幻聴や幻覚で悩んだ経験をもつ人は、症状が「恐怖」「不安」などのネガティブな感情と結びついていることが多い。この場合、記憶を再現して語るということは、幻視ルートに乗りやすい潜在的な脳内信号が、ネガティブな感情との結びつきと切り離れるように働くかもしれない。

「見る」ことと「思い出して見る」こととは別のはたらきであるということは、思いのほか、大きな意味があるように思う。単なる記録力の低下ではなく、思い出さない、覚えていないということを自分に役立てるような人の場合、幻視や幻聴より問題が大きいのかもしれないと思うのだ。

 

第二次大戦中、ニューギニア戦線に従軍した漫画家の水木しげる(2015年11月30日享年93歳で逝去)はこんなことを言っている。

案外、空腹というのは(空腹といってもかなり強烈な空腹だが)、いろいろな幻覚というか、奇妙なものを見せてくれるものだ。戦争中、1年も飯というものを食わなかったことがあるが、白米を食う夢とか、すき焼きの夢ばかりみていた。しまいには夢を通りこしてなんだか、そこにあるような気さえしたことがある。(『水木しげるの妖怪文庫(二)、河出書房新社、1984年、p165』)

おそらく、白米の「夢」や「現実」が彼を救ってくれたのだろう。

もしも、自分だけ白米を食べていながら、食べたことを忘れてしまった上官がいたら、その「記憶の喪失」は、水木たちの「白昼夢」より、たちの悪い能力だ。「悪いやつほど眠る」とは、この忘れる能力をさしているのだろうか?

2015年12月30日

個性を超えるもの

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:56 PM
散歩

散歩

今年もあと二日を残すだけになりました。

26日から降った雪は積雪40センチを越えました。雪片づけに精を出さざるを得ないのですが、するといろいろな人に出会うものです。

 

プードル犬に服を着せて散歩させている女性。

ゆるゆるとポスティング作業中の中年女性。

愛想のいいバイクで配達中の郵便局員。

外にいる娘になにやら叫んでいる病気療養中のおばあさん。

車の屋根の雪を片付けず、車を動かして、振り落として走り去った中年男性。

一人暮らしの女性を気遣い、玄関先の雪を片付けてあげる近所の男性…。

わずか、2,3時間の雪片付けの間に、ドラマのいくつかのシーンを見る(ようだ)。

ちいさな地域にも、いろいろな人が生活している。欲があり、個性がある。

なぜ、人間はこんなに個性あるのだろうと思う。

 

そういえばと、思い出す。

蜂は、巣の中が高温になると幼虫が弱るので、羽で風を送って、温度を下げるという。

ところが、その風を送る仕事を、早めに着手する蜂と、ずいぶんあとになって出てくる蜂もいる。

働き者と怠け者だ。

でも、それでいいのだそうだ。

その「個性」、反応に対するグラデーションは、低い気温のときは送風が「弱」となり、高い気温のときは「強」となるからだ。「個性」が集合すると、別のレベルの機能を発揮するのだという。

 

人間も、この個性というものが、集団になるとなんかの機能を発揮するために生れてきたものではないだろうかと思えてくる。

もし、集団が自覚している利益や目的のためでなく。別の次元の何か。

別次元だから、どうしても語りきれず、つかみきれず、祈るしかなくなるのか。

 

そんなことを考えながら、雪片づけをしていた今日でした。

来年もよろしくお願いします。

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