なんとなくサンネット日記

2018年12月26日

大野萌子さんを思い出して

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鶴見公会堂

■鶴見公会堂で大野萌子さんと

写真は、80年代初め、「鶴見ふれあいの会」の新年会でのスナップです。右端が私。横浜市鶴見区で活動していた精神障害者の地域交流の会です。(本ブログ2010年11月5日)

私たちの会は、忘年会は「養老の滝」で、新年会は鶴見公会堂の会議室でというのがお決まりでした。公的な会議室で灰皿を並べ、やや寒いのかみな厚着をしながらの乾杯。今ではあり得ない風景かもしれません。

この頃、神奈川赤堀さんと闘う会という会もあって、彼らも小さなグループであり、メンバーは私たちと重なり合っていました。ある時、神奈川闘う会が、全国「精神病」者集団のリーダーで、名古屋に住む大野萌子さんを招いて、この鶴見公会堂の会議室で講演会をすることになりました。集まった人数は20人をやや超えたぐらい。ぼくたちも参加しました。

たぶん、無実の死刑囚赤堀政夫さんを支援しようという内容ではなかったかと思います。

講演会の最後に、参加者は会場の壁伝いに丸くなって肩を組み、革命歌「インターナショナル」を歌いました。それが定番だったのです。その場だったか別の時だったか、大野さんはクリスチャンの当事者がこの歌を聞いて、ずっと讃美歌だと思っていたという話をしました。活動家も当事者も、学歴がない人も、貧しい人も、みんなでいっしょに歌ったものでした。

 

♪ 起て飢えたる者よ、いまぞ日は近し、醒めよわが同胞、暁は来ぬ~

 

若い人は知らない歌ですよね。この頃はアカペラで歌ったのです。

お金はないけど、時代は若く、夢がありました。福祉サービスなどは(生活保護はあるが)影も形もなく、集うこと自体しんどい面がたくさんありましたが、地域の仲間と政治活動はこんなふうにつながっていたのです。ささやかな夢や希望、信頼や憧れ、それらが人と人を結びつけていました。

 

■沈黙の怖さ

さて、今年もいろいろなことがありましたが、私は、全国「精神病」者集団のことが気になっているので、この写真から話し始めました。本ブログ2018年6月3日で書きましたが、全国「精神病」者集団の分裂問題、これは私の身の回りのことではないのですが、とても気になっているのです。

分裂が確定的になって半年、いまはこの問題についての「沈黙」が気になっています。

全国「精神病」者集団からの二つのグループ、私が「絆派」と呼ぶ側からも、「運営委員会派」と呼ぶ側からも何も聞こえてきません。両者を仲介しようとして失敗した人たちからも。業界関係者たちからも、やはり聞こえません。

私の耳が聞き取っていないのかもしれませんが、この沈黙、スルーされる関心、反応の低さは、市民活動、政治運動の質的低下のあらわれだと思います。

 

■主張

「運営委員会派」の主張はなかなか理解しがたいことです。

分かりにくい主張は二つです。

2018年3月30日に、「絆派」と「運営委員会派」の代表は、両者とも5月1日以降「全国「精神病」者集団の名称を自己の集団を称する名称として用いない」と確かに合意した。しかし、その合意は、全国「精神病」者集団の解散や分裂に合意したわけではない――この主張が一点。

もう一つは、2018年3月30日に「選任された3 名の運営委」が合意にサインしたが、その後4月30日の「運営委員派」の臨時総会で名称変更案が、否決された。そこで再度「絆派」との話し合いを提案したい。しかし、3月30日から4月30日までの間、「絆派」が、解散・分裂したかのような虚偽の風説を流布したことについて謝罪をしてほしい。その謝罪が、再度の話し合いが行われる前提である。この主張が、二つ目です。

(https://jngmdp.net/wp-content/uploads/2018/07/20180619.pdf など)

 

■対立する主張をどうするか

ひとつの団体のなかに対立する二つのグループがあって、その対立を解決するために代表が顔を合わせました。誰が、2018年3月30日の案を描いたかはわかりませんが、この案は二つのグループの対立を解消し、相互の運動の発展を願ったものです。「団体名の解消」をふまえて、会員名簿と財産の分配を行うことになっています。これは団体の解散・分裂を前提としている提案であることは明らかです。

事態に向き合ってきた代表者が、この案を前にして、サインをした。なのに、「解散や分裂に合意したわけではない」と強弁するなら、代表としての資質が問われることになります。

このような場合、交渉に臨む代表者は、自分たちの目の前の利益だけではなく、将来に対しての、自分たちを含んだ全体の利益を考える姿勢が求められます。この資質をもった代表者であろうと相互に認め合い、仲介をする第三者もそのように考えることによって、話し合いのテーブルが設定され、提案が行われるのです。そのような資質に欠けた人物が交渉の席に着いたら、まずは交渉の場を中断すべきです。

ともかくも、サインをした代表者が自分たちの会にもち返った。しかし、会員を説得すべき臨時総会で説得できなかった、代表者の提案が否決されたという事態が生じたというのです。それは、代表者の提案と方針が否決されたというわけですから、代表者は辞任するか、別の代表者を選任すべきです。外部の関係者との合意を実現する社会義務が代表者にあり、そのような場面で、会員を説得する能力(社会的義務をはたす責任)が会員から認められているからこそ代表者であるわけです。外部と内部との架け橋が破たんしたら、代表者は変わらなければなりません。

しかし、同じ代表者が居続けるというのはおかしな話です。「運営委員会派」の人々が、このような主張や経過を受け入れているということが、なかなか部外者の私には理解できないことです。

ことの成り行きの全体を眺めると、後出しじゃんけんをした方が、先に出した方にたいして「フライングだ!」と非難しているかのように見えます。

 

■運動スタイルの変化

分裂する前、全国「精神病」者集団には、「「精神病」者総体の利益追求」というスローガンがありました。その目的を達成するために「助け合い、連帯」するという原則がありました。言葉の順番はこのようになっていました。

「運営委員会派」になると、「病者総体の権利を追求することを行動原理」(2017年11月24日大阪宣言)として「幅広い会員層に支えられながら精神障害者の利益代表活動を」するというスタイルになります。ここには大きな変化が起きていると思います。

“「精神病」者総体の利益追求”というスローガンの正確な意味を、私は詳しく知りません。私は、かつて言われたような「組合運動ではなく労働運動を」といったことに似た言葉だろうと思っていました。個別グループの利益実現に執着するのではなく、「精神病」者全体の解放をめざすため、利他的、献身的に運動するという意味と理解していたのです。

「総体の利益」の実現のためには社会制度の大幅な変革が必要です。しかし、「総体の権利」の実現は、個々人の権利要求を積み上げていくわけですから、現制度の枠内での活動が主たるものでしょう。組合運動と労働運動かという比較で言えば、「運営委員会派」はギルド(組合)的活動であって、運営委員会は利益代表活動を行う執行組織であると言っているようです。

 

■互いに生活を知らない

私がかつて経験した全国「精神病」者集団は、それはずっと前の70年代から80年代初めまでのことですが、彼らは急進的な政治課題を掲げつつも、仲間との生活の相互的支援を指向し、重い当事者といっしょに活動するという側面もありました。

それが、いつしか、生活レベルでの共有のない、情報ネットワーク型組織になったと思います。さらに、いま組合運動的活動に変貌しようとしているのでしょうか。しかし、生産活動も生活も共有することのないギルドは、どのように活動が共有されるのでしょうか。

そのような活動基盤が不確かな組合運動的活動は、おうおうにして頭でっかちになりやすいでしょう。しかし、活動の結果がある枠内の構成員のなかでとどまるなら、利益も不利益もその構成員のなかで引き受けるので、やがては執行部にフィードバックするでしょうから、それはそれでありえます。

分裂以前の全国「精神病」者集団のような情報ネットワーク型組織は、生産・生活を共有したうえで活動を練り上げる組合運動的活動とは異質なものです。ゆるやかで自由度が高い、しかし求心力に欠け、構成員と非構成員の境はあいまいです。しかし、そこがいいところでした。

そのゆるやかな空間のなかに、硬い組合執行部的な組織が核になれば、構成員からのフィードバックのない「自由」な執行部活動が可能です。これは組織として大変危険なかたちではないでしょうか。

分裂する以前、「絆派」の山本眞理氏は、2016年10月全国「精神病」者集団ニュースにて、彼女が「運営委員会派」の何人かの活動を理解できなくなったと言い、自分たちの組織のありようを考えるために泊りがけの会員交流会をしようと呼びかけました。そこで次のように述べています。

 

(全国「精神病」者集団が大きな曲がり角にさしかかっている。それは、会員それぞれがどんな体験をしてきて、どんな暮らしをしているか、わからなくなっているからではないかといいながら)かつては(大野萌子さんのいる)名古屋事務所に2ヶ月に1回泊まり込み雑談も含めて交流することで、仲間との信頼関係を築いていたのですが、それが全くできなくなっていることが一番の問題と私は考えております。(2016年10月)

 

■名指しする

精神病という制度と体験をめぐっての議論をするとき、互いの体験や暮らしがわからなければ、思いやりや励ましあいも生れにくいものでしょう。山本眞理氏がここでの思いは、叫びのようなものではなかったかと想像しました。いったいいつから、どのように共有関係がなくなっていったのだろうと考えました。どの組織でも陥る可能性があることだからです。

そんなことを考えていたら、立命館大学生存学研究センターのウェッブアーカイブにある、大野萌子さんのインタビューが目がつきました。2011年10月に立岩真也氏と全国「病」者集団の運営委員派になる二人が聞き手でした。そこで、立岩氏が組織の分裂という微妙な問題について質問をしている箇所があります。

 

立岩:例えば病者集団の中にいたっていうのかななんていったらいいのかな言った部分が抜けていくっていうか分かれていく。

……:ちょっといい、補足すると多分立岩さんが言っているのは反全精連主張して決別主張していた人達。

大野:あ、京都の人達ね。

……:94年頃から6年にかけて。はっきり言ってそう意味で真理さんも抜けた1人だと僕、思っているんだけども。

大野:何処から?

……:病者集団から。事務局を辞める。事務局員を辞めるという。

大野:違う。あの人精神的に案内していたんですよ上に。辞めるんじゃなくて窓口側になるって言ったのは真理ちゃんに集中的に集まった非難が集まったの。

http://www.arsvi.com/ts/20111001.htm 2018.12.26引用)

 

ここで、運営委員派になる誰か(「……」と表現されている人)が、大野氏が言っている京都の人だけでなく、もっと内部の人、山本眞理氏こそ94年から96年にかけて「病」者集団を「抜けた1人だ」、と言っているのです。

インタビューの20年以上前、結成されたばかりの全国組織である全国精神障害者団体連合会に参加するかしないかの議論があって、反対を主張して「病」者集団と決別したいくつかのグループがあるのですが、事務局をしていた山本眞理氏もその一人だと言っているのです。これはすごい言い方ではないでしょうか。

引用の最後の大野さんの言葉はわかりにくいのですが(テープ起しの誤り?)、彼女が言いたいことは、考えの違うグループから山本眞理氏に非難が集中したため、山本さんは「病」者集団の意思決定にかかわる事務局から、外部との窓口になるという位置づけに移行したんだよ、と言っているようです。でも、「……」氏は返答しません。まるで、この言葉を残しておきたいようです。

(このインタビューは3年後『現代思想 精神医療のリアル』2014年5月に掲載されました。しかし、山本眞理氏云々の箇所は削除されています。P203)

 

どのような人間関係においても「なぜ」「どうして」ということはわからないものですが、「病」者集団が2018年に分裂する以前、2016年には山本眞理氏は悲痛な叫びをあげ、そのずっと以前である2011年に“山本眞理氏は10数年前に抜けた人物だ”と公言してはばからない関係がどこかにあった、ということはわかりました。「病」者集団のカリスマだった大野さんに面と向かって“山本眞理氏は抜けた”と、また障害学の立岩真也氏の横で、言い放つことができるというポーズを示すだけで2011年の段階では十分だったのでしょう…。

このような関係は、はたして泊り込み雑談をすれば解消するものでしょうか。私には疑問です。

「運営委員会派」の人たちは、対立する関係を克服するという課題よりもっとむずかしい課題、自己切開するという課題を抱えたということのように私には思えます。このアーカイブは、どのように組織の分裂が起きたかについてではなく、どのように起きるのかについての資料になったのかもしれません。

2017年7月24日

虚構の「苦情」

Filed under: 未分類 — toshio @ 11:48 AM

 

パステルアートが始まりました

パステルアートが始まりました

「苦情がいいサービスをつくる、本当にそう思っていたんだ」

 

60歳近い、たたき上げといった雰囲気の彼は、人懐っこそうな表情を見せて語った。もし、彼が魚屋か寿司屋の店主であったら、威勢のいい、客に好かれる店ができただろうと私は頭の中で考えた。庶民派という雰囲気を肌で感じる。

彼は障害者施設の職員。その施設は、利用者にとってより良い施設でありたいと、この地域で先駆けた活動してきた。開かれた施設づくり、職員の相互研修、関係機関を巻き込んだ苦情処理、地域の横のつながり…こういったことについて、彼は頭と口を動かすよりも、先頭に立って手と足を動かしてきたのだろうと思う。

「なんていうか、クレーマーなんだな。長い時間、話して、ようやく納得してもらえたと思ったら、その日に、県に訴えている。次から次へと苦情の種が変わるし、わけがわからない…」

彼の語りは愚痴っぽさがない。まるで他人事のように語る。居住系の施設に入所している利用者の母親が執拗に苦情を繰り返しているらしい。

 

「苦情は、どんどん話してください。県でも、なんでも話して、みんなで話していけばいい。そう思っていたから、それはいいんだけど…。利用者の母親なんだけど、前に担当していた職員が辞めたのは、そのせいだったんだ。自分が担当してわかったけど。いい職員だったんだ。俺も休みたくなったよ。充電が必要だけど、施設長が休ませてくれないしなあ…」

 

現在進行形の話らしく、具体的なことは何も言わない。しかし彼の思いは私の胸にずんずん響く。

苦情に対して百戦錬磨の経験が、役に立たなくなっている。誰でも言いたいことは言っていい。行政だろうが、同業者だろうが、巻き込んでみんなで考えていく。なるべく公開していけばいい。そういう中で、苦情は前向きなものに変わり、福祉サービスのこれから在り方にむかい、利用者も家族も職員もふたたびある種の調和に再帰する…そういうセオリー、やり方だったが、それが通用しない。

いったい何が起こっているのか。彼はとんでもない落とし穴にはまってしまったらしい。

母親の言っていることはわかる。少なくとも表面上は。言葉上は誰が聞いても無理難題である。無理難題の奥に調和を求める気持ちがあると彼は思っていたが、実は、ない。母親は自分の言い分に確信を持っていて、自分の心に穴があいているとはつゆとも思わない。30分も40分もの彼女のわめきを聞いていると、彼の心のほうに穴があいてくる。

母親と自分の関係に穴があいているから、どちらかが引き受けなければならない。するとこちらの心が折れていく…。

 

「母親の言い分を聞いていたら、『そっちに座っていれば聞こえないでしょ。こっちに来なさい』と自分の横に座らせようとする。そして30分も一人でしゃべりっぱなし…」

手招きをして、彼を呼び寄せたのだという。

度重なる苦情だから、当然、面談室か応接室で話したに違いない。職員側は一人か二人。ふつうは向かい合い、対面の位置に座る。それがセオリーというものだが、彼女はそれを崩した。

崩れたのは手招きにそってしまった彼のプライドか。あるいは、母親と彼とで作ってきた「セオリー=虚構」であったのか。彼は、このエピソードを繰り返し話した。

 

さて、福祉サービスのかなりの部分は、虚構の人間関係をつくることで成り立っている。たとえば入所施設、グループホーム、ショートスティ(ホームヘルプサービスのある部分も)、それらは社員寮や独身寮など、日常的な暮らしや家庭の代替である。

生活訓練、就労支援は、学校や会社の代替である。代替物は本物ではないが、会社や家庭などをモデルにしている。福祉サービスはスタッフという人間を通じて行われるため、支援関係の「場」や「空間」を、意識的無意識的に既存のモデルをあてはめ、似させていくのである。

 

下の表は、居住系サービスを念頭に置いているが、(A)領域が既存のサービスである。そのサービスは家庭に代わるモノと言いつつ、そこにある人間観、関係をつくるシステムが空間を閉鎖的、抑圧的にしてきた。

利用している当事者もそこで働く職員も、代替という虚構性を重々承知し、それを改善しよう、脱却しようとしてきたのが、1970年代以降の営みであったと思う。自立運動に代表される脱施設化の運動は、横軸に位置づける。それは(C)への移行を推し進めた。利用者の自治会づくり、当事者中心の施設運営、開かれた施設づくりなどは縦軸に置こう。それは(B)への移行を推し進めた。両方の軸と発展的になる領域(D)には一部の自立運動、薬物からの回復者の営み、一部の精神障害者の地域活動、共生共学の運動などが含まれ、代替という枠を超えたあらたな人間関係のありようを生み出してきた。

 

y軸 ↑ 人間的生命観

ビオス的生命観(居心地、平等、共同)

(B)人間味ある暮らし

(制度内改革、インフォーマルな関係を内包)

(D)生き生きした自立運動

(相互的、地域への広がり)

ゾーエ的生命観(不平等、操作的関係)

(A)閉鎖的・抑圧的空間

(既存の制度)

(C)権力闘争的自立運動

(支援関係の固定化)

 

現在のモデルの追認

モデルからの脱却

(地域、インフォーマル)

 

開かれた制度 → X軸

 

 

いまどき「施設は家庭の代わり、職員を親と思ってください」とあからさまに言明する事業所はないが、「利用者様の人権を尊重し」「ご家族のニーズに沿ったサービスを」提供しているという言い方で、家庭の代替をしていると匂わせる。

そこに反発し、「それは嘘だ!」「もっと違う何かを」と、先駆的な活動や地道な活動が展開されたわけだが、いずれにしても福祉サービスがもつ虚構性をふまえている。

 

そのうえで、先ほどのクレーマーに戻りたいのだが、彼女は、人間関係の虚構性を、虚構性の側へとさらに反転させたといえよう。(彼の施設は(A)ではなく、(B)の領域だと思うが、書きの表は単純化して描いている)

 

↑ 人間的生命観

(A)閉鎖的・抑圧的空間

(既存の制度)

← より閉じる

開かれた制度 →

(X)

職員も非人間化される「疑似的家族」

より非人間的 ↓

 

彼女は、ベテラン職員を子ども扱いする。手招きして、自分の傍らに座らせ、言い聞かそうとした。それは息子(利用者)の面倒を十分みようとしない兄(職員)に説教する母のようではないか。母は施設の外にいて、施設の中は「面倒を見る兄や姉」という職員と息子の空間である。(A)では、母は「わたしの家庭でできない息子の面倒を、代わりにお願い」していたが、(X)になると、母は、疑似兄にしっかり教え込む「母」の役割のまま、むしろビッグマザー化している。

 

(X)には「苦情がいいサービスをつくる」という可能性はない。サービス改善に向う可能性は、職員と利用者と家族が、共同して正反対に向かおうとするときに生れるのであって、そうではない「苦情」に向きあい続けるのはベテラン職員の彼であっても根をあげるのはやむを得ない。

息子の環境をもっと良くしたいのに、よくならないので困っているというのが「苦情」の意味だ。もっと自分の思う通りにしたいと思っている母親が、語り続けるのは「苦情」ではなく「生きがい」なのかもしれない。

 

職員の彼の心が折れそうになるのは、「苦情」に向き合っているわけではないのに、「苦情」に対処しなければならないと信じているからだ。周囲の人々もそう考えていて、「苦情解決担当者」を降りるわけにはいかないからだ。

このように、いくつもの場面で、断片化した人間関係の虚構が生じるのは、福祉の基盤にもともと「虚構」があるからだが、もう一つ、理由があって、現代社会を生きる人間にとって「虚構でない、リアルな関係」をしっかりつかまえられなくなったということによる。これは意外と大きな問題だと思う。

2011年3月21日

想像して手を携える

Filed under: 未分類 — toshio @ 3:41 PM
彼岸の空

大震災から11日

東奥日報にのったエッセイや記事です。

■ 12日、青森市本町4丁目の吉田幸子さん(77)は、ラジオで地震情報を聴きながら1時間おきに仮眠したほか、朝はガスで炊いたご飯でおにぎりを作り、様子を見に来た息子に分け与えるほどの余裕ぶり。吉田さんは「戦時を経験したので、いざというときの備えができていた」と話した。(3月13日付東奥日報)

■ 古川日出男(66年、郡山市出身、作家)

(テレビから流れる映像に)知っている地名があまりに多いことに動揺したし、それは単純に福島県内に限らなかった。たとえば宮古も久慈も八戸も…視覚的な記憶すら持っている町並みもあった。いいや、なかった。そうした町並みがなかった。そんなふうに「あった」ことがのみ込まれてしまうなど、誰が想像しえただろう?いま現在も事態は推移し続けていて、僕はこう思う。それでも、違う形で想像するしかない。想像力を善きことに使うしかない…われわれはつながっていると信じて、想像して、手を携えること。それは目に見えない手かもしれない。しかし握り合えるのだ。(17日付東奥日報)

■ 辺見庸(44年、石巻市出身、作家)

(大震災後の人間社会は)人として生きるための論理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている…非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか。すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追及できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。(18日東奥日報)

■ 天野秀昭(58年、東京生まれ、NPO日本冒険遊び場づくり協会副代表)

(阪神淡路大震災の支援の経験から、遊び場での)遊びは、子どもが自身に降りかかった出来事を、何とか受け入れ、乗り越えようとしている表れなのである。遊びは、決して単なる暇つぶしではない。被災した子どもは、自分で何とかそれを乗り越えなくてはならない、走り回り発散する。友達と話し込む。時には痛手を負った出来事を遊びに変えて受け入れようとする…仙台市の「海岸公園冒険広場」「西公園プレーパーク」。どちらも僕と同じ願いを持つ仲間の活動の場だ。そこが、壊滅的な被害を受けた。けれど、3月13日、ようやく元気な声を聞くことができた。「子どもの復興」の始まりだ。…「子どもが元気でいれば、みんな元気でいられる」(19日付東奥日報)

■ (高速旅客フェリーナッチャンワールドで北海道からの支援物資が青森港に届いた。)岩手県の被災地に生活物資を運ぶという洞爺湖町のトラック運転手木谷和久さん(47)は「自分も有珠山の噴火で避難所生活の経験がある。なるべく早く届けてあげたい」と話した。(3月21日東奥日報)

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