その頃、中学生のぼくの日課だった。
それは、授業が終ると、部室で体操着に着替えて、ランニングをすること。
足が速いわけでもないし、運動にこだわっているわけでもなかった。何かから逃げるように、学校の外に出た。
一人で正門を出て、小川によって走る。煮干し工場の脇を通る時は鼻をふさいで駆け抜ける。秋空が広がっていた。
やがてまばらな農家と畑のところに出る。さらに、小高い丘のふもとと、茶畑にはさまれたうねうねとした道を走る。このへんがいちばん気持ちの落ち着くところだ。
道を曲がったとき、やや見下ろしたところにぽつんと立っている一本の柿の木が見えた。
葉は落ちて、実がまばらについた小さな柿の木。どこにもある柿の木。
でも、なぜ、いままで気づかなかったのだろう。いつもここを走っているのに。
ぼくは立ち止まった。畑に降りて、ひとつの実に手を伸ばす。
そしたら
「ねえ、君、その柿を食べるつもり?」
突然、声が聞こえた。
もいだ柿は手のひらにあった。誰もいないと思ったのに。
とがめられたと思った。
あっ、ごめん、これ、君のだったの。振り返ると、ぼくと同じくらいの子どもがいた。
「ううん。ぼくのだとも言えないんだけど。その木のこころがわかるから、もがれてしまうと寂しんだ」
こころがわかる?
「うん。あそこに防空壕の穴が見えるだろう。二つ並んでいるから、目のようだけど、ぼくのお父さんたちが掘ったらしいんだ。この木は、それをずっと見ていた。面白かったんだと思う。だけど、ある日、海の方から戦闘機が飛んできて、機銃掃射をしたので、ある男の人が死んだ。それからこの木は、ずっとその死んだ人を待っているんだよ。」
丘は20メートルくらいの高さの白い崖になっているところがある。
ところどころに崖をくりぬいた、大人が立って入れる大きさの穴が開いている。それは防空壕だったんだ。
その子が指をさした穴は、ぼくが走ってきた道を脇に50メートルくらい入ったところにある。
木が君に話すの?
「聞こえるんだ。あの男の人の働く姿、笑い声、友だちと語る様子。思い出しているんだ」
ふーん。まるで、恋をしているみたいだね。
「そうだね」
といってその子はクックックと笑った。
かわいい人だと思った。
死んだ男の人は戻ってくるのだろうか? それにもしかしたらその男の人って、と聞こうとしたら、急に、風が吹いた。
砂が巻き上がる。身体をよじって風をさける。
風がやんで、振り返ると、もう、木も少年も手のひらの柿もなかった。防空壕の穴がぼくを見ていた。
あああ
びっくりして、もう一度目をつむったら、ぼくはもう少し大人になっていた。海岸にいた。
ランニングを続けようかと思ったけど、海の向こうに大きな山が見えて、秋の夕日を浴びている。それに気を取られた。きれいだ。山のすそ野はブルー、上に行くほどに赤くなる。てっぺんのほうにはもう雪の白が見える。空は紫。そして…。
はて、さっきの子は誰だったのだろう。
それにしても、ぼくもいつか、誰かを待つことになるのだろうか。思いが頭をよぎった。
あたりを見まわす。波の音が耳に入る。
もう少し、夕暮れのなか、山の方に向かって走ろう、ぼくはそう思った。