なんとなくサンネット日記

2018年11月7日

23年前の問いかけ

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:18 PM

仲間じゃないか

写真は、先日、京都から来訪した江端一起さんとの記念写真である。初めて来られた来訪者と心から楽しい時間がもてたというのは久しぶりだ。

精神病患者であり先鋭的活動家である江端さんとひざを交え、親しく語り合ったりすることはないだろうと、ずっと思っていた。というか、なるべく近づかないようにしようと、いつか心に決めていたはずである。

 

23年前、日本社会臨床学会の京都総会があった。1995年4月、ぼくの記憶では、そこで初めて江端さんを見かけたと思っている。

その頃、ぼくは岡山県で生活していた。1月に淡路阪神大震災があった年である。寒い時期の被災は、何もできないぼくを切ない気分にさせた。春になってホッとしたものの、多くの人は対応に追われていた。岡山駅から支援者を神戸に運ぶバスが連日出ていたし、ラジオやテレビでは被災者を受け入れる情報、たとえば「女子学生可、1名、倉敷市」みたいな報道が流れた。地元紙の山陽新聞になると何面もわたって毎日載った、と思う。

そんな春、ぼくは社臨の京都総会に新幹線で京都に向かう。倒れたり壊れたりの新幹線の高架は、神戸あたりに来ると復興しておらず、バスの代行輸送になった。どこかの駅のプラットホームに降り立ったぼくには、シートがかけられた建物がつくる断続的なブルーの列の町並みが見える。列から横にわずかにずれただけで、とたんに建物の被害は軽微になる。断層が走っている確かな証がこのブルーの列だ。人間の幸と不幸も、見えない地殻の上に建っていたのだと思うと、畏怖の感情がフツフツとわいてくる。

なのに、プラットホームにいる幾人かのガードマンたちは実に楽しそうに警備をしている。不釣り合いの制服の彼らの所作はにわか仕込みで、ふざけているように見える。風景と彼らの落差は、嫌な感じがしない。そのような振る舞いと比べるにはあまりにも自然は大きすぎるし、大きな自然に向う人間とはそういうものなのかと思った。

 

京都総会の開催場所は花園大学であった。スケジュールの合間、会場のホールを出て、エントランスに足を入れると、江端さんが小さなハンドマイクをもって叫んでいた。

“学会に出てみたけどおもろうない。学会よりだちんこ(友だち)になろう”。そんなことを言っていた(と思う)。ぼくは40代前半、江端さんは30代前半だったろう。「ああ、こんな若い病者の活動家、こんな活動スタイルが生れてきたんだ」と頼もしく思い、でも“あと3~4年たったら福祉から足を洗うんだ”と思っていたぼくは、あまり近づかないようにしようと思った。

その時、なぜ、ハンドマイクのその人が「江端さん」とわかったのだろう。ゼッケンかハンドマイクに「前進友の会」とか書いてあったのか、あるいは誰かが教えてくれたのだろうか、それは覚えていない。ともかく「彼」だと思ったのだ。

 

さらにその5年前にさかのぼる。1990年10月、日本臨床心理学会も京都での総会だった。その事前打ち合わせのため、8月にぼくは京都に行き、実行委員長だった亀口公一さんと精神障害者の作業所「やすらぎの里」を訪ねた。なぜ、亀口さんが「やすらぎの里」を選んだのかは知らなかった。女性スタッフがいて、作業をしていたが、ぼくらの訪問をあまり歓迎していない様子だった(と記憶している)。総会イベントに「やすらぎの里」がかかわることはなかった。でも、ぼくはその時、作業所の「やすらぎの里」は患者会「前進友の会」と両輪の関係であることを知った。

たぶん、その遠い記憶ともどこかで結びついて、5年後にチラッとみた江端さんに対して強い思いが起きたのだろう。

 

その「やすらぎの里」に向った日、亀口さんと京都を走る車の中で、車内のラジオからイラクがクウェートに侵攻したニュースが流れてきた。「そんなバカな!」とぼくは思った。

それから、学会のほうは京都総会を機に激論となり、国家資格をめぐって翌年に分裂。その間、「そんなバカな!」と、これまた何度も思うことがあった。そんなこんなでやがて1993年の日本社会臨床学会の設立にいたる。ぼくの所属する学会は変わり、5年後に再び京都に降り立って、江端さんと出会ったのである。イラクのこと、震災のこと、学会のこと。激動の時期のこれらと、江端さんの思い出が重なり、ぼくのなかの江端さんは「嵐を呼ぶ男」となっている。

精神医療を批判的に問うという領域で、ぼくと江端さんは別々の土地で、別々の視点の道を歩んできた。それがいま、顔と顔を合わせて話し合い、知りあっている。遠い遠いところを飛んでいたブーメランが、とんでもないところから返ってきたようだ。不思議なものである。

23年前の「だちんこになろう」という彼の叫びを思い出しつつ、いまこそ、彼の問いかけにできる限り応えたいと思う。

 

2018年7月24日

2008年という年

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:01 PM

 

雨が降る

■19:44のメッセージ

Sさん。あなたが亡くなって、ちょうど10年になります。月日がたったのですね。長いような、短いような時間でした。

半年入院しているあいだ面会できないままでした。亡くなったと、ある日、突然聞いたのですよ。

どのような病状だったのでしょう。何通かあるとされている遺書はいつ書かれたもので、何が書かれているのでしょう。線香すらあげられず、どこの墓地で眠っているのでしょう。私は何も知りません。

あなたとの関係は、あの冬の入院と同時にはさみで切るようにプツリと途絶えてしまいました。だから残された私(たち)が「真実」にむかってたどろうとすると、目の前には霧につつまれて見通せない回廊しかなく、しかもそれはエッシャーの描くだまし絵のように宙ぶらりんなっているのです。

私はいまでも同じ町に住んでいますから、街角や店を通りかると、ふとあなたを思い出します。まぶたに浮かぶあなたは、いつも別れた時と同じ。冬の町を背景に、長めのコートを着ています。

 

先日、ある集いがありました。私は分科会や講演会を担当しました。その一つに、「あれから10年、ぼくらはしぶとく暮らしています」という題をつけました。どこかであなたを意識していたのです。

にぎやかに過ごしたのですが、あなたを知らない参加者がタイトルを言い間違って、「あれから10年、ぼくらはしぶとく生きています」といいました。私は、ドキッとしました。そして「Sさん、あなたは生きてはいないんだよね」と胸の中でつぶやくのです。意識していたはずのあなたとの境を、あらためて思い知らされました。

 

7年ほど前、Sさんが亡くなって3年たったある日、利用者が使う4台のPCの1台にあったあるファイルが気になり、開きました。ネットに関した3つの短いデータを並べたテキストファイルです。作成された日時からすぐにあなたの作成とわかりました。2008年2月7日19:44。そんな時間に入力できるのは、あなたしかいませんでしたから。

3つのうち一つはサンネットに関するデータ。あとの二つは、“某グループ”に関するデータでした。それを眺め、あなたは某グループとサンネットの間に挟まれていたんだなあ、悩んでいたのだろうなとつくづく思ったものです。

 

もし“某グループ”の現状を、あなたがどこかで見ているなら、驚いていることでしょう。

あなたはお母さん大切にしたいと思っていました。それにつながりながら “某グループ”の「お母さん」もだいじにしたいと思っていたでしょう。それは知っています。だから「挟まれた」のですよね。しかし彼らは「親子のつながり」など何も求めていなかったのです。それはいまならわかるでしょう。

だから、あなたは挟まれる必要も、悩む必要もなかった…私はそう思っています。

 

あの出来事、表面的にはセルフヘルプ活動をめぐった出来事。

あれ以来、私は、福祉に関して別の可能性をいつも考えるようになりました。9・11以来、飛んでいる飛行機がビルに突き刺さるのではないかと想像する人が多くなったように、私は福祉に関して、本来の使い方ではない可能性について、考えるようになりました。

例えば、車イスにのった脳性まひ者の医師、熊谷晋一朗氏は、何にも依存しないで生きられるような人間はいないのだから、「多様な依存先を選択できる状態が自立」なのだと言ったりします(「ちくま」2018年8月号pp16)。すると、私は、ひとりで突っ込みを入れるのです。「この場合の『依存』とは、生命や暮らしにとっての必要性ですよね、他者を支配したいといった欲望のことではないよね。『選択』とは、提供者と受益者が相互に理解したり、理解し合えたりする種類の選択だよね」などと訳の分からぬ但し書きみたいなことを、誰かに向かってつぶやきます。

つまり、〈相手が知らないうちにほしい情報を取得し、あるいは相手が誤解するような行動をし、その結果、多様な情報がまとまった段階で、人に知られずある選択をする〉、それは自立ではないよね、と強迫的に念を押したくなるのです。

考える前提が変わりました。あれは、新しい時代の始まりだったのでしょうか? それとも古い時代の終わりの始まりだったのでしょうか? それを考えるとき、あなたの死はどのような意味を持つのでしょうか。それらは宛先不明の問いとして、霧の回廊のなかを漂い続けているのです。

 

■加藤智大(TK)による秋葉原事件

あなたが入院して亡くなるまでのあいだの2008年6月8日、あの秋葉原無差別殺傷事件がおきました。犯人が青森市出身だということで衝撃が走りました。

社会学者の見田宗介は、40年前の1968年の、やはり青森出身であるNN(永山則夫)が起こした全国連続射殺魔事件と比較して、次のように書いています。

 

40年前の事件については、かつてこれを「まなざしの地獄」として詳細に考察したことがある(が…)2008年の事件についてこれとの対比で見るならば、それは「まなざしの不在の地獄」であった。

アキハバラの犯罪の出発点となったのは、犯人TKが仕事に出てみると、自分用のつなぎ(作業服)がなかったことである。TKはいったん自分の部屋に帰って、自分は結局「だれからも必要とされていなかった人間」であると感じる。(「成熟した人間は、必要とされることを必要とする」エリクソン)(『現代社会はどこに向かうのか―高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018、pp.104-105)

 

見田は、アキハバラのTKもリストカッターも、生きる意味を見失った孤独の衝動的噴出とみています。TKが内向して自分に向かったのがリストカッターの少女であり、リストカットが外に向かって爆発したのがTKであると。

その全体を俯瞰するように、現代人はなぜこのように生きる意味を失ってしまったのだろうと、社会や文明のあり方を老社会学者が問いかけました。それがこの本のテーマなのですが、ごく簡単にダイジェストします。

 

——現代文明に直接つながる2500年前から人間は世界のとらえ方を変えた。2500年前、世界規模で生まれた交易、都市、貨幣というシステムは、人びとの生と思考を共同体という閉域から解き放った。しかしそこには「無限性」という真実(畏怖、苦悩、戦慄)の前に人間が立つことになる。この「無限性」に立ち向かうために、人間は「生と思考」を再構築するのだが、〈未来のための現在〉=〈目的のための手段化〉という思考もそのひとつだった。そのような思考方法が人々の心の奥に植え付けられてきた。

その結果、(現在を否定するのだから)人々は生活や社会のために日々苦闘することになるが、その努力が、未来の豊かな生活、満たされた社会となってわれわれの前に現前するにちがいないという“仮説”に希望を託し、仮説の世界を生きることになった。

ところが1970年代からの欧米や日本、1990年代からのより広範な先進国では“仮説”の虚構性があらわになる。環境問題や貨幣システムの限界といったできごとによって、「無限性」のなかから「有限性」が急に立ち上がったからだ。
現在を否定して未来を求めてきたのに、その未来もないのなら、私は世界に独りぼっちで残されるのだ…。実は、生れてきた意味も、生きる意味もなかったのだろう、と――。

 

見田はこんなふうにもいっているのです。

「加速に加速を重ねてきた(人類の歴史という)走行の果てに、突然(豊かな社会の実現という)目的地に到達して(仮説を失い)急停車する高速バスの乗客のように、現代人は宙を舞う。」(『現代社会はどこに向かうのか』pp.111)

TKも宙を舞ったひとりかもしれません。

中島岳志著『秋葉原事件―加藤智弘の軌跡』(2011、朝日新聞出版)という本があります。表紙は当時TKが派遣労働者として暮らしていた静岡県裾野市の風景写真。国道246号線をトラックや乗用車が走っていて、その向うに工場が見えます。TKは、事件の前年の秋から、トヨタ自動車の関連会社、関東自動車工業で働いていました。

本の帯には、「なぜ友達がいるのに、孤独だったのか?」と書かれています。「加速に加速を重ねてきた」近代の象徴のような工場、自動車専用道路、疾走する車両が映った表紙。表紙から離れた「宙を舞う」帯には「孤独」が書かれるのです。実に象徴的ではありませんか!

 

TKが働いていた関東自動車工業(現トヨタ東日本自動車)は、2020年12月末までに裾野市の工場の閉鎖を決定したと、先日報道されていました。彼が「必要とされていない」と感じたロッカーのある工場全体が、必要とされなくなったのです。自動車産業は全車電気自動車時代に向かって再編合理化を疾走しています。それは投資と消費の再開拓ですが、工場労働者や家族・下請け孫請け・派遣アルバイトは、時代の流れに必死でしがみつかねばなりません。ところが「疾走する流れ」にとってはしがみつかれる必要などなかったりするのです。

 

■2008.9.15リーマンショック

2007年アメリカの住宅価格は下落。サブプライム・ローンが不良債権化し始めました。日本にも影響は押し寄せ、雇い止めが表面化しました。雇用状況が悪化していたことがTKを心理的に追い詰めたのかと問う者もいたのですが、それは関係ないとTKはいいました。しかし、さらに事件後3ヵ月の9月15日、リーマンショックが世界的規模の金融危機を引き起こすと、日本の派遣労働者も絶望的な状況に直面することになりました。

リーマンショックをただの金融危機ではなく、そこに人間が生み出した「無限性」の破綻を読み取ろうとする見田は、「無限性」の由来から語り始めます。

 

球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても際限はないが、それでもひとつの「閉域」である。
グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。これもまた比喩でなく現実の論理である。21世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追及することをとおして立証してしまった有限性である。それが最終的であるのは、共同体にも国家にも域外があるが、地球に域外はないからである。
2008年「GM危機」は、直接にはサブプライム・ローン問題に端を発したグローバル・システムの崩壊の一環として現実化した。サブプライム・ローン問題とはアメリカの都市の貧しい地域の住宅価格が上昇し続けるはずであるということ、地域の貧しい人びとがその住宅担保ローンの元利を支払い続けることができるはずであるということ、この仮定(とそれから発展した虚構のシステムが…)一挙に崩壊したものである。(『現代社会はどこに向かうのか』pp.13-14)

 

経済的に困窮している貧困層に貸し付けた(非人間的とも思える)サブプライム・ローンに数学・工学的処理をほどこし、分割化・細分化をへて、ローリスク・ハイリターンであるかのように再パッケージしては、商品化されていました。

ここに見られる、金融化、グローバル化、数学化による「無限性」は、平らな「無限性」ではありません。奈落に落ちていくような、あるいは恒星の光が届かない宇宙のはてに永遠に浮かんだままの、そういった種類の「無限性」です。

2500年にわたって広がり、成長してきた「無限性」の破綻が始まる。そして、人間的な「有限性」が大きな歴史物語として立ち現れるのではないか、見田はこのように予感するのです。

 

■ゲーテッド・コミュニティ

今年、カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを、是枝裕和監督の『万引き家族』が受賞して話題になりました。昨年、同賞を受賞したのは『ザ・スクエア 思いやりの聖域』という映画でした。(リューベン・オストルンド監督、スウェーデン・ドイツ・フランス・デンマーク合作、2017年)。

ザ・スクエアが面白かった”という知人の声に誘われて、映画を見ました。するとここにも2008年が顔を出しています。『ザ・スクエア』のパンフレットにまだ40代の若い監督の次のようなメッセージが載っていました。

 

2008年、スウェーデンにはじめてのゲーテッド・コミュニティがオープンしました。門がついていて、認定を受けたオーナーのみがアクセスを許されるその居住区は、特権階級の人々がどのように自分たちを周囲から隔離するかの極端な例となりました。これは、政府債務増加と社会的利益の減少、ここ30年での貧富の格差拡大と共に、ヨーロッパ社会がますます個人主義になっていることの象徴でもあります。…一体、これが私たちの望む社会の発展なのでしょうか?(リューベン・オストルンド 2017年5月)

 

ゲーテッド・コミュニティとは、門と塀で囲われた地域に住むことで、外部者の流入を制限し、防犯性を高めようとする建築物です。スウェーデンにはじめて建てられたのが2008年なのですね。貨幣システムが伸びきった最先端であらわれたのです。

監督は、「格差、隔離、特権階級」がはっきり見えた2008年を意識しつつ、それを越境するものとして『ザ・スクエア』を撮りました。映画は、移民問題やSNS、格差社会の問題をかかえたスウェーデン社会を背景に、現代美術館のキュレータである主人公が、些細なことから窮地に陥り、不恰好でこっけいな行動を起こしながら、しだいに人間的決断をせまられる姿を描きます。

 

…(自らの主義にもとづいて行動しようとして、躊躇せざるをえない場面に遭遇することがあります。理想と現実の矛盾に直面するのです)本作で、我々は人間の弱さに直面します。正しいことをしようとするときに最も大変なことは、共通の価値観に同意することではなく、実際にそれに従って行動することです…     ( 同 )

 

いろいろな意味が読み取れる映画ですが、私には「関係性がもつ多様性」とでも表現したくなるものが感じられました。「多様性の関係」ではなく、関係性そのものに豊かな世界――論理を超えるもの、非条理の出来事、異質の文化――があって、その多様な世界を不恰好に生き抜くことが、ゲーテッド・コミュニティを超えること、そんなメッセージを読み取ったのです。それは見田の主張とどこか重なるのではないだろうかとも感じています。それはまた別の話ですが…。

 

2008年に思いを馳せてみましたが、さて、Sさん。

私は思うのです。あなたは、2008年2月7日19:44ファイルを記入して、そのあとどのような思いでドアを閉めたのでしょうか。事務所の電気を消し、エレベーターで下り、家路につくときどのような気分だったのでしょうか。

あなたはそのとき病気だったと思います。でも、闇に光るディスプレイに彼らの二つのデータを見ていたあなたは、表面上のデータと病気の症状を超えて、何かを知ろうとしていました。するとデータの奥底から何かが現れたはずです。人間の欲望の深淵をのぞきこむと、谷底から吹き上げるなまあたたかいものにつつまれます。切り立った崖に立って谷底をのぞくと、足の先から引き込まれていくような錯覚に陥るものです。同じような感覚があなたを襲ったのではないですか。

 

…文明的孤独をリストカッターとTKが体現しているとしても、その人々の群れをターゲットにしてしまう人間がいないと言い切れるだろうか。絶望的な孤独に近づき、そこを住処にするもう一つの「サブプライムローン」がないと断言できるだろうか。秘密の手法を門塀でしっかり閉ざし、内側に暴力と憎悪を収めこむ建造物をつくり続ける。それは現代版のバベルの塔ではないか…

 

その時、あなたが見たものは理想と現実の矛盾や躊躇ではなく、あなたの価値観や信頼感、心のよりどころ、深いところの記憶と感情を射抜き、破壊してしまうようなディスプレイからの逆照射だったのではないですか。

2008年。もし、近代の終わりが始まった年だとしたら、彼らの欲望の深淵はその近代の最果てかもしれません。それもふくめて終わりの始まりだったかも知れませんが、2008年、それはまだ不透明でした。

 

あなたが終了させた生は、人間性と関係性にねざした新しい世界の始まりの始まりだった。そう思いたい私がいます。終わりの始まりは生き残り、始まりの始まりが命を絶つ。ポロリとこぼれるような矛盾。

2008年がどのような年だったのか。それはこれからもっと明かになっていくでしょう。その一方、あなたの生と死は歴史の堆積のなかに静かに埋もれるのです。風にそよぐレースのカーテンように、人びとの歴史という風があなたをなぜては過ぎ去ります。何千万回、何億兆回と繰り返しては過ぎていきます。元々が何だったのか、生れていたか死んでいるのか、それすら忘れてしまうかもしれませんね。でも、それはそれでいいのではないかと思います。

私のなかでは、Sさん、あなたはずっとあなたのままです。

だからまたいつか会いましょう。会ってくださいね。

 

2018年6月3日

分裂

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:33 PM

(写真1)1979年6月 名古屋

■分裂・解消
全国「精神病」者集団という組織があるのですが、一昨年から、この団体の内部問題が表面化していました。

精神保健福祉にかかわっている人でも、この団体名や歴史的な位置づけを知らない人がたくさんいます。知らなかった人が、いまこの名を聞けば、おどろおどろしく感じるでしょう。団体名になぜかカッコがついているし、「集団」というネーミングに違和感をおぼえるかもしれません。
私が最初にこの団体の人と出会ったのは1975年頃だと思います。1977年~79年にはいっしょに行動することもありました。その後は縁遠くなりましたが、この10年余前からあることがきっかけになって、再び会のニュースを読んだり、関心を寄せていました。

一昨年以前から、団体の存在意義への疑問がニュースに載せられたりしていましたから、内部問題がありそうだと感じていました。

2016年の秋になると、はっきりと二つに分かれて、別々に通信をだしあうようになります。表面的な問題としては、他団体との関係のあり方、組織運営の責任の所在などでしたが、それ以前のポツポツ散見していたものから想像すると、もっと深い運動スタイルのようなものの衝突が予感されていました。
弁護士を含む外部仲介者が、泥仕合化を避けるべく介入したようです。そのこともあってことの「原因」「真相」ははっきりしないまま、推移していました。そして紆余曲折の末、この春、ある合意がなされたそうです。

 

…(全国「精神病」者集団は)2018年3月、2つの独立した団体とする合意が成立、2018年4月30日をもって解散した。この経緯は、全国「精神病」者集団ニュース最終号記事に詳しく述べられている。
なお、世界精神医療ユーザー・サバイバーネットワークへの日本からの加盟団体を含め、全国「精神病」者集団が日本唯一の加盟団体として行っていた活動の今後については、2018年5月30日時点では未定。…(ウィキペディアより)
(https://ja.wikipedia.org/wiki/全国「精神病」者集団 引用2018.6.3)

 

80年代から全国「精神病」者集団で中心的な役割を担ってきた人は、全国「精神病」者集団と同じ原則を継承しつつ、「精神障害者権利主張センター・絆」という名で団体を立ち上げました。(二つのグループのこちら側を「絆派」とします)
( www.jngmdp.org/  http://acppd.org/ 2018.6.3)

ところが5月末になると、もう一方のグループが、絆派の代表者の名をさして、「全国「精神病」者集団は解散したなどと、合意書及び話し合いの記録に存在しない虚偽の事実まで流布して」いると抗議しました。そして、事実上、合意内容を破棄し、再び、「全国「精神病」者集団を名乗り始めました。

こちらのグループは、10年以上前から「全国「精神病」者集団運営委員という立場で活動してきた人たちが中心です。(便宜的にこちらのグループを「運営委員会派」とします)

泥仕合にならないようにと配慮したはずの、仲介者の方策案だったのに、無に帰したようです。
市民運動を進展させるために、過去のことを掘り起こさず(真相は問わず)、前に進むための調整だったと私は理解していました。利害や主張を折り合うことで、調整は可能になります。一方だけが団体名の看板をもらい受け、相手方を別組織に分離して、しかも真相にはふれないというのでは、「一人勝ち」です。そうなっては、行なわれた調整は、実は調整でなく、調整に見せかけたある種のトリックだったということになってしまいます。

解散分裂に至ったきっかけの一つに、2016年夏頃にあったML(メーリングリスト)でのやりとりがあるといいます。運営委員会派に関係するある男性メンバーが、性暴力をふるったことがあると絆派の人がMLに書き込み、名指しされたほうの運営委員会派の人も、それに対して反論したという、やりとりがあったようです。
運営委員会派のニュースにこのことが書いてありますが、運営委員会派が、なぜ、個別の関係の問題を組織問題までに拡大しなければならなかったのか、その事情がよくわかりません。

運営委員会派ニュース(2016.10 vol.42 No.7 www.arsvi.com/2010/20161018zss.pdf
2017.1 vol.43 No.1 http://www.arsvi.com/2010/20170109zss.pdf )

 

事件があったのか、なかったのかそれは知る由もありません。しかし、運営委員会派のニュースの書き方が腑に落ちません。
性暴力をふるったと言った人はその根拠を示さない。名指しされた人物は必死の訴えをしている。したがって事件はなかったと思われる。無実だという彼の言い分を信じる。仮にあったにせよ、MLで言い立てるのは名誉毀損ではないか――というのが、運営委員派の立ち位置でした。

組織問題として扱っているのですから、名指しされた人が全国「精神病」者集団の運営にかかわっている重要な人なのか、あるいは運動のなかの事件かもしれません。そう想像します。市民運動とまったくかかわりのないところで起きたものなら、個別的な関係のなかで解決を図ろうとするはずです。こういった問題の多くはMLのなかで収めようとします。

会社のなかで仕事の延長で同様のことが起きたら、セクハラ、性暴力の事実究明に力を入れると思います。個人の名誉毀損的に暴露と、刑事事件になるかもしれない性暴力事件の有無を計りにかけ、慎重に調査をするはずです。セクハラがあったといった社員に「根拠を示せ、それがなければ言いがかりといっしょだ」などとはいえません。それでは先日の財務省事務次官のセクハラ問題のときの麻生大臣と似たりよったりになってしまいます。

いろいろ調べて、性暴力の事件性がないらしいと判断したら、あとは個人どうしの了解に任せるか、非のある側に注意する程度ではないでしょうか。

運営委員会派の態度は、重いはずの性暴力事件について簡単にやり過ごし、名誉毀損的な言動に対して力をこめて向きあっているように見えます。

運動の内部で起きてくる「深い問題」は自己切開するしかありません。事件があったのか、なかったのか、それは運営に責任をもっている人間たちが、議論をきちんとしよう、たとえ厳しい結果になろうと受け入れるべきと高い価値観をもつ必要があるでしょう。あるいは周囲に政治的に緊迫した状態があって自己切開せざるを得なくなる状況があるとかが必要です。

 

■1979年の思い出
さて、写真は、結成して5年目の全国「精神病」者集団が呼びかけて開催された第4回全国精神障害者交流集会のスナップです。私が撮った写真です。

1977年から1979年秋まで私は「八王子赤堀さんと共に闘う会」という会で活動しました。知的障害ゆえに殺人事件の犯人にデッチあげられた死刑囚赤堀政雄さんを支援する会でした。

私は福祉の現場に出たばかりで、「する側」の仕事だけしていていいのだろうかと後ろめたさを感じていました。翌年、このようなかたちで障害者にかかわる会もあることを知ったときは、「これだ!」と思いました。飛び込むようにかかわりました。

単純な正義感だけがあって、政治的には無自覚だった私が飛び込んだ活動空間は、新左翼の党派の人たちがうようよいるところでした。そ

(写真2)赤堀さんと共に闘う会の旗も見える

ういう時代です。八王子赤堀さんと共に闘う会には病気の人も何人かしました。地域で支えあうという営みにもとりかかっていました。そしてあるセクトの人が2,3人いました。

赤堀さんを救援する活動は、新左翼系的においては赤堀闘争と呼ばれ、「救う」のではない「共に闘って、奪還する」のだという位置づけでした。「関東赤堀さんと共に闘う会」という会が池袋の近くにあって、首都圏の活動センターとして機能していたようです。いくつもの党派が集まる「関東赤堀さんと共に闘う会」の議論は延々長くて、たいへんだったようです。
1978年、赤堀闘争の主体は病者、障害者にならなければならないという動きの中で、戦闘的な党派の人たちと、裁判闘争に貢献する地道な活動も主張する党派の人たちとの間で確執が強くなりました。

それまで全国的な集会の場合、担って来た「関東赤堀さんと共に闘う会」が全体としては動けないという状態になったため、私が、当時名古屋にあった全国「精神病」者集団の事務所に連絡で向かったり、党派の人たちに何を用意してほしいと分担してもらったりという調整役をする羽目になってしまいました。私たちの会に参加していたセクトが赤堀闘争全体のヘゲモニーを把握するようになり、私たちの会からノンセクトの私を派遣させることが全体のバランス上よいと判断されたようです。
よくわからないまま動いていた私ですが、そんななかでいろいろな人と知り合い、仲良くなる人もいました。

翌年、名古屋であった写真の第4回全国精神障害者交流集会にも、前年のいろいろな関係を引きずって参加しました。たまたま写真1に写ってしまった女性は物静かな人で、党派性を超えて動いてくれた人です。私は助かりました。懐かしい写真です。

集会では保育室をつくったり、静養室を用意したりしましたから、病者より学生や支援者がたくさんいました。みんなで作り上げた集会だったのです。私は記録のために集会の録音もしました。

■いこいの家というイメージ
当時、全国「精神病」者集団のメンバーで、吉田おさみさんという方がいました。彼は理論家でした。彼は自分たちの組織、全国「精神病」者集団のことをこんなふうに書いています。

 

…全国の地域患者会、病院患者会の連合会として、全国「精神病」者集団があります。それは、むしろ少数精鋭の前衛的な組織であり…患者の側からの政治運動の先頭に立って闘っています…現在事務局は名古屋にあり、月一回連絡会議を開き、ニュースを出し、機関誌『絆』も八号まで出されています。強いて問題をいえば、活動する(できる)人が少ないこと、患者大衆とのギャップをどうして埋めていくかということ、それと資金難です…(「精神障害者」の解放と連帯、新泉社、1983年、pp47)

 

活動できる人が少ないというのは、病気で思うように活動できないという吉田さん自身の事情も含まれています。患者大衆とのギャップというのは、政治的な課題だけでなく、日常的な、暮らしのレベルでの支えあいと政治的な覚醒について述べていると思います。先鋭的な政治課題をかかええた生まれたばかりの当事者運動は、日常的な支援関係も希求していました。
写真1の奥は演壇で、壁には何本もの垂れ幕が下がっています。右の方に目を凝らすと、「各地域において『いこいの家』の創出に努力しよう」といったスローガンも見えます。

精神病の人が具合の悪い時に休める家、入院している人が退院できる家、仲間と出会えるみんなの家、そんなイメージを、戦闘的なたくさんの政治課題の脇に、そっと並べていたのです。それが1979年でした。

 

■盗聴といわれた
名古屋の全国交流集会から何十年もたってから、全国「精神病」者集団の運営委員会派のある人から第4回全国精神障害者交流集会の録音テープのことについてこんなふうに書かれたことがありました。

 

…七九年に名古屋で第4回の「病」者集団の大会あったじゃないですか。誰かが盗聴していたテープが残っているんです。許せないことだけど、今となれば。…(現代思想、2014年、5月号、P201)

 

録音テープは私がその後ずっと保管していて、2007年に私の家にあるテープの存在をその人に教えました。翌年、その人は、全国「精神病」者集団の別のある人がそのテープを聞きたいと言っているといってきました。私は「テープを貸し出します。必要なくなったら返却ください」とメモを入れて事務所に郵送しました。そういう経過で、全国「精神病」者集団の元に「残っている」というわけです。ですから、このような一文に出会ったときたいへん驚きました。でも彼がいいたいことは何か、それはよくわかりました。

事実というのは「他人を貶めるためにこうも言える」ということであってはなりません。事実なり、主張は、ことの真実、人と人の信頼、そういった人間的な価値に向って整えられるべきです。全国「精神病」者集団の今後に向けてさらに多くの事実や主張が語られるかもしれません。それはどの人にとっても喜びや敬意をもって受け入れられるものとして積み上げられてほしいものです。

そうでなければ、今度もこの写真が「盗撮だ」と言われかねませんから。

あの交流会から39年目の初夏。

2017年3月28日

卒業するあなたに

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:16 PM
青森で見る、なごり雪

青森で見る、なごり雪

 

先日の夕方、黒い雲が残りつつ、西の空に透きとおるような青空が小さく顔を出していました。まるで、空の神様が「青森にも春が近づいていますよ」と挨拶しているようでした。

今頃、あなたは青森から東京に。南にと向っていることでしょう。新しい生活が始まろうとしているのですね。人生には大きな区切りがありますが、卒業・就職の区切りも大きな出来事です。
そんな時期に同封した『プシコ  ナウティカ』(世界思想社、2014年、松嶋健)をプレゼントさせてください。

仕事と人生にはいろいろなことが起きます。不安なとき、達成感あふれるとき、悲しさにつつまれるとき、どこを見ても元気が見つけられないときも…。喜怒哀楽が織り成される。それが仕事、人生というものです。誰もがそれを経験します。

きっとあなたにもそんないろいろなことがあって、いつかふとこの本を思い出しては、パラパラとめくるかもしれませんね。3ヵ月か、3年後か…もっともっと後かもしれませんが。でも、この本は、いつもあなたを応援してくれるだろうと僕は信じて、贈るのです。

 

この本にある小さなエピソード(p194)。

イタリアの司法精神病院に入院していた20代の男性、ヤコポは施設の生活に適応していた。しかし自分で自分のことを決定しなければならない地域生活を始めようとすると、誰かが自分を見張っているという妄想に襲われて、調子が悪くなる…。僕の想像ですが、ヤコポは知的障害がありそうです。彼は、パンを丸ごと出されれば、そのまま切らずに一口で食べてしまう、そんな人だったそうです。

いつまでも司法精神病院にいられるものではありません。退院して、薬を箱詰めにする仕事場に通うことになります。ところが仕事場に通うバスに乗ると、ずっと左側を向いている彼の癖のため、左側に座ったときは降りるべきバス停がわかるのですが、右側に座ってしまうと外が見えず、終点まで行ってしまうのです。

最初は看護婦が付き添っていたのですが、そのうち、バスの運転手やその時間にいつも乗り合わせる乗客が、ヤコポをいつも左側の座席に乗せるようになったのでした。

これだけの、どこにもありそうなエピソードです。

ヤコポは左側のバス停を見たい、けれども右側と左側のどちらの座席に座れば左側のバス停が見られるか、それが彼にはわからない。そこで彼が見たい位置になるように同乗した人々が応援したのではないでしょうか。つまり、彼がキチンと仕事場に行けるように看護したのではなく、見たい風景が見られるように応援した。そう思いたいものです。

最初付き添った看護婦は、バスに同乗した人々が彼にそのように振舞うようにモデルを提供したともいえます。

 

この本はイタリアが舞台というところがいいです。旅行している気分になりますから。イタリア精神医療の歴史もかなり詳細に書いています。社会思想の知識が必要な部分もあります。精神医療とどう関係あるのかわからないというところもあるかもしれません。でも、ヤコポのようなエピソードがところどころに挿入され、旅人のような著者の視点から語られます。専門家なら見逃してしまうようなエピソードですが、こういったエピソードは僕らの仕事が社会に開いているという当たり前の事実を気づかしてくれるのです。

 

10年前、私はある事件を目撃しました。なんかのちょっとしたすれ違いかと思っていましたが、実は、その根っこには、ある人々の隠された欲望があって、長い期間それに悩まされました。

いま、その事件を後押ししていたものは「市場原理」であり「能力主義」であると確信しています。

福祉も医療ももちろん市場経済の枠組みの中にあるのですが、それでも市場経済にはない「人間的な何か」があると、当時は思っていましたが、いまや福祉や医療も、それらの原理が全面を覆っています。

ヤコポの事例であれば、いまでは、介助を行う体制や送迎を充実すべきだという意見が多いでしょう。「人間的な何か」はシステムの背後に隠れてしまいました。バスの乗客や運転手に彼の介助を頼むのは無責任だと考える人が多くなりました。「市場原理」に支えられたシステムしか目に入らなくなったのです。

 

僕らの仕事は、時に、無意味と思うことがあります。壁に突き当たり、トラブルに打ちひしがれる。悲しみは人生を豊かにしてくれますが、つらいことです。そんな時、思い出したら、この本を開いてください。見えにくくなった「人間的な何か」を気づかせてくれると思うのです。

あるいは、休日にこの本を枕にして昼寝をするとストレス回復になるかもしれませんよ。

それでは、身体をだいじにして、お元気にお過ごしください。いってらっしゃい。

 

2016年10月8日

トマトソース

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:27 PM
勝ち組・家族の肖像

勝ち組・家族の肖像

■写真

この写真の右には「大東亜戦捷(せんしょう=戦勝)記念祝賀會(会)」という幕が垂れている。前では幼い女の子が日の丸を広げている。

一番後ろの列、左から2番目に立っているのは私の父だ。母や兄姉はなぜか写っていない。しかし、皆、正装しているから、公的な集まりであることがわかる。頭にリボンをつけている女の子がいる。これは、学校や行事などで必ず装うこの地の習慣である。場所はブラジル・サンパウロ、1945年から何年もたっていない頃だと思う。

日本が米英と戦った太平洋戦争、大東亜戦争の勝利を「祝う」集まりの記念写真である。父も母も、生前にこのことについては何も語らなかった。

壁に囲まれた場所で撮った写真、まるで人目を避けているようだ。参加者の表情から「祝賀」という喜びは伝わらない。じっと見ていると、「日本が勝った」というこれらの人たちは、実は「日本は勝っていない」ことを知っているのではないか、そう思えてくる。

彼らは、世界大戦後、日本が勝ったと主張した「勝ち組」である。ブラジルの日系社会の勝ち組は有名だが、南米各地にあったという。ブラジルの「勝ち組」は「負け組」より多く、日系では多数派だ。

現代からこの「勝ち組」のできごとを振り返れば、情報不足、集団妄信などの過去の遺物だと思うに違いない。正確に事実を把握できなかった、未開の時代のできごとと受け止めるだろう。

だが、「勝ち組」の末裔であるぼくには、勝った負けたの「事実」だけをめぐって彼らが活動したのではないだろうと思う。客観的な事実問題ではなく、それぞれの胸のうちに、わが身を「勝ち組」活動にと押し出す何かがあったのではないか。そう思う「根拠」が、この写真の緊迫した表情の面々とそれをしっかり取り囲む壁である。

ただの集団的妄信なら、正装した老若男女が静かに集まり、このような写真が撮れただろうか。彼らの胸の中には「故郷の人たちが無事であってほしい、あの山あの川がそのままであってほしい」という願いが広がっていたに違いない、とぼくは思う。

写真を見ていると、ずっとあとになって兄が集めていたいくつもの瓶詰めトマトソースが想起される。「勝ち組」にも、トマトソースにも、ぼくが思うのは、人には、客観的な事実に優先させる「心の現実」、何らかの体験や記憶に裏打ちされたその人固有の「現実」というものがあるのではないかということである。

 

■トマトソース

「勝ち組」の我が家族は、1951年に大型客船で大西洋を周り、ケープタウン、シンガポールに寄港し、日本に帰国した。神戸港にたどり着いたとき日本が負けたことを初めて思い知らされた。船上から見えた神戸の町には、空襲で焼かれた建造物が残っていて、たくさんの浮浪者がいたのだった。

帰国したとき兄は16歳だった。ナイーブな年齢で異なる環境にやって来た彼にとっての日本は、苦労の対象でしかなかった。ずっと生きづらいまま、日本を生き抜いたと思う。

1970年代後半、ぼくは就職した。忙しくなり実家にほとんど足を運ばなくなった。

40歳代になった独者の兄は、両親と暮らしていた。口下手な兄は頑固者の父を避ける。ふらふらと作業着で家に帰ってくると、立って飯をかきこみ、また出かけていく。夜勤なのか、飲みに行くのかはわからない。ダンボール工場で働く父は宿直もし続けていたからあまり家に帰らなかった。母はパート仕事をやめて、自動車部品の内職をしていた。

そんな静かな実家に、ぼくもたまには帰る。あるとき冷蔵庫を開けると、トマトケチャップやトマトソースがいく種類もやけに並んでいるのに気づいた。別の棚にはふたを開けていない瓶もたくさんある。母に聞くと、兄がいろいろ買ってくるという。そうか、トマトソースが好きなのか…。ぼくはそう思い、そのときはそれで終わる。オチのないできごとは記憶の奥に埋もれていった。

何十年も時が過ぎ、両親も兄も鬼籍に入っている。

いまになって気がつくのだが、兄は、ブラジルで食べたトマトソースの料理を懐かしんでいたのではないだろうか。

中高年になると妙に子どもの頃のことが懐かしくなる。食べたもの、見たこと、聞いたこと。もう一度味わいたいと思うようになる。ただ兄の場合問題だったのは、2万㎞も離れた異国を懐かしんだことだった。

兄は子ども時代に味わったあの味を捜し求めてトマトソースを買い求め、思い出と違うことを確認させられて、また探した。おそらく、彼が求めているものは日本には決してないことはわかっているのだが、探さないわけにはいかなかった…。

その結果、いくつものトマトソースの瓶詰めが並んでしまった。兄の心に残っているトマトソースの味。それは日本のトマトソースとはいつも少しばかり違っていたのだろう。

 

■少数者

大戦直後のブラジルの日系人も、日本を生きた兄も、少数者として生きざるをえなかった。そして少数者は多数者に理解できないものを切望することがある。

多数者が望むものは、自身が所属する社会のなかで容易に手に入れることができる。情報、願い、食材、友人、職業…。振り返ればそこにある。いまは手に入らなくとも、我慢すればいずれは手に入れる。少なくても可能性は高い。その世界にあるモノの中で生きてきたのであるし、アクセスできる力がある。

少数者には、望むものが手に入らない。手に入れる力が弱い。あるいは、その世界にないものを望んでいる。

多数者は馴染んだたくさんのモノたちに囲まれて生きる。しかし、世界のはてにも淵があって、そこから球面になる。少数者は球面の内側から外側に押し出されて、球の表面を歩まねばならない。世界に接触しているのだが、内部からはみ出ているともいえる。球の表面を、望むものを手に入れようと歩き続けるが同じところに再び戻る。ぐるぐると回っても、手に入らない。

かつての「勝ち組」も、兄も、手に入らないものを捜し求めていたのだが、どうしてこのようなことが起きてしまうのか。ここには「心の現実」を必要とする深い原理のようなものが働いているに違いないと思う。手に入らないものを切実に求め続ける人間がいるからこそ、社会は成り立つのではないか。社会からはみ出しかかった人によって、社会は原動力を得ているのではないだろうか。そのようなことを考える。

社会の中心部には満たされる人間がいる。周辺部には決して満たされない人間がいる。そのために中心と周辺との間には、求心力と斥力が働く。その力によって、社会全体は安定と不安定の鼓動を打ち始める。

少数者は願いを、いつも社会の外側に向って投げかける。そのことによってその社会は閉じることができず、開かれた存在になる。周辺の少数者が、多数者によって平坦になりかねない世界を救うのである。このようなイメージが浮かんでくる。

「勝ち組」がそうであるように、こういった関係は、多数者との衝突・緊張を含み、狂気に近く、非日常的、破壊的ですらある。多数者からはネガティブに扱われやすいこのエネルギーだが、それは少数者の一人ひとりの切実さという「心の現実」にしっかり根を張っている。さらに、このエネルギーの束は、少数者個々人を貫き、世界の最深部につながり、世界全体の作用にかかわっているに違いないのだ。

 

PS:この写真に写っていない母のことだが、彼女は大戦中、日系社会から離れるように暮らし、近所には(枢軸国側ではない)中国人といっていたという。だから、戦後の勝ち組活動にも乗り気ではなかったかもしれない。父のようなまじめな勝ち組もいれば、母のような少数者もいて、複雑に絡み合いながら社会の周辺を生き延び、社会を豊かにしていったのだろう。

2016年8月16日

戸籍謄本

Filed under: つぶやき — toshio @ 12:26 PM
ふりそそぐ夏の日

ふりそそぐ夏の日

独り者だった私の兄が亡くなって4年になる。享年77歳だった。兄と同居していた姉が自宅で看取った。晩年は病気がちだった兄、その彼を介護した姉。二人とも十分頑張って最期をむかえることができたのだと思う。

葬式を済ませ、兄名義になっている自宅を、看取った姉に譲り渡す変更をすることになった。その面倒な手続きを、もう一人の姉の姪が買って出てくれた。

父方と母方の戸籍(除籍)謄本を何通も取り寄せ、親族関係を調べたり、相続放棄をしてもらったりといろいろ手間がかかった。遠く離れて何もできない私は、ありがたいことだとつくづく思うしかなかった。

一方で、自分の親族関係をよく知らないまま年齢を重ねてきた私は、戸籍謄本に興味が起きた。親族関係はどういうことになっていたのだろう。だいたい祖父母の名前すら知らないし…。目を通してみたくなった私は、姪に頼んでコピーを送ってもらうことにした。

送り届いた古い書類をながめると、女の人たちの何人かの名が変体仮名で書かれているので読めない。ネットで調べ、古い辞書の付録の変体仮名一覧を見つめる。親族の関係を調べてみよう! という熱気はだんだん冷めて、せっかく送ってもらったコピーは机の書類の山のどこかに埋もれてしまった。

 

今年の夏、4年ぶりにその戸籍謄本のコピーを引っ張り出し、再び、親族関係図作成に取り組んだ。読めない変体仮名を、そのまま画像にしてファイルに添付することを思いつき、二日がかりでようやく、7通の戸籍謄本と60人余の関係図を仕上げた。65%の縮小をかけて印刷しても、A4用紙4枚になる系図を、夏休みの宿題を一つやり終えたような快感をもちながらしげしげ眺める。

どのような人に、何が起こり、どんな人生を送ったのか、ほとんどわからないことばかりだが、間違いなくそれは一人一人の人生の記録の一部である。ある人生が、親子兄弟関係・年月日・事由・役場の職名によって記述され、他の人生と結びつき織りあわされている。このような人々の群れの中に自分も存在しているということを、視覚で理解すると、ある種の感慨がこみ上げてくる。

 

一覧にして眺めながら気づいたことがいくつかある。その一つは、結婚や出産の「届出」の感覚が、かつては現代とずいぶん違っていたらしいということである。

いま、結婚式(事実)→入籍届(届)→出産(事実)→出生届(届)という速やかな届出が当たり前というの「常識」がある、と思う。出産したが、役所に出生届を怠っている親がいれば、その人は子を虐待しているとみなす。子どもが生まれれば、出生届をして扶養家族に入れ、健康保険が使えるようにして、病院受診と医療費の支払いが可能なようにする。子ども手当、保育所入所なども住民票が必要だ。戸籍への出生届を怠ることは、医療・福祉・保健・教育・税制度へのかかわりを拒むことになり、空気や水を与えないことと同じだと思う感覚がほぼ一般的だろう。

ところが、その「感覚」は、かつてはずいぶん違っていたようだ。作った系図をながめると届出は起こった事実に対して速やかに行われているわけではないことがわかる。現実世界の「結婚→出産」のできごとと、戸籍に届ける「入籍届→出生届」の書類の表現世界とが、ずいぶん乖離していたことを読み取ることができるのだ。

 

父方の祖父道之助は安政三年の生れである。三代前にさかのぼっただけで幕末になってしまう。父哲雄は、祖父道之助が54歳の時の子どもである。私は父が41歳の時に生れている。そして私は64歳になった。それを足せば157年になるから、そういうことになるのだが、祖父が12歳で明治維新をむかえているという事実を納得することはむずかしい。

父は後妻の子どもである。祖父道之助はずいぶん若くして子どもをつくっていて、父にしてみるとずいぶん年の離れた異母兄がいた。名を廣といった。

その長男・廣が生まれたのは、明治11年である。その頃は、戸籍制度ができて間もなかい時期である。妻こまとの結婚を届け出たのは明治15年で、廣は4歳になっていた。祖父道之助は埼玉県東部の村に住み、豊かな家であったというから、届が遅れたのは制度がまだ未成熟であったからかもしれない。

廣は30歳になると、ある女性との間に男の子をもうけた。しかし、その子が6歳になるまで籍を入れるどころか、認知もしなかった。7歳になってようやく認知し、同時に結婚届も出している。その後、廣とその妻の間に五男三女をえて、多くの子どもに恵まれることになった。

長男の認知と入籍が遅れたのは事情があったのかもしれない。その長男は博といい、父廣と同じ音である。母は、祝言をすることも難しい事情を案じ、わが子に父と同じ名をつけたのではないだろうかと思えてくる。

その博が23歳の時、昭和5年2月7日に長女を得るが、妻ソヨとの結婚届と一緒に2月15日に出生届をしている。昭和の初めごろは届出について、まだまだのんびりした感覚があったのだろう。

父方の祖父から始まる親子三代は、明治、大正、昭和にわたり、戸籍の記載と現実がずれている。男女関係、子どもの出生、家と個人などの現実は、もともと世間体が求めるつじつまとうまく合うわけではない。まして戸籍の記載などにはどうしても矛盾が入り込む。

戦前の戸籍制度が求めているのは、戸主権力という単位であって、個々人の情報管理ではなかったということもあるのかもしれない。

 

母方を見てみても似たことがある。岩手の県南の村で暮らしていた曾祖父秀之進が長男岩儀を得たのは明治27年だが、結婚し入籍したのは翌年である。1年遅れているのだ。岩儀は22歳になると結婚する。大正3年であり、その翌年母キミエが生まれている。

ところが、母は生前、「本当は」大正3年生まれだとよく話していた。その頃、赤ん坊のうちに亡くなることが多く、最初の子どもであり、大きく育つまで出生届を遅らせていたのかもしれないと思う。母の話から、実際は、結婚(祝言)→妊娠→結婚届→出産→1歳を過ぎて出産届ではなかったのだろうかと想像している。

決して貧しくなかった家だが、岩儀は商売で失敗すると、母が長じる頃には相当暮らしに困るようになる。そのこともあるのか、妹たちをたくさん病気で失っている。すぐ下の妹は生後2週間ほどで亡くし、五番目の妹は死産だったようだ。四番目の妹は16歳の時に結核で亡くなった。家は多くの死を送る場でもあったと思う。

今や結婚届、出生届を行うことは当たり前だ。しかし、その届けるという行為とセットになって医療や福祉に結びつくということがある。

医療や福祉に結びつくことは、「生」や「死」を医療にゆだね、「子育て」「介護」を福の支援で行うことである。それに「生産」をするために会社に行き、「消費」をするために町をぶらつく。個々人の家の役割は小さくなり、しかしとてもきれいになった。家に残されたのは「性」と「金」の問題だけかもしれない。

 

系図を見ては、この150年、おそろしいほど人々の生活と暮らしは変わったものだと思う。

2016年7月30日

私が覚えているのは

Filed under: つぶやき — toshio @ 2:39 PM
池のほとりの夏

池のほとりの夏

7月26日、神奈川県の津久井やまゆり園で起きた殺傷事件に衝撃を受ける。

怒りを通りこし、行き場のない悲しみにつつまれる。元職員・植松聖容疑者に関する情報が断片的に伝わるが、やるせなさばかりがつのる。

植松容疑者が語ったという、障害者が「幸せに見えない」から、職員になったが、同じ理屈で殺傷に至ったという言葉。

なぜ他人の幸せや不幸せが「見える」というのか。それは、感じたり、心を寄り添わせたりするものなのに。彼は他人の幸せや思いを感じられる「力」がなかったから、他人の幸せが「見えなかった」。そして自分の幸せも見えなかったのだろうと思う。

この悲しみを越えるにはたくさんの時間がかかる。

障害者も健常者も、老いも若きも、他者を「見よう」とするのではなく「感じる」ことを積み重ねていこう。感じようとする思いが、ブナの森の落葉のように堆積し、水を含み、虫や動物をはぐくむ。ゆっくりと土に帰っていくほどのながい時間が流れていく。そのはてに…。

ずいぶん前に聞いた話を思い出した。

サラ・ファブリの話。ハンガリーからアウシュビッツの強制収容所に移送されたその最初の夜のこと。当時、彼女は14歳。

私は暗闇の中で、他の女の子たちの中にぎゅうぎゅう詰めになってかがみこんだ。一部屋に300人か400人もいて暑くて臭かった。私はもうこれですべては終わりだと思い、必死になって何かにすがりつこうとした。でもだめだった。死にたいとは思わなかったけど、生きていたくなかった。その後も私の人生にはいろいろ悲しいことがいっぱいあったけれど、あの恐ろしい第一夜のような思いはしたことがない。

しばらくして誰かが私に話しかけているのに気づいた。暗闇の中で私の身体にまわした誰かの腕を感じた。誰かが話しかけた。「ここから出たいでしょう。また自由になりたいでしょう。それならしっかりしなくっちゃ!」と。彼女はそれを繰り返し、繰り返し、言い続けた。私が何と言ったか覚えていない。多分、家族のこと、独りぼっちだということだったと思う。なぜなら彼女は「あなたは独りぼっちじゃない。私たちはみんな家族ですもの」と言ったから。

彼女はそういうことを何度も何度も繰り返して言った。何度言ったかわからない。私の覚えているのはただあの暗い夜、あの声、そして私の肩にまわされたあの腕だけだ。

今日にいたっても、私の肩をかかえた腕の感触を思い出すことができる。どんな声だったかは思い出せないけど、耳元に繰り返しささやいてくれた言葉をはっきりと覚えている。

(戦争を生きぬいた女たち 38人の真実の記録 サリー・ハイトン=キューヴァ編著 加藤永都子訳 新宿書房 1989年 P219)

 

仮に、この世の中に2種類の腕があって、一つは少女を暗い部屋に閉じ込める「腕」、もう一つは、絶望に直面した彼女をかかえる「腕」の二つしかないとしたら、ぼくたちは(障害者も健常者も、老いも若きもという意味の「ぼくたち」なのだが)後者の「腕」になろうと日々生きているのではないだろうか。

夢想かもしれないがそのように思いたいのだ。

2016年7月11日

差別と解放

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:49 PM
ゴンドラの唄が聞こえてきそうな

ゴンドラの唄が聞こえてきそうな

『ふしぎな部落問題』(ちくま新書、2016年)という本が、最近、出版されました。本の著者、角岡伸彦氏は、1963年生まれのノンフィクションライター。裏表紙に兵庫県加古川市の被差別部落で生まれ、育ったと書いてあります。

部落問題についての本はずいぶん久しぶりでした。この本を読み、かつてのような「部落解放」「差別糾弾」というスローガン的運動ではどうしても越えられない課題について考えさせられました。

彼は、部落“差別”といかに闘うかという「差別を問う」というスタンスではありません。差別の内側にいて、部落をどう生き、そのうえで差別を超える社会をどのように見通すのかという、差別される側に立脚しつつ見えてくるものを語ろうとします。

生身の現実へのこだわりが彼の視点です。大学卒業後、神戸新聞で働いたという経歴があるそうですから、そういった経験が「現場」に関心を引き寄せるのかもしれません。しかし部落差別の本質に原因があるらしいのです。

 

 部落解放運動は、部落民としての解放を志向しながら、「どこ」と「だれ」を暴く差別に対して抗議運動を続けてきた。しかしそれは出自を隠蔽することにもつながる営為であった。部落民としての解放を目指しながら、部落民からの解放を歩まざるを得なかった。(p9)

「どこ」と「だれ」を暴こうとする差別に対し、抗する解放運動は暴こうとする差別意識を問題にします。暴くなと。

しかし、暴くなと差別者に向って言葉を投げかけるとき、その言葉は自分が「どこ」の「だれ」かを明らかにしない、隠蔽に傾斜せざるを得なかったというのが角岡氏の見立てです。

 

部落解放運動ばかりでなく、いろいろな差別や抑圧に対して人々は抵抗運動を組織してきました。

抵抗運動は自由を求め、自立をめざし、多くの人と連帯し、血と涙を流し、抵抗運動や解放運動は気高く、尊く、人間性にあふれていました。

同時に、なぜか運動には、その内側でいつも小さな抑圧が生まれました。あぶくのような抑圧は大きくなると権力的になり、差別する側に成り変わっていきました。そのようなことはたびたび起きました。

角岡氏の、差別問題と解放運動を同時に問題にしようとするこの提起は、私が関係している障害者問題ともつながるものを含んでいます。しかし角岡氏は安直な普遍化はせず、部落解放運動にこだわり、次のように続けます。

 

数あるマイノリティ、被差別者の中で、部落民だけが差別を媒介とした存在ではないだろうか。たとえば身体・知的・精神障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族などは、差別をされることはあるが、差別がなくても存在する。ひとり部落民だけが、身体や民族や文化的差異があるわけではなく、差別されてきた歴史によって存在するのである。

加えて反差別運動やその成果である同和対策事業が、部落民を残してもきた。近年ではインターネットの普及が、部落の存在を明確にしている。つまり部落民は、差別の歴史を土台にしながら、そのときどきの状況によって存続してきた。(p13)

多くの被差別者が「差別がなくても存在する」ということはどういうことなのでしょう。ここで挙げられた障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族などのマイノリティは、いろいろな差別に直面しています。しかし差別がまったくなくなったとしても、やはり彼らは、障害者、性的マイノリティ、アイヌ民族として生きていきます。

周囲の人との差別的な関係(差別する-差別される関係)があるか、ないかにかかわらず、彼らの固有の肉体、言葉や生活を成りたたせる文化、遺伝子にもとづくアイデンティティが継続するだろうからです。このことを指しています。

ところが、部落差別がなくなった未来社会を想像してみると、その世界では、どこの地域が被差別部落だという意識も、その地域に暮らしている誰それが部落民だという意識もなくなります。差別がなくなると、部落民も消滅してしまうと角岡は主張しているのです。ここが他のマイノリティ問題と部落問題の違いだと言っています。

もしそうなら、部落差別はとても純化した差別の形だといえます。肉体、言葉や生活などの「モノの差」ではなく、歴史・社会・活動・情報などの人間の営みに根ざした「(差別)意識」だけによって差別が生れるのですから。

それだけに、差別を考えるときのいちばん深いものが部落差別にはあるのでしょう。

2016年6月25日

事後性

Filed under: つぶやき — toshio @ 4:20 PM
花開く

花開く

■ジジェク

スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェク(1947年-)。彼の名前は、社会学者・大澤真幸の本を読んで知りました。なにやら気になる人だと思っていました。去年、『事件!』という本を買ったのですが、すごく博学な人だと思ったものの、30頁ほどでたちまち挫折しました。

ジジェクの30年以上前の初期の論文が日本で出版されることになった、という記事を目にしました。著作の全体が「事後性」というキー概念によって貫かれている、と紹介されていました。 事後性! なんと魅力的な言葉なんだろう! 私はそう思いました。

『もっとも崇高なヒステリー者 ラカンと読むヘーゲル』(みすず書房)という題名です。訳者は、名古屋大学医学部精神医学教室の有志が長く続けているジャック・ラカンの読書会の3人のメンバーです。ジャック・ラカン(1901- 1981)とはフランスの哲学者、精神分析家で、ジジェクはラカンの孫弟子にあたります。(…しかしこの本はぼくには歯が立たないだろうなあ)

目にした記事は、訳した3人の精神科医による鼎談です。(週刊読書人.2016.6.10号)

 

精神分析学でいうところの「事後性」とは、無意識に抑圧したできごとが、何年かあとのできごとが引き金になって、最初のできごとが症状となって表面化する、といったことをさします。最初のできごとは後になっていきるできごとによってしかわからない、ということです。

ジジェクのいう「事後性」は、患者個人の精神世界の枠を飛び出し、社会や人間の歴史すらこの「事後性」に貫かれていると主張しているらしいのです。個人の内的世界を描く「事後性」という言葉が、世界全体を見通す羅針盤の針になってしまったのです。イモムシからチョウになって、広い世界を羽ばたき始めたように思います。

訳者の一人である菅原誠一氏は、ジジェクの「事後性」について次のように述べていました。

――我々は普通、時間は一方向に進むという前提で話しますが、ジジェクの本に従うならば、事後的に振り返りながら繰り返すようなあり方のほうが、むしろ人間の本質であり、一方向に進んでいく発展的・進歩的な見方は倒錯的である。そう思えるぐらいの論の進め方になっています。

 この発言を受けた先輩格の鈴木國文氏はこのように応えます。

――(ヘーゲルの唱えた弁証法は、一般的に時間に沿って進んでいくと思われているが)弁証法とは前に進むものではなく、事後的なものだと読むことができる。これはラカンの理論を踏まえて初めて言えることだと思います。

  ヘーゲルの弁証法についてウィキペディアはこう記述しています。「ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つ」が、弁証法を構成する、と(弁証法(的)論理学の記述.2016.6.25)。

正・反・合と展開していく歴史観は、その後のマルクスによってさらに理論化されました。そして、一般的には過去から未来にと進化的に展開するという観念が強固になったのです。

個人のトラウマの解釈方法であった事後性という概念を、ジジェクは、哲学や思想の基礎部分に組み入れ、私たちの観念の前提をくつがえす地平に、彼は導こうとしているのです。

これは、どうもすごそうだ、一方向に進むのではなく、事後的に繰り返す時間…?? 私のなかで衝撃と疑問が渦巻きました。   思いをめぐらすうちに、「進化的な見方」と「事後性」の比較になるような小さなできごとを思い出しました。

 

■病気を忘れられるか

もう10何年か前、サンネットを始めたばかりの頃。少女の面影が残るような女性が訪ねてきました。

彼女は、当時、ようやくひどい状態から立ち直った時期で、以前と比べるとずいぶんよくなったのだそうです。主治医の先生も親も「元気になったのだから病気の時のことは忘れなさい。前に向かって進みなさい」と言うのだそうです。でも、と彼女はその言葉に考えてしまうといいます。それで自分の気持ちをわかってくれそうなところを探していたというのです。

彼女は「病気のことを忘れて、ないものにしてしまったら、私には青春がなかったことになってしまうでしょ」と話しました。青春はずっと病気と一緒にあったのだから、私の人生の大切な部分が空欄になってしまう、と悩んでいたのです。

話を聞いた私たちは、彼女の気持ちがよくわかりました。

過去は過ぎたもの、過去を踏み越えてこそ未来があると考える「進化的な見方」であれば、病気の時代にこだわることをやめて、前に進まねばなりません。

でも、「事後的に振り返りながら繰り返すようなあり方」が人間の本質であると考えるならば、彼女の悩みは当然です。彼女は病気の時代を振り返り、その時代と現在を含みこんで未来をめざすことが求められていることになります。

病気の時代を消してしまうか、そこを振り返るか。ジジェクによればそれは選択の問題ではなく、振り返えざるをえない人生の本質的なあり方の問題である、となるのでしょう。先生や親の言い方は、本質からはずれた「倒錯」と批判するかもしれません。

 

■過去も未来も私

べてるの家には有名なキャッチフレーズがたくさんあります。それまで一方的であった精神病の見方、治療観を一変させました。豊かな実践から練りだされたべてる流のフレーズは、病気を生き生きとしたもの、豊かなものに描きなおしました。

そのフレーズのなかでも、「勝手に治すな自分の病気」、「べてるに来れば病気が出る」、「べてる3年漬け」、「病気は宝」などは、「事後性」の問題と関係がありそうです。病気がよくなっていくとき、病気を忘れて前に進むのではなく、むしろ忘れていた過去の病気も出てくる。仲間と分かち合って越えていくもの、むしろ仲間とつながる「宝」なんだ、という考えです。ここでは、過去は捨て去るべきものではなく、今を理解するための「宝」ということになります。

このべてる流の考え方、べてる流の「世界」をふまえて、「進化的な見方」という問題に立ち戻ると、それはずいぶん狭い見方だったことに気づきます。

「過去」から遠く隔たったが、未来がまだ見えない「今」があって、目の前の選択肢を選択することが、自分のかかわれることがらである、と描くのが「進化的な見方」です。この世界で孤独に存在しなければならないかのようです。

弁証法的な論理が始まりだったかもしれませんが、現代は、「進化的な見方」がより単純化し、「選択だけが未来を決定する」という感覚が支配しています。PCやスマホの日常、流動化している労働や地域社会、クラウド情報とタックスヘブンマネー…。この流動的な世界の中で、個々人の選択は世界と強いきずなを結びつけるためのものではなく、嵐の中を進む船のように沈没を免れるために右に左にかろうじて舵を取るための選択のようです。

「事後性」という考え方のすごいところは、この「選択が未来を決定的に決める」という考え方に、「それだけがすべてではないよ、別のとらえ方もあるよ」と変更を迫るところなのではないでしょうか。それは、孤独な世界観からの脱却にもつながるのではないだろうかと思うのです。

「事後性」をしっかり使えるようになるには、時間がかかると思います。しかし、うっすらとおかしいなあと思い続けてきた「進化的な見方」を、問い直すことができる素材があるんだと知ったことは、私にとって喜びです。

2016年3月31日

青森 発見

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:11 PM
青森 発見

青森 発見

Older Posts »

Powered by WordPress