なんとなくサンネット日記(個人ブログ) としおのつぶやき

2020年3月16日

津久井やまゆり園事件の判決を前に

Filed under: 未分類 — toshio @ 12:36 PM

■事件の本質はどこに

今日、津久井やまゆり園事件の横浜地裁の判決が言い渡される。もう事件から3年半が過ぎた。しかし未曾有のこの事件の本質がよくわからないまま、風化がすすんでいる。

あるくお坊さん


多数の犠牲者を出したかつての事件と比べて、犯人である植松被告の人間性がうまく伝えられていない。勇気をもって発言している被害者家族もいるが、多くの被害者は匿名のままである。職場の同僚だった人々の思いや現状もよくわからない。

植松被告は控訴しないと明言しており、このまま収束しそうである。





「今回の裁判、障害者の問題を真剣に考えてきた人ほど、本質的なことは何一つ明らかになっていない、責任能力があるか否かだけを論じた空疎な裁判だった、という批判的意見が多い。障害者への差別の問題も、障害者施設や支援のあり方も、法廷では確かにきちんとした形で俎上にも載らなかった。 こんなことで相模原事件を終わらせてしまってよいのだろうか、という思いは強い…(おそらく死刑判決となるが)死刑確定し、接見禁止もついてしまうと、事件解明には大きな限界が出てくることは明らかだろう」

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200303-00165868/

月刊『創』編集長・篠田博之氏の記事である。氏は別のところでこうも述べる。

「相模原事件はいまだにわからないことがたくさんある。この事件に社会がどう向き合い、対策を講じるのか。それがなされないまま風化だけが加速していくのではいけないと思う」(『創』.2020年4月号.P51)。

植松「被告」が「死刑囚」になったとき、津久井やまゆり園事件の本質的問題は深い闇に消えていく。社会の闇の部分に植松が吸い込まれたとき、彼と向き合うのは、執行の役目も負う刑務官である。もし私がその刑務官の立場だったら、と考えることがある。「いまだにわからない」植松という人物像とどう向き合うのだろうと。伝えられる接見や公判の彼のようすから想像すれば、拘置所で彼はていねいで、問題少なく(自殺企図以外)過ごすかもしれない。しかし「わからない」まま、ある時、「私」は執行に従事する可能性がある。こういったことに精神的に耐えられるだろうか、と思う。

■人との関係を分ける「壁」は

社会心理学者の小坂井敏晶は、ホローコストとは、そこにかかわる人間たちの人間的感情、殺人への嫌悪や動揺が起きないように仕組みをつくることによって実現する、といった文脈で次のように述べている。


心理負担だけからいえば、原爆で何十万もの人々を殺す方が、人間一人を包丁やバットで殺傷するより容易だ。多くの人命を奪った行為を後悔するかもしれない。しかし行為の瞬間においては、泣き叫び哀願する老婆や子供の命を血まみれになって奪う状況に比べて、レーダーや計器の数値を見ながら爆弾投下のボタンを押すだけの方がはるかに楽だ…犠牲者との心理的距離が保たれ、具体的な人間性に触れないと、殺傷に対する強い抵抗が起こらない。だが、殺す相手が自分と同じ人間だと認識するやいなや、殺人の意味が変容する。(『増補 責任という虚構』2020年.ちくま学芸文庫.P87)

人は人を殺すときに、相手方を同じ人間だと思わないように、犠牲者との心理的距離が保たれる機械的・制度的・思想的・心理的仕組みを講じると述べているのだ。死刑執行をする刑務官の場合、国家の総力を挙げてつくられた心理的「壁」の真っただ中にいる。
多くの責任者の決済と業務命令によって連結された死刑制度は、法制度の安定という美名のもとで、個々人の裁量はないかのように進行する。執行日当日の役割も細かく分担され、絞首台の床を跳ね下すボタンも複数あり、複数の刑務官が同時に押すことで誰のボタンが作動したかわからないようにカモフラージュされる。あらゆる「壁」がつくられている。

たった一人で多数の人を殺した、あるいは殺そうと傷つけた植松は、人を殺すための「壁」を自前で作ったのだろう。真夜中の施設に侵入して寝ている障害者を一人一人確認しては、ナイフでその胸を刺す。そのためには、何らかの心理的な壁が必要だ。そうでなければ、声をかけ、相手の目を見て、行為を連続することなどできるものではない。「壁」の表れの一つが「心失者」という彼の造語だろう。「人間ではない」とする考えが「壁」であった。

植松は重度障害者は人間でないと考えたから殺人を犯したのではなく、殺人を犯すために「人間ではない」という考えをつくった可能性もある。殺人を実行したいという考えが、「心失者」という考えの前にあったかもしれない。

人は苦しいとき、悩んでいるとき多かれ少なかれ「壁」をつくる。あるいは普段から深刻な「壁」をつくる人もいる。殺人という極端な場合であれば、もっと複雑で強固な「壁」を意図的につくるのだろう。

どのような「壁」であっても、他者がそれなりに理解できればそれなりの関係は作れるものだが、植松被告の場合どのような「壁」で、それがどのように生まれてきたものか分からない。これだけの人たちが、これだけの時間をかけても分からない。おそらく彼は「壁」の向こう側にいるのだ。

死刑執行に携わる刑務官は、愚かな事件を犯した加害者やたぐいまれな粗野な人物と向き合うだろうが、事件や加害者のそれなりの物語(≒「壁」の由来)を刑務官がつくることによって拘置所の日常を乗り切っていく。執行には「壁」が必要だが、そこに至る長い日常においては、「壁」をつくらざるを得なかったという死刑囚への人間理解がなければ日常を乗り切れるものではない。

植松死刑囚と向き合う刑務官は、やまゆり園事件を遂行させた彼の「壁」を理解することはできない。「壁」を越えた人情味あるふれあいなど生まれるべくもない。しかしある日、刑務官に業務命令が下りれば、国家的「壁」のもとで執行しなければならない。そのような日が来ることをいつも感じながら、拘置所の日常が存在する。執行の可能性を意識し続け、自分と相手の両方の「壁」に目をつぶり続け、同時に人間としての自分を確保する。それは困難なことだと思う。

■死刑制度

植松が死刑確定囚となって東京拘置所に移送され、そこで向き合う刑務官は、奇妙なことに、「壁」という軸の鏡対称のなかで彼と関係することになる。刑務官は死刑囚にそれなりの物語をもつ。育ちに問題があった人間だとか、誤った思想にもとづいた事件だったとか、精神構造が崩れていたからだとか。しかし植松にはそれがない。彼の「壁」はまだしっかりと存在している。

植松は過去の殺人において手作りの「壁」を心の中につくった。刑務官は未来のいつか、死刑執行を行うとき、国家的な「壁」に身をゆだねる。植松と刑務官は、「壁」を内在させつつ、日常を共有する。食べて、寝て、身の回りのもろもろのことが同じように続く。

死刑執行の時、刑務官の「壁」は、植松死刑囚に見わたせないほど大きな存在となって彼の前に現れる。刑務官は植松死刑囚の心の「壁」が理解できないまま執行に入る。互いに非人間的な構えをかかえたまま執行が終わる。

殺す側の刑務官は相手を理解する物語をもてないまま殺し、殺される側の植松も相手の人間的な意図が見えない。それでは津久井やまゆり園で植松によってなされた殺人と同様の、焼き直しのような殺人(死刑)ではないか。執行が、事件とすっかり裏表の関係となって表れる。

死刑制度と植松の起こした事件が従妹どうしのようであるかのように似てくるなら、結果論ではあるが、死刑制度のある日本社会だからこそ、植松が大量殺人を思い至ったのではないかと思えてくる。実は植松は初めから死刑を覚悟して、架空の物語を描いてきたのではないかとさえ思う。われわれは彼の架空の物語に付き合わされているという可能性はないのだろうか。百歩譲ったとしても、死刑制度がこのような犯罪の抑止にならないのは確かである。

■雨宮処凛の感想

事件をめぐってのいろいろな人の発言の中で、私にとって興味深かったものの一つに、雨宮処凛の記事がある。今年の1月30日、彼女が初めて植松被告と接見したときの感想である。

だけどそれは、法廷では自分を正当化する発言ばかり繰り返していて、面会では事件以外の話題にも触れるからだろう。話していると、狂気と普通さが順繰りに現れた。あまりにも、ナチュラルに。そのたびに、ひたすら混乱した。

同時に、「あなたは間違っている」などと言われると、植松被告がスッと感情に蓋をするのがわかった。先回りして、批判されそうな発言をする際に前もってやっているとわかる時もあった。

姿勢を正し、妙に丁寧な物言いになるとき、「あ、今、心を完全に閉ざしてるな」とわかるのだ。そんな時、目の前にいる植松被告がサーッと遠ざかるような、半透明のカーテンが下りるような感覚になった。

それほどわかりやすく心を閉ざす人を、私は初めて見た。そしてそれは何か、年季の入ったやり方にも見えた。もしかしたら、事件後とかじゃなくて、子どもの頃から植松被告は何かあるとこんなふうにスッと感情に蓋をしていたのではないか。わからないけど、ふと思った。

https://www.buzzfeed.com/jp/karinamamiya/amamiya-vs-uematsu

雨宮が感じたように、植松は厚いガラス窓の内側にそっと心を潜ませていて、その内側からガラス越しに現実感の乏しくなった世界を眺めていたのかもしれない。他人はガラスの表面を彼自身と思いこみ、ガラスにむかって反応する。植松にとっては、ガラスの内側と表面の落差がミラーガラスのように働き、他人を眺める感覚が生まれて面白かったかもしれない。他人が本物の自分でない表面に対してどのように反応するか、いつも気にしていたことだろう。

障害者は彼のようなガラスの蓋などもたないが、そういう障害者が植松は憎かった。あるいは、むしろうらやましかったのかもしれない。意思疎通ができなかったのは、真の意味では彼の方だったかもしれないからだ。

彼は、たびたび障害者の親は疲れ切った顔をしているという。そそくさと施設を帰ろうとする親たちのことにふれる。不思議な表現だ。彼が言いたいのは障害者か、家族か。そこが判然としない。私は、疲れ切った顔を向けられている側(この場合障害者)のことを言っているのではないかと思う。

植松被告の親が彼と別居したころから、彼は親から疲れた顔で見られる空々しい関係にあったかもしれない(?)と思う。別居は彼がやまゆり園に就職する時期と重なる。自分の状況を施設の状況と重ねるようになったのではないか。ほとほと疲れ切り、交際を避けるようなしぐさとは「親」への反発なのだが、即座に否定し、お荷物の障害者というような方向に90度転換させた。

障害者の彼らは、不満であれば直接行動化する。その彼らを支援するのが「私=植松」の仕事だが、植松は彼らほど行動で表現できない。この仕事と自分の状況全体との関係を、彼はうまくつかむことができなかったのではないか。

ことの出発は、植松被告の感情に蓋をするという「くせ」にあったのかもしれない。その「くせ」に覆いかぶさってきたのが、職員と利用者は契約関係と制度が求める関係だった。彼のものの見方はゆっくり破綻し、おかしな方向への構築に拍車がかかった。そんなふうに思う…。

どのような判決が下されようと、それに植松被告がどのような対応をしようとも、私たちは事件を風化させてはならない。なんとしてでも、私たちの身の回りに、再びこのような事件がおきないように営みを積み重ねていかねばならない。殺され、殺されそうになった犠牲者、その家族、殺人現場で傷つけられた職員、現場に駆けつけて動揺した救急隊員、助けようとした医療従事者、植松と暮らした地域の人々、亡くなった人を知っている知人、友人たち…それらの人たちとの見えない糸を紡いでいかねばならない。そのように思う。


2020年2月21日

赤々と

Filed under: お知らせ,つぶやき — toshio @ 12:43 PM

一人になって考える

1977年春、狭山差別裁判が最高裁に上告されていて、棄却を阻止しなければならないという支援者の全国集会が、東京でありました。前の年あたりから、友人から部落差別のことを教わり、集会に出るようになっていたのですが、全国集会は初めてでした。その時のことです。

明治公園だったのでしょうか、何万人もの参加者で立錐の余地もなく、しかたがなく舞台の上、発言者の背後のスペースに座りました。背後のスペースの反対側をふと見ると、見たことのある人が座っていました。何やら旗をもっています。

その人からチラシをもらい、精神障害者ゆえに差別裁判を闘っている人がいることを知りました。赤堀政夫さんです。そのチラシが、私が障害者との社会活動にかかわっていくきっかけ、扉を開ける鍵となったのです。

それから43年。精神障害者の運動も変わりました。

時代とともに変わっていっていいでしょう。でも、それは人々の心からの解放、弱い人々への情愛、友情と団結に満ちたものでなければならないと思います。

京都の前進友の会の江端さんのHPを紹介します。彼は患者会運動をずっと続けています。2018年11月7日の記事にも書きましたが、私は折々に彼と接近していました。2018年からはほんとうに心から打ち解けて、交流しています。いまになって、つくづく彼の思いの広さ、長年積み重ねてきた考えに驚嘆しています。以下、紹介します。

えばっちのタンブラー

https://kisanebacci.tumblr.com/

えばっちのはてなブログ

https://ebacciblog.hatenablog.com/

えばっちのホームページ 乾坤一擲

http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html

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追記

2018年6月3日、2018年12月26日、2019年8月10日の三つの記事を削除しました。

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追記2

狭山差別裁判を糾弾する解放歌というのが、私の70年代から80年代のマイ・テーマソングでした。

歌詞にある「解放」は個人の解放ではなくて、仲間の、多くの人々の「解放」だったのです。いまもそうであるべきでしょう。

母は闘わん

赤々と 燃える中で/あげたこぶしに 誓い合い

差別迫害 なくすため/母は解放のため 闘わん

結んだ ハチマキで/吹雪の中で 叫ぶのも

二度と許さぬ 差別のため/母は解放のため 闘わん

どんな 差別にも/闘う子どもを つくるため

兄弟姉妹と 手をつなぎ/母は解放のため 闘わん

2020年2月3日

津久井やまゆり園事件の公判が始まる

Filed under: つぶやき — toshio @ 5:58 PM

りんご園を見守る

(福祉における契約という関係を考える№1)

■これはヘイトクライムか
年明けの1月8日、相模原障害者殺傷事件の公判が始まった。2016年7月の事件から3年半もたった。植松被告が「確信」をもって行った犯罪とはいったい何だったのか、何がこのような事件を引き起こしたのか、事件を超えるためにはどのような営みを創るべきか。公判を通じてこのような問いかけや議論が行われるよう願うが、植松被告の証言が伝えられるほどに、彼の奇行として扱われてしまいそうだ。マスコミの取り上げ方もコメントの少ないベタ報道が多く、風化を感じる。

一方で、この事件を「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)と表現する向きもある。植松個人ではない、その背景に障害者差別、少数者に対するヘイトがあるという視点だ。そういう面もあるだろうと思いつつも、それでは、重い障害者を死ぬべき存在=「心失者」と呼んだ植松被告に、「犯罪者」「差別者」と言い返しているだけではないか。単純な断罪になってしまうのではないか。

仮にヘイトクライムであるなら、彼のように衆議院議長に予告したり、事件後の速やかな警察出頭を行うものだろうか。植松被告に差別意識は確かにある。しかしヘイトクライムならば自分が多数派であることを誇示し、多数派の中に紛れ込み匿名化するはずだ。私はそう考える。

表立っては言われないけれど、この世の奥にある隠されている本音を、一人引き受けて、現実化するために実行したという、使命感のような「確信」が植松被告にある。その「確信」が出頭させた、と思う。仲間が集合して確認するヘイトの「確信」と、彼の場合は違うと思う。(朝日新聞の取材班は事件を『妄信』という言葉で表現した。信じやすいという意味の妄信ではなく、妄想と確信が混ぜ合わさったという意味である。『妄信 相模原障害者殺傷事件』朝日新聞出版、2017年)

植松被告の「確信」にはどのような背景があり、どのような経過で、いつ確立したのか。そこはつかみ難い。しかし彼自身が施設職員であったのだから、福祉施設のあり方、福祉制度、職員という問題を背景において、考えるのは当然だ。なぜ福祉は「確信」を防げなかったのか、あるいはなぜ職場は「確信」を育ててしまったのかという意味において。

■植松はやまゆり園のある地域で育った
福祉の仕事をしている私は、やまゆり園事件から、いろいろな課題が突きつけられた。これからも向きあっていかなければならないと思っている。事件が起きた直後は落ちつかない日々が続いた。上京したおりに押し出されるようにやまゆり園に向かい、植松被告の家の周辺も歩いた。

事件報道以降、やまゆり園周辺は「山あいの土地」とか「ひなびたところ」といわれた。市街地から離れていて、スーパーやコンビニなどあまり目にしないから、そのような言い方が間違いというわけではないが、東京圏に隣接している地域だから、単純な田舎扱いには違和感がある。八王子まで車でわずか30分ほどの距離である。

ここは相模川の浸食でできた河川段丘の土地であり、同様な地形は多摩地区や秩父方面にもある、武蔵台地が山地と接するところの風景だ。東京の都市部で生活している人間が、たまの休みには、緑多いところで楽しみたいと思って、向かえば、出迎えてくれる風景である。私にも馴染み深い。

丘陵の腹に沿った道路は、右に左に曲がりくねり、山梨県に通じている。小高い方の片側には、石積みがあり、その上に家々がぽつぽつある。低い方の側の一段低いところには畑があり、道に並行した畑の脇に家屋が点々と続く。市街地にはなくなった、人と畑が寄りそう暮らしがある。人工湖に近づくと水かさは増し、水面は青々として見えるが、遠ざかれば川面はずっと下がり、竹やぶや雑木林の木々に隠される。

やまゆり園はバス道から低い側にある。百数十人が入所していた施設は道路から何段か下がりながら、奥に向かい、扇状に広がっているので、道からは玄関の管理棟が見えるだけだった。(事件後、2018年5月、改築工事が始まり、玄関の前にはフェンスが立った。居住棟は取り壊され、新たな棟が建つという)

植松被告の家は、やまゆり園から歩いて10分ほどのところにある。やまゆり園から彼の家まで、「キッチンたかはし」という小さな食堂が一軒あるくらいで、目立つ店はない。バス道からそれ、膝くらいの高さの石積みの道を、ゆっくりと降りる。畑と竹やぶに挟まれた幅の狭い場所が見え、それ以上降りると川に落ち込んでしまうようなところの間に、10数軒の個人宅が固まっている。東京的な密集がここだけにある。彼が1歳の頃、東京都の教員である父がこの家を購入して、引っ越してきたそうだ。

この土地を実際に歩いてみると、事件について疑問が浮かんでくる。
30年近く前、植松の両親はなぜこの土地、この家を選んだのだろう。その疑問が一つ。勤務している東京から離れ、畑と共存している土地柄に背を向けるような東京的戸建てで暮らすのは、親たちにとってはいいかもしれない。大人なら部屋の中の自分の世界だけで暮らしていける。しかし子どもはそうはいかない。友だち、近所の人、学校やお店に見守られて育たなければならない。両親は彼をどのように育てようとしたのか、そして実際、植松少年はどのように遊び、育ったのか。

ここの土地は川に向かった階段状の斜面である。道路に並行した上下の段に、家と畑が点在する。生活空間は横に広がらず、車道に沿って直線的に伸びていく。主だったものが直線状に並んでいて、迂回は難しい。かつての植松少年が小学校・中学校に通うためには、やまゆり園の前を通らなければならなかった。彼はやまゆり園職員になるずっと前から、日々やまゆり園を眺めて大きくなった。

当時は学校のイベントにやまゆり園利用者も参加することがあったようだ。園の外を散歩する利用者・職員を目にすることもあったろう。土地の人がやまゆり園の職員になることも多いであろうから、この地域では大きな規模のやまゆり園がつくる人間関係がゆったりと広がっていたはずだ。彼は大学卒業後職員になったのだから、なおさら、地域とのつながりは広がったに違いない。

施設職員が施設入所者を殺傷しただけでなく、地域住民が地域の施設入所者を殺傷した。このようなことがなぜ可能になったのか、これが二つ目の疑問である。自分殺しのようだから。

植松被告が地域の中でどのように育ったか、報道はほとんど伝えていない。しかし、歩いてみると地理的な人間関係の濃さが見えてくる。その逆に、彼自身の行動や発言は人間関係の薄さを感じさせてきた。濃淡がミックスしている。とにもかくにも、このような土地で赤子の頃から育った彼が、地域の人間関係の真っただ中で、ヘイトクライムに走ったとは考えにくい。建設されて50年たったやまゆり園である。重度の障害者が収容されている閉鎖的な施設といえども地域の人間関係の中にしっかり根を下ろしているこの地に、対立を扇動しなければならない政治性を見出すことはできない。ヘイトクライムとは別の要素が彼を突き動かしたのだろうと思う。

■施設におかしさを感じた
月刊『創』編集長の篠田博之氏は、植松被告と面会を続けながら、この事件を考えている一人である。
植松被告は一時面会が禁止され、再び許可されるようになった2017年10月から、篠田氏は面会した。植松被告に、障害者施設で働きながらどうして障害者を殺すという考えに取りつかれたのか、どういう体験が彼を追い込んだのかと質問し、応答した植松被告の言葉を、篠田氏は次のように伝えた。

Q 障害者施設の職員の仕事は大変だと思うのだけど(やまゆり園に就職するとき)それは理解していたわけ?
植松:大変と捉えるかどうかは人によって違うと思いますが、私はそう思ったことはありません。むしろ楽な仕事だと思っています。(…)
Q じゃ君は仕事自体に疑問を感じたというのではないわけね。
植松:はい、そういうことは全くありません。ただ彼らを見ているうちに、生きている意味があるのかと思うようになったのです。それは現実を見ていればわかることだと思います
(『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』、創出版、2018年、PP45-46、太字根本)

植松被告は、2012年から2016年までの3年余、やまゆり園で働いたのであるが、はっきりと意識できない部分で心の変化が生まれたのだろう。入所している彼等の「生」とどのようにかかわっていいのかわからなくなる。植松被告の側にもっと引き寄せれば、「かかわる意味」がわからなくなった、ということだ。そのことについてふれる彼の手紙文が紹介されている。

(注:亡くなった利用者仲間がいるのに「おやつは?」と言っている利用者に疑問を感じるようになった植松被告は)そんな想いの最中、やまゆり園で勤務しているときに、ニュースでISISの活動と、トランプ大統領候補の演説が放送されていました。(注: 2016年のことであるが、インターネットで見たISISの殺人の動画を連想しつつ)トランプ大統領は事実を勇敢に話しており、これからは真実を伝える時代が来ると直感し致しました。漠然と時代の変化を感じる中で職員と相談している時に、深い考えもなく「この人たちを殺したらいいんじゃないですかね?」と声にしました。何気なく出た言葉でしたが、心失者の実態を考えれば彼らを肯定することはできませんでしたし、考えを深める程、全ての不幸の源と分かりました…。(『開けられたパンドラの箱』P49、太字根本)

この彼の文章から、「真実」とは隠されているものであって勇気をもって「真実」を語らねばならない、という彼の想念が読み取れる。「真実」を伝えるためにはISのように殺人も肯定されるという短絡もあったのだろう。障害者にかかわる意味はわからないが、どうすればいいかが「分かった」のである。
彼は、施設での現実に対処しても、現実の意味を深く理解することはできなかったのだろう。現実にそれなりに対応できるし、悩むようなこともなかったが、しかし彼は不可解さをずっと感じていた。その漠然とした疑問を、短絡的な直感によって表面化したとき、エゴイスティックで、グロテスクな形になった。このように私は読み取る。

彼がかかえていた「不可解さ」とは、重度の障害者と彼=職員の関係、「重度の障害者と職員」と「社会」の関係があやふやなところから生まれる不全感だったのではないか。
植松被告はその不全を埋めることができず、彼流のゆがんだ考え方に至ってしまう。「植松=隠れた真実(を知る人)」として全能感を身にまとい、欺瞞や不幸に満ちたこの「世界」を安定させることをめざす。その結果、重度障害者を排除することに…。

障害者総合支援法では、「重度の障害者」と「事業所」は対等で自由な人間であり、自由に契約を結んでいるという「観念」がある。

支援法のこのそらぞらしい観念は、植松被告が施設現状を理解するための助けにはならなかった。助けにならないどころか、逆に、不自由な人間関係を美辞麗句で糊塗しているには、何か深いわけがあるに違いないと、思考を横滑りさせるスターターピストルになったのではないか。植松被告が大島衆議院議長にあてた手紙(2016年2月)にはこのようにある。

「障害者は、人間としてではなく動物として生活を過ごしております」…「保護者の疲れ切った表情、施設で働いている職員の生気のない瞳」…「重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない所だと考えました」(2016/7/27毎日新聞報道)

植松被告には、思考を練り上げようとすると思考がどこかにスピンしてしまう「障害」か「病気」があるのかもしれない。それにしても、障害者総合支援法の世界観は、彼を納得させることができなかったのだ。

このように考えると、もしかすると、かつての措置制度であれば彼は納得したかもしれない。措置制度は、「重度の障害者も生存権があるから、自治体が責任もって施設入所を措置する」というものだ。「疲れ切った表情や生気のない瞳」があったにせよ、それは自治体が行うべき手立ての不十分性である。ところが障害者総合支援法のもとでは、「疲れ切った瞳」は「対等で自由な人間どうし」という契約関係の“嘘っぱちとして映る。

最近になり、やまゆり園のかつての園内処遇での問題が表面化している。施設の居室での面会を避けていたのは環境整備に問題があって、見せたくなかったのではないかと考える家族。身体拘束があったこと。外泊時の家族の暴力にきちんと対応したか不明な事例など。このような指摘は重箱の隅をつつくような揚げ足取り的なもので終わってほしくない。それらのいくつかは、障害者総合支援法の契約に基づく福祉という虚構に根差していると思うからだ。

このような問題がおきると、よく言われるのは次のようなことだ。利用者本人の自己決定ができるように職員は不断の努力をしなければならない。虐待防止・権利擁護の徹底。職員研修でのスキルアップ。職員集団で支援計画を作成し、共有し、モニタリングを行う…。しかしこれらはやればやるほど、職員は自分が「対等で自由な」人間とは思えなくなるものだ。

このような改善技術のもろもろの奥に、言い知れぬ「何か」が、洞穴の奥に住む魔物のようにじっとひそんでいる。魔物の体液がしたたり落ち、洞窟の外にしみだしてくる。種々の技法や計画の隙間から、べとべとするものがせっかく立てた技法や対策を少しずつ濡らし、ずらし、気がつくととんでもないことになっている。これではまずいとさらに計画や研修を重ねると、不思議なことによりおかしく、意図からもずれて、どんどん複雑に、奇妙な形になっていく…。そのような魔物がいるのである。

 

西角純志氏は、2001年から2005年までやまゆり園で働き、いまは専修大学の教師である。彼は事件について発言し、被害者家族や元職員との面談を続けている。彼がやまゆり園で働いた時代、やまゆり園は県立の施設であり、彼は非常勤の県職員であった。彼の問題意識は、障害者総合支援法への移行は、民営化(という下請化)、効率化(という非人間化)、労働の合理化(という労働条件の劣化)と捉える。

 

(やまゆり園が2005年民営化し、変わったことといえば)安い業者の方に下請けしてしまって、地元の業者、商店を使わなくなったという点が大きいんですね。例えば、食材や配給などです。地元に「キッチンたかはし」という食堂があって、僕がいた時には、利用者を連れてデザートを食べに行ったり、そんなことがあったわけですが、民営化以降それはなくなりました。
(社会臨床雑誌第25巻第2号、2017年、P27)

このような変化は些細なことだ。障害者総合支援法が要求する計画、研修、虐待防止、スキルアップといったことと関係はほとんどない。しかし実際に働いてみれば、このようなことが「できなくなる」変化はとても大きなことである。地元の業者や近所のお店の人とのふれあいがなくなり、会話がなくなる。地域に開いたものにしていこうとしていたそれまでの職員の行動目標のベクトルが反転する。そして、ベクトルが施設の中に向くとき、職員と障害者の関係も閉じる。その閉じた中心に、「重度の障害者と職員は対等で自由な人間で、自由な契約で結ばれている」というタテマエがハタハタとたなびく。

植松被告は知っているのだろうか? と誰か、このように問いかけたかもしれない。「植松、君が働くわずか7年前、西角氏は週30時間の非常勤職員で30万円近い給料をもらっていたんだよ。職員もそれだけ大事にされていたということだ。地域との交流もだいじな活動で、入所者と『キッチンたかはし』でデザートを食べ、君の通った小学校の運動会にも参加していた。園の組合の機関紙に西角さんは収容施設の問題を仲間といっしょに考えようと書いたりしたんだ。もちろんやる気のない職員もいて、面会に来ない家族もいた。でも、君が言う『生気のない瞳』の原因は本当に障害者のせいだろうか? 君は知り始めるやまゆり園のたった7年前、君の知るやまゆり園と似ているけど、ちょっと別の世界があったんだ。それを君は知っているのか?」(「創」、2016年10月号pp48-51、西角純志氏が書いたかつてのやまゆり園)

公立公営の施設運営を知っている人は、障害者総合支援法への移行を民営化=福祉の切り下げとしてとらえる。しかし問題の大きなところは、それだけではない、「民営化=福祉の切り下げ」と捉えられる現実が、「対等で自由な人間どうしの契約」という観念と同居しているということ。そしてその同居を理解せよと迫られること。そこに問題の黒々としたよどみと深みがある。

契約という「虚構」によって多くの福祉労働者が疲れていると思う。そして重い障害者ほどつらい思いをしている。このことについて考えていきたいと思う。

 

2019年9月28日

公開交流会という試み

Filed under: お知らせ — toshio @ 10:32 PM

02年セルフヘルプクラブの立ち上げ

■公開交流会に参加します
10月2日東京で行われる「公開交流会(仮)」にサンネットから5人で参加します。何の交流会なのか、どうして公開なのか、意図は何か、そういう説明のない題名の集会です。なぜ題名がないのか。それは、方向性の合意をつくっていく過程にあるからです。

東京の2ヵ所、京都の1ヵ所のグループとサンネット青森の私たちの4つのグループが、顔を合わせ交流する、それを公開する集いです。内容は、それぞれのグループの活動を紹介する、そして相互理解を深めることです。

京都の前進友の会の江端さんは、作業所交流会(仮)という名前をつけて宣伝しています。集会の名前すら、別々なのですから、自由というかマイペースです。江端さんが「作業所」としたのは、内向きになりがちな「交流」を「公開」することで外向きの方向をつくれたら、その外向きの方向を、いろいろな「作業所」、あるいはデイケアなどにいる当事者に届けたいという思いがあるからでしょう。
http://yuinoumi.web.fc2.com/zenshin-2019-1002.html

「方向」というのは、4つのグループの歴史や経験に関係しています。患者会というポリシーで活動してきたグループ。当事者のペースを大事にしようとしてきたグループ。いずれも自分たちのスタイルにこだわり地域で活動してきました。

私たち以外の3つのグループは、作業所になる前の活動を含めると30年、40年の歴史を重ねています。全国的な運動に関係していたところもありますし、歴史と経験の厚みは格段に違います。

当事者仲間の協同性をたいせつに、地域の具体的な活動拠点、というところはサンネットと共通しています。当事者が協同できる場を日々運営してきたというのは同じです。

その経験を何とか形にして、外部の人々にむけて発信できないかというのが、公開交流会の目標といっていいと思います。

■サンネットの経験
サンネットは始めた時から、協同の場を作りたいという思いをもっていました。サンネット(SAN Net)のSはspeak outのSです。往々にして、当事者は、どういっていいかわからない、言ってはならないと強いられる場面におかれます。そして話すことに意味を感じなくなります。それではいけない、遠慮なく意見を言える場をつくろう、みんなで発信して地域を変えたいと思い、スピークアウト(=はっきり意見を言う)という言葉を選んだのです。

写真は2002年9月、サンネットのセルフヘルプグループを立ち上げたときのものです。「サンネット開設3周年、感謝の集い&祝セルフヘルプグループ立ち上げ」でした。代表の狭間さんはいささか緊張していました。仲間のグループといっても何をやったらいいだろうか、どうやったらいいのか。金銭管理や事務は? スタッフの立場の私もいっしょにみんなで悩んだ何年かでした。

協同の場づくりは、ある時から、突然、状況が変わり、こんな意見が出るようになりました。

「したいことはあるけど、今は言わない」「みんなと一緒にやらせるのはおかしい」「自分の得意なことをしたい」「話すことを強制されたくない」……。このような「感覚」が力をもつようになりました。

話すことへの抵抗、未熟さ、と思っていたのですが、そうではなく、当人が考えたいろいろな手法を隠すシェルターだったのです。セルフヘルプグループはわずか5年で解散に追い込まれました。母体であるサンネットは組織を維持するために、当事者の役割を限定すらしなければなりませんでした。

手法を隠す手法、そういうことだったと理解するのは、何年もたってからでした。この手法は、通常のビジネス的手法といっていいと思います。

当事者の正直な語りを核に、仲間が協同して自分たちの意見を積み重ねていこうとするなら、ビジネス的手法は排除しなければなりません。生態系や環境を守るため、開発的な事業活動に規制をかけることに似ています。しかしどのような方法、スタイルがいいのでしょう。

この10年余、このことを考え、模索していた気がします。問題に踏み込んでアプローチしようというのが、今回の交流会に参加する私たちの決意です。

■当事者が気持ちよく暮らすために
当事者のよりよい生活が実現するためには、個人の十分な権利行使が第1にあるべきで、仲間とか地域とか協同とかは結果としてあらわれる次元であるととらえる考え方もあります。制度や政治的な課題をとらえるには、この考え方を基にするとスッキリと理屈づけられます。しかし、よき未来、よき人間関係を描こうとすると豊かさに欠けます。

確かめたわけではありませんが、4つのグループの立場はいろいろでも、個人の権利実現を考えの起点・終点に置くのではなく、仲間・グループのありようからいろいろなことを発想してきました。仲間・グループのありようを基礎に社会改革の活動をつくる。グループのありようを守るために戦う。ありようから生まれる文化・関係を大切にする…。このような視点から制度や政治的な課題を描こうとすると、ややこしくなり、歯切れの悪さが目立ちますが、リアルな未来や人間関係を語るには必要なことです。

4つのグループの互いの経験をすり合わせれば、合計100年以上もの「生身の経験」を再経験することになります。当事者が主体となるための血のにじむような模索。毎日の暮らしの中での格闘。支え、話し、闘い、疲れ果て、何度も立ち上がってきた日々。どのような暮し方、生き方であっても、たびたび挫折するにせよ、多くの人は他者を守り愛を与えようとし続けています。だからこそ、ここには、深い、だいじな課題が存在しています。

このような経験をすり合わせるためには、独自の言葉が必要です。それを私たちは獲得しているわけではありませんからどうなるかわかりませんけど、照らし合わせ、交差させることからどんな世界が垣間見られるでしょう。楽しみです。

仲間が協同していくための道標を共同して考える、その始まりになるように願いつつ、私たちは東京に向かいます。

2019年7月25日

タナハシ・コーツの語りを聞いて

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:45 AM

 

スカイツリーが無かった頃

『ニューヨーク公共図書館』はフレデリック・ワイズマン監督のドキュメント映画。2015年の秋、12週間の撮影の後、2017年に公開された作品である。ようやく当地でも上映されることになったので、いそいそと映画館に足を運んだ。

ニューヨーク公共図書館は、本館・分館92ヵ所の大きな施設で、役割と機能はたいへん広い。映画を見て知ったのだが、日本でいえば、大規模な公立図書館に、コミュニティセンターや教育センターや児童センターの地域文化施設、それからいくつかの文化研究センターを足したようなものだ。職員数は3000名というから、それなりの大きさの自治体なみの規模ということになる。

映画は、ナレーションのない、ニューヨーク公共図書館の日々の一コマ一コマが映し出さていく。荘厳な本館。閲覧室。会議風景。いろいろなイベントの様子。ニューヨークの街角…3時間半の上映時間。途中に休憩があるのだが、「えっ、もう半分も見たの!」という気分だった。見終わって、考えてみれば、図書館にかかわるいろいろな人たちの語りが醸し出す魅力が、飽きさせなかったと思う。見ている最中は、何が面白いのか自分でもわからないけど、そのなかに引き込まれていた。

 

スピーチイベントの風景もあった。「利己的な遺伝子」で有名なイギリスの生物学者リチャード・ドーキンス。「パンクの女王」と称されるアメリカのシンガーパティ・スミス。ピューリツアー賞を受けたアメリカの詩人ユーセフ・コマンヤーカなど、著名な人びとが顔を出す。
いずれも短いシーンだが、みな印象的な語り口だ。

私にとっては、そのなかでも、アメリカの作家タナハシ・コーツという人がひときわ魅力的だった。アフリカン・アメリカンの彼が、米国で黒人として生きるとはどういうことかを息子に語りかけている著作、『世界とぼくの間』について語る。40代くらいの、エネルギッシュで真面目そうな人である。

黒人コミュニティーでの暴力事件の多さから、危険な黒人というイメージでみられるが、社会全体の黒人への差別、抑圧が反映したものが暴力であるというのが彼の主張らしい。暴力は必ず身近なところであらわになる。だから黒人コミュニティーなかで暴力が多いということをもって、黒人だけの問題にすることはできない。問題にすべきなのは、薬物と銃に溢れて、一瞬にして奈落に落ちるアメリカ社会の容赦ない現実を、力強く生き抜いているということだ。

 

…大丈夫だとお前に言ってやらなかったのは、大丈夫だなんぞと本心から思ったことが一度もなかったからだよ。お前に伝えたのは、お前のおじいちゃん、おばあちゃんが僕に伝えようとしたことだった。これがお前の国なんだよ。これがお前の世界なんだよ。これがお前の肉体なんだよ。だからお前は、その状況のなかで生きていく方法を見つけなければならない、ってね…

 

白人のようになるという「ドリーム」、安全な郊外に住むという「アメリカン・ドリーム」、黒人が平和に暮らせる未来社会を描く「ドリーム」。そのいずれのドリームも夢見ず、目の前の現実を生き抜く道を見つめるタナハシ・コーツ。

タナハシ・コーツの話を聞いた私の頭は、私がかかわっている精神障害の問題へとワープした。
事件報道でいえば、凶悪事件と精神障害をむすびつけられることが多かった。そういう偏見は根強くある。家庭内暴力、自死といったできごとだってある。
アメリカの黒人と暴力。日本の精神障害者と暴力。まったく異なる文脈だが、「ドリーム」に逃げ込まず、現実を生きるという道を考えなければならないというのは同じではないだろうか、というインスピレーションが私のなかにわいてきた。

 

『ニューヨーク公共図書館』のフレデリック・ワイズマン監督はこんなことを言っている。

 

アメリカ合衆国が非常にダーウィン的(弱肉強食的)政府を選んだこの時代に、(図書館ライフで)他人を助けるために情熱を注ぐ(あらゆる人種、民族、社会階級に属する)人たちの姿を見せることが、役立つんじゃないかとぼくは感じたんだ。

 

昨日はSさんの命日だった。11年が過ぎた。

2019年7月1日

20年、たちました

Filed under: つぶやき — toshio @ 6:42 PM

今年も咲きました

1999年7月1日にサンネットを開所して、今日でちょうど20年。長いような、短いような感じがします。そこには忘れてはならないできごとやいつか伝えなければならない課題が、長い時間の中で静かに眠っています。

遠く去った人がいて、もう出会うことのない人がいるのですが、それでも、記憶と夢のなかで彼らと出会うのです。

節目の日。その夜。いろいろなあれこれを、ちょっと思い出してみましょう。

2018年11月7日

23年前の問いかけ

Filed under: つぶやき — toshio @ 1:18 PM

仲間じゃないか

写真は、先日、京都から来訪した江端一起さんとの記念写真である。初めて来られた来訪者と心から楽しい時間がもてたというのは久しぶりだ。

精神病患者であり先鋭的活動家である江端さんとひざを交え、親しく語り合ったりすることはないだろうと、ずっと思っていた。というか、なるべく近づかないようにしようと、いつか心に決めていたはずである。

 

23年前、日本社会臨床学会の京都総会があった。1995年4月、ぼくの記憶では、そこで初めて江端さんを見かけたと思っている。

その頃、ぼくは岡山県で生活していた。1月に淡路阪神大震災があった年である。寒い時期の被災は、何もできないぼくを切ない気分にさせた。春になってホッとしたものの、多くの人は対応に追われていた。岡山駅から支援者を神戸に運ぶバスが連日出ていたし、ラジオやテレビでは被災者を受け入れる情報、たとえば「女子学生可、1名、倉敷市」みたいな報道が流れた。地元紙の山陽新聞になると何面もわたって毎日載った、と思う。

そんな春、ぼくは社臨の京都総会に新幹線で京都に向かう。倒れたり壊れたりの新幹線の高架は、神戸あたりに来ると復興しておらず、バスの代行輸送になった。どこかの駅のプラットホームに降り立ったぼくには、シートがかけられた建物がつくる断続的なブルーの列の町並みが見える。列から横にわずかにずれただけで、とたんに建物の被害は軽微になる。断層が走っている確かな証がこのブルーの列だ。人間の幸と不幸も、見えない地殻の上に建っていたのだと思うと、畏怖の感情がフツフツとわいてくる。

なのに、プラットホームにいる幾人かのガードマンたちは実に楽しそうに警備をしている。不釣り合いの制服の彼らの所作はにわか仕込みで、ふざけているように見える。風景と彼らの落差は、嫌な感じがしない。そのような振る舞いと比べるにはあまりにも自然は大きすぎるし、大きな自然に向う人間とはそういうものなのかと思った。

 

京都総会の開催場所は花園大学であった。スケジュールの合間、会場のホールを出て、エントランスに足を入れると、江端さんが小さなハンドマイクをもって叫んでいた。

“学会に出てみたけどおもろうない。学会よりだちんこ(友だち)になろう”。そんなことを言っていた(と思う)。ぼくは40代前半、江端さんは30代前半だったろう。「ああ、こんな若い病者の活動家、こんな活動スタイルが生れてきたんだ」と頼もしく思い、でも“あと3~4年たったら福祉から足を洗うんだ”と思っていたぼくは、あまり近づかないようにしようと思った。

その時、なぜ、ハンドマイクのその人が「江端さん」とわかったのだろう。ゼッケンかハンドマイクに「前進友の会」とか書いてあったのか、あるいは誰かが教えてくれたのだろうか、それは覚えていない。ともかく「彼」だと思ったのだ。

 

さらにその5年前にさかのぼる。1990年10月、日本臨床心理学会も京都での総会だった。その事前打ち合わせのため、8月にぼくは京都に行き、実行委員長だった亀口公一さんと精神障害者の作業所「やすらぎの里」を訪ねた。なぜ、亀口さんが「やすらぎの里」を選んだのかは知らなかった。女性スタッフがいて、作業をしていたが、ぼくらの訪問をあまり歓迎していない様子だった(と記憶している)。総会イベントに「やすらぎの里」がかかわることはなかった。でも、ぼくはその時、作業所の「やすらぎの里」は患者会「前進友の会」と両輪の関係であることを知った。

たぶん、その遠い記憶ともどこかで結びついて、5年後にチラッとみた江端さんに対して強い思いが起きたのだろう。

 

その「やすらぎの里」に向った日、亀口さんと京都を走る車の中で、車内のラジオからイラクがクウェートに侵攻したニュースが流れてきた。「そんなバカな!」とぼくは思った。

それから、学会のほうは京都総会を機に激論となり、国家資格をめぐって翌年に分裂。その間、「そんなバカな!」と、これまた何度も思うことがあった。そんなこんなでやがて1993年の日本社会臨床学会の設立にいたる。ぼくの所属する学会は変わり、5年後に再び京都に降り立って、江端さんと出会ったのである。イラクのこと、震災のこと、学会のこと。激動の時期のこれらと、江端さんの思い出が重なり、ぼくのなかの江端さんは「嵐を呼ぶ男」となっている。

精神医療を批判的に問うという領域で、ぼくと江端さんは別々の土地で、別々の視点の道を歩んできた。それがいま、顔と顔を合わせて話し合い、知りあっている。遠い遠いところを飛んでいたブーメランが、とんでもないところから返ってきたようだ。不思議なものである。

23年前の「だちんこになろう」という彼の叫びを思い出しつつ、いまこそ、彼の問いかけにできる限り応えたいと思う。

 

2018年7月24日

2008年という年

Filed under: つぶやき — toshio @ 7:01 PM

 

雨が降る

■19:44のメッセージ

Sさん。あなたが亡くなって、ちょうど10年になります。月日がたったのですね。長いような、短いような時間でした。

半年入院しているあいだ面会できないままでした。亡くなったと、ある日、突然聞いたのですよ。

どのような病状だったのでしょう。何通かあるとされている遺書はいつ書かれたもので、何が書かれているのでしょう。線香すらあげられず、どこの墓地で眠っているのでしょう。私は何も知りません。

あなたとの関係は、あの冬の入院と同時にはさみで切るようにプツリと途絶えてしまいました。だから残された私(たち)が「真実」にむかってたどろうとすると、目の前には霧につつまれて見通せない回廊しかなく、しかもそれはエッシャーの描くだまし絵のように宙ぶらりんなっているのです。

私はいまでも同じ町に住んでいますから、街角や店を通りかると、ふとあなたを思い出します。まぶたに浮かぶあなたは、いつも別れた時と同じ。冬の町を背景に、長めのコートを着ています。

 

先日、ある集いがありました。私は分科会や講演会を担当しました。その一つに、「あれから10年、ぼくらはしぶとく暮らしています」という題をつけました。どこかであなたを意識していたのです。

にぎやかに過ごしたのですが、あなたを知らない参加者がタイトルを言い間違って、「あれから10年、ぼくらはしぶとく生きています」といいました。私は、ドキッとしました。そして「Sさん、あなたは生きてはいないんだよね」と胸の中でつぶやくのです。意識していたはずのあなたとの境を、あらためて思い知らされました。

 

7年ほど前、Sさんが亡くなって3年たったある日、利用者が使う4台のPCの1台にあったあるファイルが気になり、開きました。ネットに関した3つの短いデータを並べたテキストファイルです。作成された日時からすぐにあなたの作成とわかりました。2008年2月7日19:44。そんな時間に入力できるのは、あなたしかいませんでしたから。

3つのうち一つはサンネットに関するデータ。あとの二つは、“某グループ”に関するデータでした。それを眺め、あなたは某グループとサンネットの間に挟まれていたんだなあ、悩んでいたのだろうなとつくづく思ったものです。

 

もし“某グループ”の現状を、あなたがどこかで見ているなら、驚いていることでしょう。

あなたはお母さん大切にしたいと思っていました。それにつながりながら “某グループ”の「お母さん」もだいじにしたいと思っていたでしょう。それは知っています。だから「挟まれた」のですよね。しかし彼らは「親子のつながり」など何も求めていなかったのです。それはいまならわかるでしょう。

だから、あなたは挟まれる必要も、悩む必要もなかった…私はそう思っています。

 

あの出来事、表面的にはセルフヘルプ活動をめぐった出来事。

あれ以来、私は、福祉に関して別の可能性をいつも考えるようになりました。9・11以来、飛んでいる飛行機がビルに突き刺さるのではないかと想像する人が多くなったように、私は福祉に関して、本来の使い方ではない可能性について、考えるようになりました。

例えば、車イスにのった脳性まひ者の医師、熊谷晋一朗氏は、何にも依存しないで生きられるような人間はいないのだから、「多様な依存先を選択できる状態が自立」なのだと言ったりします(「ちくま」2018年8月号pp16)。すると、私は、ひとりで突っ込みを入れるのです。「この場合の『依存』とは、生命や暮らしにとっての必要性ですよね、他者を支配したいといった欲望のことではないよね。『選択』とは、提供者と受益者が相互に理解したり、理解し合えたりする種類の選択だよね」などと訳の分からぬ但し書きみたいなことを、誰かに向かってつぶやきます。

つまり、〈相手が知らないうちにほしい情報を取得し、あるいは相手が誤解するような行動をし、その結果、多様な情報がまとまった段階で、人に知られずある選択をする〉、それは自立ではないよね、と強迫的に念を押したくなるのです。

考える前提が変わりました。あれは、新しい時代の始まりだったのでしょうか? それとも古い時代の終わりの始まりだったのでしょうか? それを考えるとき、あなたの死はどのような意味を持つのでしょうか。それらは宛先不明の問いとして、霧の回廊のなかを漂い続けているのです。

 

■加藤智大(TK)による秋葉原事件

あなたが入院して亡くなるまでのあいだの2008年6月8日、あの秋葉原無差別殺傷事件がおきました。犯人が青森市出身だということで衝撃が走りました。

社会学者の見田宗介は、40年前の1968年の、やはり青森出身であるNN(永山則夫)が起こした全国連続射殺魔事件と比較して、次のように書いています。

 

40年前の事件については、かつてこれを「まなざしの地獄」として詳細に考察したことがある(が…)2008年の事件についてこれとの対比で見るならば、それは「まなざしの不在の地獄」であった。

アキハバラの犯罪の出発点となったのは、犯人TKが仕事に出てみると、自分用のつなぎ(作業服)がなかったことである。TKはいったん自分の部屋に帰って、自分は結局「だれからも必要とされていなかった人間」であると感じる。(「成熟した人間は、必要とされることを必要とする」エリクソン)(『現代社会はどこに向かうのか―高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018、pp.104-105)

 

見田は、アキハバラのTKもリストカッターも、生きる意味を見失った孤独の衝動的噴出とみています。TKが内向して自分に向かったのがリストカッターの少女であり、リストカットが外に向かって爆発したのがTKであると。

その全体を俯瞰するように、現代人はなぜこのように生きる意味を失ってしまったのだろうと、社会や文明のあり方を老社会学者が問いかけました。それがこの本のテーマなのですが、ごく簡単にダイジェストします。

 

——現代文明に直接つながる2500年前から人間は世界のとらえ方を変えた。2500年前、世界規模で生まれた交易、都市、貨幣というシステムは、人びとの生と思考を共同体という閉域から解き放った。しかしそこには「無限性」という真実(畏怖、苦悩、戦慄)の前に人間が立つことになる。この「無限性」に立ち向かうために、人間は「生と思考」を再構築するのだが、〈未来のための現在〉=〈目的のための手段化〉という思考もそのひとつだった。そのような思考方法が人々の心の奥に植え付けられてきた。

その結果、(現在を否定するのだから)人々は生活や社会のために日々苦闘することになるが、その努力が、未来の豊かな生活、満たされた社会となってわれわれの前に現前するにちがいないという“仮説”に希望を託し、仮説の世界を生きることになった。

ところが1970年代からの欧米や日本、1990年代からのより広範な先進国では“仮説”の虚構性があらわになる。環境問題や貨幣システムの限界といったできごとによって、「無限性」のなかから「有限性」が急に立ち上がったからだ。
現在を否定して未来を求めてきたのに、その未来もないのなら、私は世界に独りぼっちで残されるのだ…。実は、生れてきた意味も、生きる意味もなかったのだろう、と――。

 

見田はこんなふうにもいっているのです。

「加速に加速を重ねてきた(人類の歴史という)走行の果てに、突然(豊かな社会の実現という)目的地に到達して(仮説を失い)急停車する高速バスの乗客のように、現代人は宙を舞う。」(『現代社会はどこに向かうのか』pp.111)

TKも宙を舞ったひとりかもしれません。

中島岳志著『秋葉原事件―加藤智弘の軌跡』(2011、朝日新聞出版)という本があります。表紙は当時TKが派遣労働者として暮らしていた静岡県裾野市の風景写真。国道246号線をトラックや乗用車が走っていて、その向うに工場が見えます。TKは、事件の前年の秋から、トヨタ自動車の関連会社、関東自動車工業で働いていました。

本の帯には、「なぜ友達がいるのに、孤独だったのか?」と書かれています。「加速に加速を重ねてきた」近代の象徴のような工場、自動車専用道路、疾走する車両が映った表紙。表紙から離れた「宙を舞う」帯には「孤独」が書かれるのです。実に象徴的ではありませんか!

 

TKが働いていた関東自動車工業(現トヨタ東日本自動車)は、2020年12月末までに裾野市の工場の閉鎖を決定したと、先日報道されていました。彼が「必要とされていない」と感じたロッカーのある工場全体が、必要とされなくなったのです。自動車産業は全車電気自動車時代に向かって再編合理化を疾走しています。それは投資と消費の再開拓ですが、工場労働者や家族・下請け孫請け・派遣アルバイトは、時代の流れに必死でしがみつかねばなりません。ところが「疾走する流れ」にとってはしがみつかれる必要などなかったりするのです。

 

■2008.9.15リーマンショック

2007年アメリカの住宅価格は下落。サブプライム・ローンが不良債権化し始めました。日本にも影響は押し寄せ、雇い止めが表面化しました。雇用状況が悪化していたことがTKを心理的に追い詰めたのかと問う者もいたのですが、それは関係ないとTKはいいました。しかし、さらに事件後3ヵ月の9月15日、リーマンショックが世界的規模の金融危機を引き起こすと、日本の派遣労働者も絶望的な状況に直面することになりました。

リーマンショックをただの金融危機ではなく、そこに人間が生み出した「無限性」の破綻を読み取ろうとする見田は、「無限性」の由来から語り始めます。

 

球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても際限はないが、それでもひとつの「閉域」である。
グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。これもまた比喩でなく現実の論理である。21世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追及することをとおして立証してしまった有限性である。それが最終的であるのは、共同体にも国家にも域外があるが、地球に域外はないからである。
2008年「GM危機」は、直接にはサブプライム・ローン問題に端を発したグローバル・システムの崩壊の一環として現実化した。サブプライム・ローン問題とはアメリカの都市の貧しい地域の住宅価格が上昇し続けるはずであるということ、地域の貧しい人びとがその住宅担保ローンの元利を支払い続けることができるはずであるということ、この仮定(とそれから発展した虚構のシステムが…)一挙に崩壊したものである。(『現代社会はどこに向かうのか』pp.13-14)

 

経済的に困窮している貧困層に貸し付けた(非人間的とも思える)サブプライム・ローンに数学・工学的処理をほどこし、分割化・細分化をへて、ローリスク・ハイリターンであるかのように再パッケージしては、商品化されていました。

ここに見られる、金融化、グローバル化、数学化による「無限性」は、平らな「無限性」ではありません。奈落に落ちていくような、あるいは恒星の光が届かない宇宙のはてに永遠に浮かんだままの、そういった種類の「無限性」です。

2500年にわたって広がり、成長してきた「無限性」の破綻が始まる。そして、人間的な「有限性」が大きな歴史物語として立ち現れるのではないか、見田はこのように予感するのです。

 

■ゲーテッド・コミュニティ

今年、カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを、是枝裕和監督の『万引き家族』が受賞して話題になりました。昨年、同賞を受賞したのは『ザ・スクエア 思いやりの聖域』という映画でした。(リューベン・オストルンド監督、スウェーデン・ドイツ・フランス・デンマーク合作、2017年)。

ザ・スクエアが面白かった”という知人の声に誘われて、映画を見ました。するとここにも2008年が顔を出しています。『ザ・スクエア』のパンフレットにまだ40代の若い監督の次のようなメッセージが載っていました。

 

2008年、スウェーデンにはじめてのゲーテッド・コミュニティがオープンしました。門がついていて、認定を受けたオーナーのみがアクセスを許されるその居住区は、特権階級の人々がどのように自分たちを周囲から隔離するかの極端な例となりました。これは、政府債務増加と社会的利益の減少、ここ30年での貧富の格差拡大と共に、ヨーロッパ社会がますます個人主義になっていることの象徴でもあります。…一体、これが私たちの望む社会の発展なのでしょうか?(リューベン・オストルンド 2017年5月)

 

ゲーテッド・コミュニティとは、門と塀で囲われた地域に住むことで、外部者の流入を制限し、防犯性を高めようとする建築物です。スウェーデンにはじめて建てられたのが2008年なのですね。貨幣システムが伸びきった最先端であらわれたのです。

監督は、「格差、隔離、特権階級」がはっきり見えた2008年を意識しつつ、それを越境するものとして『ザ・スクエア』を撮りました。映画は、移民問題やSNS、格差社会の問題をかかえたスウェーデン社会を背景に、現代美術館のキュレータである主人公が、些細なことから窮地に陥り、不恰好でこっけいな行動を起こしながら、しだいに人間的決断をせまられる姿を描きます。

 

…(自らの主義にもとづいて行動しようとして、躊躇せざるをえない場面に遭遇することがあります。理想と現実の矛盾に直面するのです)本作で、我々は人間の弱さに直面します。正しいことをしようとするときに最も大変なことは、共通の価値観に同意することではなく、実際にそれに従って行動することです…     ( 同 )

 

いろいろな意味が読み取れる映画ですが、私には「関係性がもつ多様性」とでも表現したくなるものが感じられました。「多様性の関係」ではなく、関係性そのものに豊かな世界――論理を超えるもの、非条理の出来事、異質の文化――があって、その多様な世界を不恰好に生き抜くことが、ゲーテッド・コミュニティを超えること、そんなメッセージを読み取ったのです。それは見田の主張とどこか重なるのではないだろうかとも感じています。それはまた別の話ですが…。

 

2008年に思いを馳せてみましたが、さて、Sさん。

私は思うのです。あなたは、2008年2月7日19:44ファイルを記入して、そのあとどのような思いでドアを閉めたのでしょうか。事務所の電気を消し、エレベーターで下り、家路につくときどのような気分だったのでしょうか。

あなたはそのとき病気だったと思います。でも、闇に光るディスプレイに彼らの二つのデータを見ていたあなたは、表面上のデータと病気の症状を超えて、何かを知ろうとしていました。するとデータの奥底から何かが現れたはずです。人間の欲望の深淵をのぞきこむと、谷底から吹き上げるなまあたたかいものにつつまれます。切り立った崖に立って谷底をのぞくと、足の先から引き込まれていくような錯覚に陥るものです。同じような感覚があなたを襲ったのではないですか。

 

…文明的孤独をリストカッターとTKが体現しているとしても、その人々の群れをターゲットにしてしまう人間がいないと言い切れるだろうか。絶望的な孤独に近づき、そこを住処にするもう一つの「サブプライムローン」がないと断言できるだろうか。秘密の手法を門塀でしっかり閉ざし、内側に暴力と憎悪を収めこむ建造物をつくり続ける。それは現代版のバベルの塔ではないか…

 

その時、あなたが見たものは理想と現実の矛盾や躊躇ではなく、あなたの価値観や信頼感、心のよりどころ、深いところの記憶と感情を射抜き、破壊してしまうようなディスプレイからの逆照射だったのではないですか。

2008年。もし、近代の終わりが始まった年だとしたら、彼らの欲望の深淵はその近代の最果てかもしれません。それもふくめて終わりの始まりだったかも知れませんが、2008年、それはまだ不透明でした。

 

あなたが終了させた生は、人間性と関係性にねざした新しい世界の始まりの始まりだった。そう思いたい私がいます。終わりの始まりは生き残り、始まりの始まりが命を絶つ。ポロリとこぼれるような矛盾。

2008年がどのような年だったのか。それはこれからもっと明かになっていくでしょう。その一方、あなたの生と死は歴史の堆積のなかに静かに埋もれるのです。風にそよぐレースのカーテンように、人びとの歴史という風があなたをなぜては過ぎ去ります。何千万回、何億兆回と繰り返しては過ぎていきます。元々が何だったのか、生れていたか死んでいるのか、それすら忘れてしまうかもしれませんね。でも、それはそれでいいのではないかと思います。

私のなかでは、Sさん、あなたはずっとあなたのままです。

だからまたいつか会いましょう。会ってくださいね。

 

2017年7月24日

虚構の「苦情」

Filed under: つぶやき — toshio @ 11:48 AM

 

パステルアートが始まりました

パステルアートが始まりました

「苦情がいいサービスをつくる、本当にそう思っていたんだ」

 

60歳近い、たたき上げといった雰囲気の彼は、人懐っこそうな表情を見せて語った。もし、彼が魚屋か寿司屋の店主であったら、威勢のいい、客に好かれる店ができただろうと私は頭の中で考えた。庶民派という雰囲気を肌で感じる。

彼は障害者施設の職員。その施設は、利用者にとってより良い施設でありたいと、この地域で先駆けた活動してきた。開かれた施設づくり、職員の相互研修、関係機関を巻き込んだ苦情処理、地域の横のつながり…こういったことについて、彼は頭と口を動かすよりも、先頭に立って手と足を動かしてきたのだろうと思う。

「なんていうか、クレーマーなんだな。長い時間、話して、ようやく納得してもらえたと思ったら、その日に、県に訴えている。次から次へと苦情の種が変わるし、わけがわからない…」

彼の語りは愚痴っぽさがない。まるで他人事のように語る。居住系の施設に入所している利用者の母親が執拗に苦情を繰り返しているらしい。

 

「苦情は、どんどん話してください。県でも、なんでも話して、みんなで話していけばいい。そう思っていたから、それはいいんだけど…。利用者の母親なんだけど、前に担当していた職員が辞めたのは、そのせいだったんだ。自分が担当してわかったけど。いい職員だったんだ。俺も休みたくなったよ。充電が必要だけど、施設長が休ませてくれないしなあ…」

 

現在進行形の話らしく、具体的なことは何も言わない。しかし彼の思いは私の胸にずんずん響く。

苦情に対して百戦錬磨の経験が、役に立たなくなっている。誰でも言いたいことは言っていい。行政だろうが、同業者だろうが、巻き込んでみんなで考えていく。なるべく公開していけばいい。そういう中で、苦情は前向きなものに変わり、福祉サービスのこれから在り方にむかい、利用者も家族も職員もふたたびある種の調和に再帰する…そういうセオリー、やり方だったが、それが通用しない。

いったい何が起こっているのか。彼はとんでもない落とし穴にはまってしまったらしい。

母親の言っていることはわかる。少なくとも表面上は。言葉上は誰が聞いても無理難題である。無理難題の奥に調和を求める気持ちがあると彼は思っていたが、実は、ない。母親は自分の言い分に確信を持っていて、自分の心に穴があいているとはつゆとも思わない。30分も40分もの彼女のわめきを聞いていると、彼の心のほうに穴があいてくる。

母親と自分の関係に穴があいているから、どちらかが引き受けなければならない。するとこちらの心が折れていく…。

 

「母親の言い分を聞いていたら、『そっちに座っていれば聞こえないでしょ。こっちに来なさい』と自分の横に座らせようとする。そして30分も一人でしゃべりっぱなし…」

手招きをして、彼を呼び寄せたのだという。

度重なる苦情だから、当然、面談室か応接室で話したに違いない。職員側は一人か二人。ふつうは向かい合い、対面の位置に座る。それがセオリーというものだが、彼女はそれを崩した。

崩れたのは手招きにそってしまった彼のプライドか。あるいは、母親と彼とで作ってきた「セオリー=虚構」であったのか。彼は、このエピソードを繰り返し話した。

 

さて、福祉サービスのかなりの部分は、虚構の人間関係をつくることで成り立っている。たとえば入所施設、グループホーム、ショートスティ(ホームヘルプサービスのある部分も)、それらは社員寮や独身寮など、日常的な暮らしや家庭の代替である。

生活訓練、就労支援は、学校や会社の代替である。代替物は本物ではないが、会社や家庭などをモデルにしている。福祉サービスはスタッフという人間を通じて行われるため、支援関係の「場」や「空間」を、意識的無意識的に既存のモデルをあてはめ、似させていくのである。

 

下の表は、居住系サービスを念頭に置いているが、(A)領域が既存のサービスである。そのサービスは家庭に代わるモノと言いつつ、そこにある人間観、関係をつくるシステムが空間を閉鎖的、抑圧的にしてきた。

利用している当事者もそこで働く職員も、代替という虚構性を重々承知し、それを改善しよう、脱却しようとしてきたのが、1970年代以降の営みであったと思う。自立運動に代表される脱施設化の運動は、横軸に位置づける。それは(C)への移行を推し進めた。利用者の自治会づくり、当事者中心の施設運営、開かれた施設づくりなどは縦軸に置こう。それは(B)への移行を推し進めた。両方の軸と発展的になる領域(D)には一部の自立運動、薬物からの回復者の営み、一部の精神障害者の地域活動、共生共学の運動などが含まれ、代替という枠を超えたあらたな人間関係のありようを生み出してきた。

 

y軸 ↑ 人間的生命観

ビオス的生命観(居心地、平等、共同)

(B)人間味ある暮らし

(制度内改革、インフォーマルな関係を内包)

(D)生き生きした自立運動

(相互的、地域への広がり)

ゾーエ的生命観(不平等、操作的関係)

(A)閉鎖的・抑圧的空間

(既存の制度)

(C)権力闘争的自立運動

(支援関係の固定化)

 

現在のモデルの追認

モデルからの脱却

(地域、インフォーマル)

 

開かれた制度 → X軸

 

 

いまどき「施設は家庭の代わり、職員を親と思ってください」とあからさまに言明する事業所はないが、「利用者様の人権を尊重し」「ご家族のニーズに沿ったサービスを」提供しているという言い方で、家庭の代替をしていると匂わせる。

そこに反発し、「それは嘘だ!」「もっと違う何かを」と、先駆的な活動や地道な活動が展開されたわけだが、いずれにしても福祉サービスがもつ虚構性をふまえている。

 

そのうえで、先ほどのクレーマーに戻りたいのだが、彼女は、人間関係の虚構性を、虚構性の側へとさらに反転させたといえよう。(彼の施設は(A)ではなく、(B)の領域だと思うが、書きの表は単純化して描いている)

 

↑ 人間的生命観

(A)閉鎖的・抑圧的空間

(既存の制度)

← より閉じる

開かれた制度 →

(X)

職員も非人間化される「疑似的家族」

より非人間的 ↓

 

彼女は、ベテラン職員を子ども扱いする。手招きして、自分の傍らに座らせ、言い聞かそうとした。それは息子(利用者)の面倒を十分みようとしない兄(職員)に説教する母のようではないか。母は施設の外にいて、施設の中は「面倒を見る兄や姉」という職員と息子の空間である。(A)では、母は「わたしの家庭でできない息子の面倒を、代わりにお願い」していたが、(X)になると、母は、疑似兄にしっかり教え込む「母」の役割のまま、むしろビッグマザー化している。

 

(X)には「苦情がいいサービスをつくる」という可能性はない。サービス改善に向う可能性は、職員と利用者と家族が、共同して正反対に向かおうとするときに生れるのであって、そうではない「苦情」に向きあい続けるのはベテラン職員の彼であっても根をあげるのはやむを得ない。

息子の環境をもっと良くしたいのに、よくならないので困っているというのが「苦情」の意味だ。もっと自分の思う通りにしたいと思っている母親が、語り続けるのは「苦情」ではなく「生きがい」なのかもしれない。

 

職員の彼の心が折れそうになるのは、「苦情」に向き合っているわけではないのに、「苦情」に対処しなければならないと信じているからだ。周囲の人々もそう考えていて、「苦情解決担当者」を降りるわけにはいかないからだ。

このように、いくつもの場面で、断片化した人間関係の虚構が生じるのは、福祉の基盤にもともと「虚構」があるからだが、もう一つ、理由があって、現代社会を生きる人間にとって「虚構でない、リアルな関係」をしっかりつかまえられなくなったということによる。これは意外と大きな問題だと思う。

2017年3月28日

卒業するあなたに

Filed under: つぶやき — toshio @ 3:16 PM

青森で見る、なごり雪

青森で見る、なごり雪

 

先日の夕方、黒い雲が残りつつ、西の空に透きとおるような青空が小さく顔を出していました。まるで、空の神様が「青森にも春が近づいていますよ」と挨拶しているようでした。

今頃、あなたは青森から東京に。南にと向っていることでしょう。新しい生活が始まろうとしているのですね。人生には大きな区切りがありますが、卒業・就職の区切りも大きな出来事です。
そんな時期に同封した『プシコ  ナウティカ』(世界思想社、2014年、松嶋健)をプレゼントさせてください。

仕事と人生にはいろいろなことが起きます。不安なとき、達成感あふれるとき、悲しさにつつまれるとき、どこを見ても元気が見つけられないときも…。喜怒哀楽が織り成される。それが仕事、人生というものです。誰もがそれを経験します。

きっとあなたにもそんないろいろなことがあって、いつかふとこの本を思い出しては、パラパラとめくるかもしれませんね。3ヵ月か、3年後か…もっともっと後かもしれませんが。でも、この本は、いつもあなたを応援してくれるだろうと僕は信じて、贈るのです。

 

この本にある小さなエピソード(p194)。

イタリアの司法精神病院に入院していた20代の男性、ヤコポは施設の生活に適応していた。しかし自分で自分のことを決定しなければならない地域生活を始めようとすると、誰かが自分を見張っているという妄想に襲われて、調子が悪くなる…。僕の想像ですが、ヤコポは知的障害がありそうです。彼は、パンを丸ごと出されれば、そのまま切らずに一口で食べてしまう、そんな人だったそうです。

いつまでも司法精神病院にいられるものではありません。退院して、薬を箱詰めにする仕事場に通うことになります。ところが仕事場に通うバスに乗ると、ずっと左側を向いている彼の癖のため、左側に座ったときは降りるべきバス停がわかるのですが、右側に座ってしまうと外が見えず、終点まで行ってしまうのです。

最初は看護婦が付き添っていたのですが、そのうち、バスの運転手やその時間にいつも乗り合わせる乗客が、ヤコポをいつも左側の座席に乗せるようになったのでした。

これだけの、どこにもありそうなエピソードです。

ヤコポは左側のバス停を見たい、けれども右側と左側のどちらの座席に座れば左側のバス停が見られるか、それが彼にはわからない。そこで彼が見たい位置になるように同乗した人々が応援したのではないでしょうか。つまり、彼がキチンと仕事場に行けるように看護したのではなく、見たい風景が見られるように応援した。そう思いたいものです。

最初付き添った看護婦は、バスに同乗した人々が彼にそのように振舞うようにモデルを提供したともいえます。

 

この本はイタリアが舞台というところがいいです。旅行している気分になりますから。イタリア精神医療の歴史もかなり詳細に書いています。社会思想の知識が必要な部分もあります。精神医療とどう関係あるのかわからないというところもあるかもしれません。でも、ヤコポのようなエピソードがところどころに挿入され、旅人のような著者の視点から語られます。専門家なら見逃してしまうようなエピソードですが、こういったエピソードは僕らの仕事が社会に開いているという当たり前の事実を気づかしてくれるのです。

 

10年前、私はある事件を目撃しました。なんかのちょっとしたすれ違いかと思っていましたが、実は、その根っこには、ある人々の隠された欲望があって、長い期間それに悩まされました。

いま、その事件を後押ししていたものは「市場原理」であり「能力主義」であると確信しています。

福祉も医療ももちろん市場経済の枠組みの中にあるのですが、それでも市場経済にはない「人間的な何か」があると、当時は思っていましたが、いまや福祉や医療も、それらの原理が全面を覆っています。

ヤコポの事例であれば、いまでは、介助を行う体制や送迎を充実すべきだという意見が多いでしょう。「人間的な何か」はシステムの背後に隠れてしまいました。バスの乗客や運転手に彼の介助を頼むのは無責任だと考える人が多くなりました。「市場原理」に支えられたシステムしか目に入らなくなったのです。

 

僕らの仕事は、時に、無意味と思うことがあります。壁に突き当たり、トラブルに打ちひしがれる。悲しみは人生を豊かにしてくれますが、つらいことです。そんな時、思い出したら、この本を開いてください。見えにくくなった「人間的な何か」を気づかせてくれると思うのです。

あるいは、休日にこの本を枕にして昼寝をするとストレス回復になるかもしれませんよ。

それでは、身体をだいじにして、お元気にお過ごしください。いってらっしゃい。

 

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